四章、空蝉



 四、


 透一に見繕ってもらった白藍の地に夏花が散らされた小袖を襦袢の上に重ね、桜はきゅっと帯を締める。帯留めになっている小さな金魚がお気に入りで、事あるごとに手で触ってみたりする。木彫りのそれはひどく可愛らしい。
 髪を櫛で梳き終えると、ひらひらした金魚の尻尾の部分をまた指で撫ぜてみた。金魚が揺れて、水槽を泳いでいるみたいになる。無表情をほんの少し柔らかいものにすると、桜は心なし弾んだ足取りで部屋を出た。



 夏空に昇った太陽は今は少し傾きかけたところ。けれど陽射しは一向に弱まることがない。
 昼を過ぎ、油蝉はいっそう激しく鳴きたてて、林間をこだました。川べりの小道を歩いていれば、前から虫かごを持った子供たちが通り過ぎる。彼らの明るい笑い声と後姿を眩しげに眺め、桜は襟元から一枚の紙を取り出した。
 そこには墨で簡素な絵が描かれている。透一が渡してくれた、五條家への地図だ。桜は“薫ちゃん”にお礼を伝えに行く最中なのである。
 確かこの川べりをまっすぐ進むと、小さな橋が見えてくるはずなのだが――。
 桜は地図と目の前に広がる情景とを見比べ、あれ?、と小首をかしげる。陽光を反射し、きらきらと光っている水面にはしかしどこまで行っても橋が架かっている様子がない。どうしよう、通り過ぎてしまったんだろうか。

 考えて、道を引き返そうとするも、目の前に広がっている光景にはすでにあまり覚えがない。――生まれたこの方、狭い檻の中でずっと暮らしていた少女は地図を読むという能力にあまり長けてはいなかった。そのぶん、勘は鋭いほうであったのでおおまかな方向はなんとなく把握ができるのだが、ひとつの屋敷を探すとなるとなかなか難しいものがある。

「おやおや。何か、お探し?」

 地図をひっくり返したり、左右反対にしたりしつつ、桜が必死に目印を探そうとしていると、ふとどこからともなく声がかかった。
 桜はきょとんとして地図から顔を上げる。あたりに人影はなかった。ただ、そよそよと先ほどは吹いていなかった微風が川のほうからこちらへ向かって流れている。風に引かれるようにして土手へ降りると、そこに寝転がっている青年を見つけた。先ほどの声はこのひとだったのだろうか。

「『おさがし』?」

 単語の使い方がよくわからず、ただ鸚鵡返しに青年の言葉をなぞると、桜は立ったまま青年の顔をのぞきこむようにした。

「――……っ」

 細く息をのむ。陽光を透かして柔らかな光を帯びる青年の髪の色、眸の色、その面影にはとても見覚えがあった。

「どこに行きたいの?」

 驚いた顔になる桜に、青年は淡く微笑って「たぶんたいていのことならわかると思うけど」と言う。

「――ごじょうけも、わかる?」
「ゴジョウケ。五條、……薫ちゃんの家か」
「っそう!」
 
 薫ちゃん、の名が青年の口から紡がれたことで桜は勢い込んで身を乗り出す。はずみにはらりと手に持っていた地図が落ち、風に乗って、頭上高くへ舞い上がった。あっという間にそれは川のほうへと飛んでいってしまう。桜が慌てて土手を降りていこうとすると、

「それには及ばない」

 と背後の青年が笑みを含んだ声で制す。
 地図がまさに水面につくかというところでそれを微かな風が絡めとった。ひらり、ひらり、と桜の眼前を通り過ぎ、ちょうど青年の手元へと還る。まるで風を操っているかのようだ。

「はい、どうぞ」

 青年は身を起こして、濃茶の髪に絡まった草を払いつつ、桜に地図を返した。

「そこの地図に書いてある橋ね、夕べの大雨で流れちゃったんだ。だから探しても無駄だよ」
「じゃあ、ごじょうけ行けない?」
「大丈夫。この道をまっすぐ行くと、もうひとつ、大きな橋が架かってる。そこを渡って左に、――そうだね、首無し地蔵があるところまで歩いていくといい。お地蔵さんの前を右に曲がったら、きっと馬のいななき声が聴こえてくる。そこが、五條家だよ」

 流れるような説明は聞き取りやすくはあったのだけど、一度に言われると頭がついていけない。左で、首無し地蔵で、と桜が難しい顔をして指を折っていると、青年はおもむろに帯締めに下がっていた根付から筆と小さな墨壷を取り出して、地図の裏にさらさらと新たな絵を描く。

「はい、ここね」

 馬の絵と一緒にそこに丸が付けられる。これならば忘れることもないし、わかりやすい。地図を受け取って、ありがとう、とぎこちない所作で頭を下げれば、「どういたしまして」と彼は涼やかに微笑う。
 柔らかそうな濃茶の髪、それと同じ色の双眸、身にまとうた静謐とした空気といい、――やっぱりどこか見知った少年の面影が重なる。むしろ、彼が歳を経たらこうなるのではないのだろうかと。妙な既視感に襲われ、桜がじぃっと青年を凝視してしまうと、しかし彼のほうはそんな桜のぶしつけな視線にも苦笑気味に肩をすくめるだけで、また草むらに寝転がって瞼を閉じる。

