四章、空蝉



 五、


 通されたのは、日当たりの良い一室だった。
 どうやら薫衣の自室であるらしい。
 この家の者らしき老婆が冷えた麦茶と黒蜜のかかった葛切を置いて、楚々と部屋を出て行く。他にひとの姿は見えなかった。老女や衛兵たちへの接する態度や言葉からすると、たぶんこの家の一番偉いひとが薫衣なのだろう。
 
「どーぞ。暑かったでしょ」

 薫衣はこちらに茶を勧め、自分は老女が庭から摘んできたのだと話していた花の茎を鋏で切り捨てる。深い紫色をしたその花は、確か菖蒲という名前だったはずだ。薫衣は茎を切って長さを揃えたそれらを見比べるようにし、難しそうな顔で唸る。しばし悩んでから、心を決めた様子であとはざくざくと花器の剣山に挿していく。

「着物。気に入るのあった?」

 出されたお茶にも口をつけず、ただ薫衣の手元を眺めていると、花を挿していた手がすいと動き、鋏を手に取る。ぱちん、と切られる茎をやはり見つめながら、桜は首を縦に振った。「きんぎょ」と帯留めをいじりながら答えれば、薫衣は「そっちか」とおかしそうに肩を震わせて笑う。
 鋭い剣の切っ先のような葉。深い紫の花弁。凛とした立ち姿が黒い花器に映える。ぱちん、と薫衣はまた茎を切った。

「葛ヶ原のほうは慣れた?」
「んと、慣れた」
「結構暑いでしょー? 盆地だからさ、夏は暑いし、冬は寒い。海が近いから湿気も多いし」
「うみ?」
「まだ見てない? おっきな池みたいなとこ。青くて」
「大きな池……」

 橘宗家の庭にある池を思い返しながら、あれが大きくなっているってどんなかんじだろうかと桜は考える。

「じゃあコイも大きくなる?」
「鯉は塩水には住めないからなぁ。でも別のおっきな魚ならいる」
「別の?」
「夏になると漁が盛んになるよ。葛ヶ原は漁と塩作りで有名なんだ。二百年前、この地を開いた橘の初代の時代からずぅっとな」

 桜は小さく息をのむ。二百年。とても長い年月だ。
 もっと話が聞きたくって、胸をどきどきさせながら薫衣を見つめて待ってみていると、「聞きたいの?」と薫衣が苦笑する。ききたい、と桜はうなずいた。

「成程。野良猫かつ子犬……」
「ねこといぬ?」
「いやいや、こっちの話。――ああ初代の話だっけ? 開祖の華雨(はなさめ)はね、橘で唯一の女当主だったんだ」

 鋏を置き、湯飲みを取りながら薫衣が説明する。

「史書によれば、ふたつの術を使ったとされる。二百年前、この国が南北ふたりの帝を立てて内乱を起こしていたときも、影ながら北の東雲皇子に助力し、彼を帝位につかせたのだとか。その功で葛ヶ原を拝領し、以来、異族の住まう『鎮守の森』に対する国の最果ての要塞としてずっとこの土地を守ってきた。それが、風の一族。橘一族だよ」
「風の、」

 彼女の話はまるでお伽話か何かのようだ。桜は言葉を挟むのも忘れてじっと聞き入ってしまう。風の一族・『橘』。その開祖であるという華雨。いったいどんな術を使って皇子を助けたのだろう。それでそれで、と桜は先をせがんで軽く身を乗り出した。

「おい薫衣!」

 そのとき、けたたましい風切音が打ち鳴り、眼前を白い肢体が通り過ぎる。留まる場所を探すように部屋を旋回した白鷺は断りなく桜の頭の上に降り立ち、嘴を開く。

「空蝉が来た。今、至急で長老会が召集されたぞ」
「空蝉? ああ雪瀬が迎えにいったのか?」
「そうだ。あいつめ、時間に一刻半も遅れてきやがった」

 白鷺の意外な重さに桜は潰されそうになっていたが、双方それどころではないらしく、桜を無視した言い合いが続く。

「今大至急長老たちを集めているところだ。お前も早く来い」
「ったく。あのやろ、だから宗家にみなを待機させておけって言ったのに! 当主さまもまだ不在だろう?」
「いや? 長老たちを召集したのが他でもない颯音だが?」
「は?」
 
 一瞬あっけに取られた様子でぽかんと薫衣が口を開く。その表情がみるみる怒りに染まっていった。

「私を葛ヶ原中駆け回らせといて、あいつ! ――おい、馬一番速いの用意して!」

 扇から遅れること少し、部屋に駆けつけた衛兵に薫衣が命ずる。と、桜にのしかかっていた重みが消えた。

「じゃあ薫衣。先行ってるぞ」
「ん、五條薫衣、少々遅れるかもって言っておいて」
「わかった」

 短い応酬のあと、扇はぱっと身を翻して一直線に空を駆け抜けていく。薫衣は最後の菖蒲を挿し終えると、立ち上がった。
 慌しく完成となった生け花を眺め、桜はひとつ目を瞬かせる。

「っと、桜、お前も来るか?」

 夏羽織に袖を通しながらこちらを振り返り、薫衣はそこで動きを止めた。こちらの視線を追い、「……なんだよ?」と不機嫌そうに訊く。
 美しい菖蒲は見事に奇天烈な曲線を描き、黒い花器におさまっていた。切り方は普通だったのに、どうしてこんなにおかしなことになってしまったんだろう。桜はきょととそれを見つめてから、少し考え、ふるふると首を振った。




 薫衣につかまって馬に乗り、橘宗家に帰ってくる頃には屋敷にはかなりのひとが集まり始めていた。
 宗家に着くなり、薫衣は慌しげに屋敷の中へ入っていってしまったので、桜はひとり置いてきぼりをくってしまう。仕方なく自分の部屋に戻ろうと母屋の廊下を歩いていると、集まった長老の一群に押し返され、自分が行きたいほうへ進むことができない。ひとの流れに流されるがまま母屋の一室、広い座敷へとたどりついた。中に入っていく長老たちの波に押され、少しよろめきながら桜は襖からそっと中へ顔を出す。

 座敷にはすでに数十人の長老が集まっていた。彼らは両側に分かれて座しており、最奥の部屋の正面にあたる場所には薫衣や透一の姿も見える。
 彼らを脇に控えさせ、中央に座るのはひとりの年若い青年だ。脇息にゆったりともたれかけ、はたはたと扇子を仰いでいる。別に着飾っているわけでもないのにその姿には育ちがよい者ならではの鷹揚さと気品があり、――そこであれ?と桜は目を瞬かせた。よく見れば、先ほど道を教えてくれたあの青年ではないか。どうしてこんなところにいるのだろう。

「アレがね、うちの当主サマ」

 そっと耳朶をかすめた声に驚き、桜は背後を仰ぐ。ちょうど逆さまに慣れ親しんだ少年の顔が見えた。

「とうしゅ?」
「橘颯音(たちばな さおと)。俺の兄」

 簡潔に言い添え、雪瀬は襖に手をかける。つい追って入っていこうとした桜の額に指をつけ、「ここから先は立ち入り禁止なのです」と軽く爪弾く。額に走った軽い痛みに桜が捕らわれている隙に襖が閉じられた。