四章、空蝉



 三、


「お探しの男はすでに死んでいますよ」

 男の口にした言葉を聞いて、少年はすっと眉をひそめた。まさかといわんばかりに口元にゆるりと笑みを浮かべる。

「死んでる? ありえない」
「そう言われましてもね。葛ヶ原のほかに毬街の記録もあさりました。でも“彼”は十三年前の件で死んだことになっている」

 目の前を米俵を積んだ荷車が通り過ぎる。
 毬街の大通りの角にある茶屋『くりのや』。赤い番傘の開く縁台に背中合わせに座った男と少年はひそやかに言葉を交わし合う。

「暗殺者“白雨黎”の噂、あるでしょう?」
「その名自体はいくつかの文書で見つけましたよ。かの白雨一族の生き残り。月光がごとき銀髪、腕から肩にかけての禍々しい焼き痕が印の男、と。けれども、実際“彼”に暗殺を頼んだという人間は存在しない。いわば、伝説のようなものです」
「――あの男は現れたんだ、葛ヶ原に。五年前」
「それが“騙り(かたり)”である可能性は?」

 男に問われ、少年はしぶしぶと口をつぐみ、「……ありえなくはない」と答える。男はそんな彼を肩越しに見やって、小さく嘆息した。
 
「差し出がましい口利かせてもらいますと。アレはもう終わったことだと思いますよ」

 終わったことだと思います、と彼は少年へ言い聞かせるように繰り返す。

「――雪瀬さま」

 名前を呼ばれた少年は濃茶の眸をつぅとすがめる。嫌悪感をあらわにした、この少年にしては珍しく露骨な表情だ。雪瀬は口に持っていきかけた湯飲みを受け皿に戻し、「“終わらせた”んだろう」と冷然とした声音で返した。







 颯音が数年前から使っている“隠密”の男はひどく自然に、まるでひとごみに溶け込むように雑踏の中へと消えていく。
 それを見送り、雪瀬は葛水のはいった湯飲みを手に取った。
 店先に吊るされた、渋い黒鉄の風鈴が、涼やかな音を立てる。遮断されていた喧騒が戻ってくるかのようだった。

「だめだったのか?」

 隣でがちゃがちゃと湯飲みに嘴を突っ込んでいた扇(あおぎ)が頭を上げ、短く尋ねる。雪瀬は微苦笑をもって返し、大通りへと視線を向けた。

「……残念だったな」

 ぽつりと扇が呟く。雪瀬は答えない。通りをざっと見回して、「来ないね」と嘆息した。  本日昼九ツ頃に毬街の茶屋“くりのや”で落ち合う、とのことであったのに。約束の人物はいっこうに現れる兆しがない。ゆらりと道を立ち昇るばかりの陽炎を眺めて、雪瀬はまさか騙されたのだろうかとふと考えた。

「だとしたら、やんなるなぁ。――扇。次何にする?」

 湯のみを空にしてしまうと、雪瀬はかたわらに置いていたお品書きをまた開いた。白鷺は少し小首をかしげるようにしてから嘴を開く。

「塩いか」
「俺、梅こぶ茶。あと氷水。あ、餡蜜も行こっか」
「どじょう鍋」
「よし」
 
 軽いやり取りのあと、雪瀬はぱたんと品書きを閉じる。ちょうど中から出てきた娘を呼び止め、

「えぇと、塩いかと梅こぶ茶とー」

 品書きをひとつひとつ読み上げていく。そのとき、きらりと細く。視界端で鋭い光が閃いた。

「きよ、」

 白鷺がこちらを呼ぶより早く、雪瀬は品書きをひょいと眼前へと突き出す。何かがぶつかり、こすれるような嫌な音が打ち鳴った。読み上げられる言葉へ耳を傾けていた娘さんが驚いた様子でお盆を取り落とす。
 見れば、品書きのちょうど角になってる部分と、刀身とがかみ合った状態になっていた。――間一髪。

「なんとも物騒なことで」

 雪瀬は足元に落ちたお盆を拾い上げて店の娘さんに返すと、呆れ混じりに眼前に立つ少女を仰いだ。笠を目深にかぶっているせいで顔は見えないが、肩からさらりと垂れる銀髪の三つ編みには見覚えがある。沙羅は刀を下ろして鞘に納めると、

「この前の仕返しです」

 と花が綻ぶように微笑んだ。
 そうして身を引く少女の後ろには、この暑いのに墨染めの着物を着込んだ男が腕を組んで立っていた。歳は五十代半ばといったところだろうか。淡紫という異形の色彩の眸、――すなわちしらら視であることを示す男の片眸は何やらひどく楽しげに細められていた。印象とは少し違うが、彼が人形屋・空蝉だろうか。

「よーぅ、会いたかったぜ同胞」

 腕を解き、男が片手を上げる。十年来の友にでも会うような気軽さだ。――さんざん遅刻しておいて。

「……あなたが人形屋・空蝉?」
「そっちは橘雪瀬か。沙羅に聞いている。――ん? お前眸の色が」

 空蝉はそこでふと何事かに気づいたように片眉を上げた。こちらに歩み寄り、そのまま至近距離でしげしげと顔を眺めてくる。「何……」と思わず雪瀬は一歩後ずさった。

「紫じゃねぇのな。濃茶だ。……ふぅーん、まぁどうでもいいが」

 それきり興味を失った様子で空蝉はこちらからついと視線を離す。ずっしりとした風呂敷包みを抱えなおし、道はどっちだ、と問うた。

「それは案内するけど。ねぇ、その風呂敷包み、何?」
「あぁそりゃあもちろん、」

 空蝉はにやりと口端を吊り上げ、指で丸を作る。

「金だよ」
「……カネ?」
「おうよ。金金金金、地獄の沙汰も金次第ってな。――さぁてそれじゃあ葛ヶ原とやらに案内してもらおうか」

 横柄な態度で言ってのけると、空蝉は雪瀬と扇を置いてさっさと歩き出してしまう。沙羅が楚々とそれに続き、扇のほうは不機嫌そうにかちかちと嘴を鳴らした。

「あのぅ、ご注文は……?」
「あぁ」

 困った様子でおずおずと尋ねてきた娘さんにお品書きを返すと、雪瀬はひとつ指を突き立てて微笑う。

「やっぱり餡蜜ひとつ。持ち帰りで」