「その代わり、俺がここにいたのは内緒ね。桜ちゃん」

 念を押され、桜はこくんとうなずく。眠ってしまったわけではないのだろうが、それきり言葉を発しなくなってしまった青年へもう一度お礼を言って、桜はきびすを返した。ほどなく一本の橋が見えてくる。それへ駆け寄りながら、そういえば私名前を言ったかな、と桜は不思議に思った。



 橋のほうへ駆けていく少女の姿を目で追ってから、彼は身を起こして大きく伸びをする。さやさやと絶えることのない風音の中、彼は風を読むように濃茶の眸を細めた。

「さぁて? こちらも蝉の抜け殻を迎えるべく準備をいたしますか」

 青年は立ち上がり、桜とは逆方向に道をとって歩き始めた。







 首のない地蔵の前を過ぎて右へ曲がると、まもなく馬の鳴き声が聞こえてきた。さっきの青年の言ったとおりだ。
 橘宗家ほどではないけれど、それでも“立派”という言葉に十分値する門構えの屋敷を仰いで、桜は少したじろいでしまう。ここをひとりで訪ねるにはかなりの勇気がいった。地図を畳んで襟元に入れ、そのまま胸に手を当ててほぅと息をつく。それから改めて門を見据え、並々ならぬ決意を持って脇に立っている衛兵らしき男へ声をかけてみようとするも。こちらを見やった衛兵が急に血相を変えた。

「門を開け!」

 短い命が飛び、衛兵たちが門を引き開ける。それを眺めながら、桜はひとつ眸を瞬かせた。どうしてだかしれないが、口に出さずにして桜の意向は伝わったようだ。よかった、と何の疑いもなく安堵して、桜は屋敷に入らせてもらうことにした。

「ちょ、そこっ、どいたどいたどいた!」

 刹那、背後から鋭い声が投げられ、馬の蹄の音が地を震わす。振り返れば、栗毛の馬がまさに桜の眼前へと迫ってくるところで。まったく予期しなかった事態に逃げるという当たり前のことも浮かばないまま立ちすくみ、桜はきゅっと目を瞑った。

「く、薫衣さまっ」

 衛兵の悲鳴が上がり、馬の高いいななき声が夏空を裂く。蹄の音が止まった。
 寸秒身をすくませてから、桜は恐る恐る片目を開く。目の前に大きな馬面があり、悪戯げな光を帯びた眸がこちらを見取ったかと思うと、荒い鼻息が顔に吹きかかった。前髪を巻き上げられ、桜は目をしぱしぱと瞬かせる。

「だぁーめ、イガグリ」

 馬上からひょいと身軽な所作で飛び降りた少女は馬の首元に手を置いてたしなめ、こちらを向き直る。

「悪い。大事ない?」

 淡茶の髪をうなじあたりで束ね、小袖に袴といった少年のような出で立ちだが、その声は女性特有の丸みがある。このひとが“薫ちゃん”なのだろうか。考えつつ、ほけっと少女を見つめ返していると、「……ほんと大丈夫だよなぁ?」とかがんで視線を合わせられ、心配そうに額に手を当てられた。と、茶色の眸が何がしかに気づいた様子で少し大きくなる。

「あー! 見覚えがあると思ったら、その小袖。――“桜”?」
「……“くのちゃん”?」

 お互いにお互いの呼称で呼び合い、その言葉でまた、相手が探していたそのひとであることを確信する。

「あぁそっかー、お前が桜なんだ。そういや黒だし緋色だし小さいし、扇の言ってたとおりだ」

 ひどく適当なかんじで桜の容姿を表現すると、そっかーそっかーと薫衣は嬉しそうに笑みをほころばせる。そしてきょとんとしていたこちらの頭を軽く叩き、「そ。五條薫衣(ごじょう くのえ)は私」とうなずいた。

「何、もしや私に会いに来たの?」
「……ん。ありがとう、って」
「わざわざ言いにか」
「うん」

 うなずくと、そっか、と薫衣は何だかこそばゆそうな表情をする。

「んーと、とりあえず家上がって。私もさー葛ヶ原中ひとを探し回って疲れたんだよ」

 駆け寄ってきた衛兵に馬の手綱を渡しながら話す。それから薫衣は何か思いついた様子で桜のほうを振り返った。

「と、お前まさか奴を見てないよな?」
「やつ?」
「ああ。濃茶の髪に濃茶の眸、胡散臭い笑みをいつも浮かべてる物知り顔した男」
「うさんくさい、」
「心当たりあるのかっ」

 あるといえばあるような気もしなくもない。先ほど土手で道を教えてくれた青年の顔を思い出して桜はうなずきかけ、――しかし中途でふるりと首を振った。

「“ないしょ”?」
 
 彼とした約束のとおりに答えれば、薫衣はいぶかしげな顔をしたあと、あの野郎と並々ならぬ殺意を持ってごちた。