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一章、新帝(12)




 即位礼の祝宴は、七日七晩夜通しで行われた。
 七晩目になると、さすがの酒豪どもでもほうぼうでぐったりと潰れている者ばかりだ。酒を持ってこいと威勢よく騒いでいるのは、あとはもう南海の網代あせびくらいだろうか。

「よもや、そなたがまかりこすとは思わなかった」

 白湯で咽喉を潤していた朱鷺は、数日ぶりに見かけた黒衣の男に声をかけた。初めの晩だけ参加し、あとは宴から外していたらしい。月詠の白皙の顔には酔いの気配はなく、ただ少し痩せたようだ、とだけ思った。前の年もそのように思った気がするが、今年はさらに。
 暑気のせいか、あるいは、かたわらに置いていた娘がいなくなったからか。
 考え、朱鷺は苦笑とともに思考を打ち消した。この男がひとを愛するようにはとても思えなかったからだ。

「身体はもうよいのか」
「もともと、良くも悪くもならぬ身体ですので」

 肩をすくめ、月詠は溶けかかった氷水を口に含んだ。体調不良を理由に表にこそ姿を見せなくなったが、依然丞相職には月詠が就き続けている。他に見合った人間がいないのが理由のひとつだが、未だに老帝――院の月詠への信は篤く、すぐには代えることができないのが実情だった。加えて、月詠は末皇子の後見でもある。
 丹の剥げた高欄からは、月光が射している。
 かそけき光を頬に受けた男の横顔を見やり、朱鷺はふいに試したくなって口を開いた。

「月詠。そなた、俺のもとにつく気はないのか」
「異なことを仰せられる。百官は皆、帝に忠誠を誓っておりましょう」
「ふん。だといいがな」

 腰に挿した扇を開いて、朱鷺は息を吐いた。戯れに訊いてはみたものの、月詠は決して、こちら側にはつかないだろう。この男の目的が朱鷺にはわからない。しかし、何らかの意図をもって動いていることは察していた。でなければ、あのような子どもが生まれるわけがない。

「緋の眸は、白雨直系の女児にのみあらわれるものであったな」

 朱鷺は開いた扇で顔を覆った。
 
「――……月は、そなたの計画のうちか」
「はて、異なことを仰せられる」

 先ほどと同じ言葉を返した男の手のうちで、割れた氷が音を立てて溶ける。





 即位礼の最後の宴は、乞巧奠(きっこうでん)で締められることに決まっていた。
 乞巧奠といえば、伝統ある行事のひとつであり、特に星天下の箏の演奏は、幽玄な情景とあいまって楽しみにしている者が多い。箏弾姫には毎年良家の子女がこぞって名を挙げるもので、今夜とて選りすぐりの才媛が務めることに決まっていたはずなのだが。

「どうして、また、わたしなの」

 桜は髭面の役人を睥睨した。
 正直、去年の藍の一件で処罰されかかったこともあり、乞巧奠にはよい記憶がない。それに桜は今は月詠の妾ではなく、何の後ろ盾も身分も持たない、ただの娘に過ぎなかった。

「急な腹くだしでございます」
「どういうこと」
「貝にあたったようでございます」
「代役は」
「代役も一緒にあたりました」

 淡々と事実を述べた役人が桜の両手をむんずとつかむ。

「運び手と奏者までは見つかりましたが、あとひとり、ひとりだけ代役が足りないのです。ほかに箏弾き姫の作法がわかっていらっしゃるのは、先年につとめた桜様、あなただけでございます。どうか、このわたくしを救うと思って。どうか。どうか!」

 平伏に平伏を重ねられ、桜は眉根を寄せる。
 もともと、ひとに頼まれること自体に慣れていないのだ。単純な性分もあって、自分にできることなら、とついうなずきたくなってしまう。本当に今年きりなら、と約束し、桜はもう着ることはないと思っていた箏弾姫の衣袖に腕を通した。とにかく重ねる衣と結ぶ紐が多い衣装だったが、去年縞に手伝ってもらったため、今年はそう時間をかけず、着ることができた。
 天河を描く二藍の唐衣と淡青の単、濃色の長袴。長い髪を結い上げると、薄く白粉をはたいて、唇に紅を挿す。

「桜! 何故ここにおるのじゃ?」

 重たい衣裾を持ち上げて、きざはしをのぼっていると、殿のほうから皇祇が飛んできた。

「今年の箏弾き姫がおなかを下したから、その代わりに」
「ほんとうだ。なんぞ、ぴらぴらしておる」

 物珍しそうに唐衣の袖に触れて、皇祇は呟いた。皇祇の手の上で、天河を描く銀糸が艶やかに踊る。宵の頃であるため、しつらえられた舞台のそばではいくつもの篝火が焚かれていた。並んだ吊り灯籠にも明かりが入れられ、濃い陰影が足元に落ちる。

「のう桜、」

 皇祇がもの言いたげなそぶりをしたので、桜は思わず背筋を正してしまった。妃の件はもう何度も断っているのだが、うまく伝わっていないのか、顔を合わせるとまた同じ話に戻ってしまう。だけども、それも都にいるうちにきちんとさせなければならなかった。桜はこぶしを握って、毅然と顔を上げる。

「あの、あのね。皇祇、」
「皇祇さま! いったいどこへおいでです! 絵島様が挨拶にいらしているというのに!」
 
 だが、あと少しといったところで稲城の声に出鼻をくじかれた。どうやら、百官のひとりが皇祇のもとへ酒を注ぎに来たらしい。皇祇は、しまったという様子で顔をしかめ、桜に目を戻した。

「う、うむ? 何か言ったか、桜」
「……いいです。また、あとで」
「ならば、箏弾き姫の演奏が終わってからだ。客席で見ておるから」
「皇祇さま! はよう!」
「わかったと言うておる!」

 稲城に半ば引きずられるようにして、皇祇はきざはしを降りていった。小さく息をついて振り返った桜は、少し離れた欄干にひょいと腰かけた男に気付いて、瞬きをした。出て行ったときは黒の直衣だったが、今はさすがに別のものに着替えている。雪瀬だった。七日七晩の祝宴で、誰も彼もすっかり酔いどれと化していたが、このひとばかりはいつ見ても、さっぱり素面の顔をして、盃を持っている。

「……いつからいたの?」
「さあ、いつからだと思う」

 そういうはぐらかし方をされるのは好きでないので、桜は憮然としてしまった。それに、桜と皇祇のやり取りを最初からぜんぶ見ていたのなら、余計たちが悪い。むっと唇を引き結んだまま、欄干に手をついて、近くに生えている木々を見渡す。

「何探してんの?」
「花挿にする花」
「そう」

 箏弾き姫は、結った髪に自ら探してきた花挿をするのがしきたりだ。去年、桜は橘の枝を花挿に選んだ。それがないかと探していたのだが、近くに生えている樹は楓や花水木などの落葉樹で、目当てのものが見つからない。
 雪瀬は小さくわらって、盃をことん、と欄干に置いた。

「じゃあ、俺が持ってる花枝をかそうか」
「ほんとうに?」
「後ろ向いて。挿すから」

 いったいどうして花枝なんて持っているんだろうと疑問に思ったが、あまり深く考えずに背を向けた。雪瀬の指先が桜の髪にそっと触れる。こういうときの雪瀬は普段の泰然とした様子が嘘のように、こわれものを扱うかのように、桜に触れる。どうしてだろう。その指がつかの間ためらった風に見えて、桜は不思議に思った。

「ねえ。桜さん。――……」

 そのあとに続いたはずの言葉は、わっと上がった歓声にかき消されて、結局桜には聞こえずじまいだった。

「何か言った?」
「ううん」

 花挿は挿せたらしい。微かな重みをたどって、桜は結い髪に指を触れさせようとした。それを雪瀬の手がはばむ。

「だめ。変になるから、終わるまで触っちゃ」
「でも、」
「だめだってば」
「……じゃあ、何の花を挿したの?」
「桜の花」

 桜は瞬きをした。

「夏なのに?」
「だいじょうぶ。ちゃんと、咲いてるよ」

 桜にはよくわからないままだったが、問答を重ねる前にお呼びがかかってしまった。しぶしぶきびすを返すと、「いってらっしゃい」と雪瀬は浅く腰を掛けた欄干からそれを見送った。




 去年に引き続き、桜が務めるのは箏の調弦だった。一番目の箏弾き姫が運んだ箏をあらかじめ聞いていた音に合わせていく。箏はあのあとも翡翠宿でときどきいじっていたから、音はわけなく合わせることができた。去年は藍がいなくなって騒動になってしまったが、今年は滞りなく三人目の箏弾き姫に引き継ぎ、胸を撫で下ろす。

 とんてん、からりん
 さぁらりん、かぁらりん

 箏弾き姫の演奏は、穏やかなやさしさに満ちていて、酒に酔った者たちの耳に柔らかく溶けた。満月がちょうど中天に架かり、箏弾き姫の白い手のひらを冴え冴えと映す。感嘆の息とともに終わった演奏を桜は目を細めて見届けた。一年をまたいでしまったけれど、やっとやりおおせることができたのは、素直にうれしかった。

「今宵の箏弾き姫に祝福を」

 新帝の言祝ぎを受けて、奏者をやり遂げた少女が頬を赤らめる。箏弾き姫を務める少女のうちで一番はやはり奏者であるので、あの少女にはこのあと帝からの下賜があるにちがいなかった。長い裳裾を踏まないようたぐって、桜はその場を辞去しようとする。それを脇から伸びた手が止めた。

「桜。先の話の続きじゃ」

 手首をつかむ皇祇を見上げ、桜は声を失する。
 まさか、ここで。新帝がおり、百官がおり、領主たちもいるこの場で、皇祇は話を始めるつもりなのだろうか。さすがに気が引けて、「でんか、」ととっさに呼称のほうで諌めようとしたが、「いいか、よく聞け」と皇祇は桜の両手を引き寄せた。

「この数か月、そなたに嫌われたらどうしようだの、どうすれば好かれるだろうだの、あれこれと考えたが、答えが、まったく、出ぬ!! ゆえ思案はもうやめにした!」

 談笑していたひとびとがいぶかしげに言葉を止めて、皇祇と桜を遠巻きに見守る。止めてしかるべき新帝も稲城を制してにやにやと静観しているから、分が悪かった。皇祇は真剣そのものの顔で大きく息を吸い込んだ。

「そなた! 俺の妃になれい!!!」

 悩んで悩んだ末に、命令形になるのがなんだか皇祇らしい。勢いに押されて口をつぐみ、ふと目の前の少年が虚勢の裏でいたく緊張しているらしいことに気付く。そういえば、桜だってそうだった。雪瀬に気持ちを告げるときは緊張して、逃げ出しそうになるのをこらえて、それこそ戦場にでも赴くような心持ちで向き直ったのだ。戦場。そう、戦場なのだ。
 桜は覚悟を決めて、震える少年の手をつかんだ。

「殿下。わたしは――」
「いいえ」

 さなかに別の声が遮ったため、桜と皇祇は瞬きをする。
 いったい何事だろうと集まった酔いどれたちを非常に迷惑そうに見やり、雪瀬は息を吐いた。

「何か言うたか、橘」
「いいえ、と言いました。この娘はあいにくあなたの妃にはならないので」
「ならない? 何ゆえじゃ?」
「さて、お気付きになられなかった?」

 雪瀬の手が桜の結った髪に触れる。正しくはそこに挿された花挿に。
 すいと花挿を引き抜きながら、雪瀬は何故か皇祇ではなく、別のものを見ているようだった。視線の先にいる女を、桜は見つめた。雪瀬は藍を見ていた。だけども、藍を通して、さらにまた別のものを見ているのかもしれない。さだめであるとか、もっと遠くの、大きくて、圧倒的な何かを見定めているような、そういう眼差しを雪瀬はしていた。

「この娘は、俺が妻にする女だから、誰にも差し上げません」

 引き抜かれた花挿は、銀色をしている。
 銀の簪。東に伝わるそれは、男が嫁取りをする際に差し出す花嫁簪だった。




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