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一章、新帝(11)




「つまり、あやつらは単なる意地張りの阿呆どもなのよ!」

 むん、と腰に手を当て、蝶は言った。
 兄である朱鷺に即位礼前の最後の挨拶を済ませた帰りである。萌葱の組紐で高く結い上げた白髪を揺らして、蝶はきびきびと歩き、真砂はそのあとに数歩あけてついていく。お決まりの光景だ。

「お互い好き合っておるのだから、あとは少し、素直になるだけだとは思わんか。皇祇はまあ、かわいそうだが、初恋は破れてなんぼのものだからのう。殿方は恋に破れてから色気を増すゆえに。なあ、下僕。そう思わんか、おい下僕」
「……ワタクシめとしては、あなたさまが素直について説かれることに甚だ疑問を覚えてるんですけど、とりあえず下僕って誰。何。ドチラサマ」
「ああ? 下僕を下僕と呼んで何が悪い。そなたのほうから蝶の下僕になると言うたのではないか。だいたい――、おや」

 蝶が袖を引くので、真砂も足を止めた。この娘の正式な護衛となり一年ばかりが経つが、近頃ではすっかり下僕呼ばわりが板についてきた上、自然と蝶の意向を汲むような動きをしてしまう自分に若干辟易とする。どう考えても自分は下僕体質などではないはずなのに。おかしい。
 
「そなた、月(つき)ではないか」

 対面から蝶と入れ替わりに朱鷺の御座所へ向かっていたのは、女官に抱えられた赤子――老帝の末皇子だった。氷鏡藍が産んだ皇子で、幼名は月という。産着にくるまれた赤子をみとめるや、蝶はうれしそうに破顔した。

「久しぶりよのう。御七夜の祝いのきりか? 元気にしておったか」
「蝶姫さまもお変わりがないようで」

 藍は産後の肥立が悪く、床に臥せりがちだと聞いていた。藍付の女官の胸に小さな額をこつんとあてて眠っている赤子を見つめ、「かわいいものじゃ」と蝶は目元を綻ばせた。藍同様、月もまた身体の弱さを理由に表に出ることがあまりなく、真砂に至っては今日はじめて尊顔を拝したくらいだ。絹の柔らかそうな産着からのぞく髪は噂どおりの黒。外の陽を知らない膚は蒼く透き通っている。不自然に伸ばした前髪を撫でつける女官に気付いて、真砂は顔を上げた。

「……何か?」
「いや」

 取り立てて言及するところもない、平凡な四十絡みの女性である。何か記憶に引っかかる気がしたが、今ひとつ思い当たらず顎をさする。赤子を抱いた女性がくすりと少女めいた笑みをこぼした。その、笑い方。
 かつて中務卿の隣に座る女を遠目に眺めて、思ったものだ。ああ、公家の女はかくも苦労知らずだから、いつまでたっても若いんだなと。

「蝶」
「っと、何をする。月が落っこちるではないか」

 肩を引くと、眠る月を女官から受け取っていた蝶が唇を尖らせた。

「行きませんかね。そろそろ」
「だが……」

 ためらいがちに腕の中の赤子に目を落とした蝶に、「月殿下も、蝶姫様の腕の中では静かに眠っていらっしゃいますね」と女官が今のやり取りをまるで聞いていなかった様子で微笑む。面倒になり、真砂は口を開いた。

「そもそも、何ゆえあなたさまがここにいらっしゃるんでしょーか。やもめになられたのでは?」
「今は、絵島殿の妻です。春には子どもも生まれたのですよ」

 子を作る年齢を越したはずの女がふふっとわらう姿は、異形じみた気味の悪さがある。

「真砂。失礼じゃ」

 さすがに剣呑な空気を感じ取った蝶が諌める声を出した。

「おまえは初対面の御方にやもめだのなんだのと……」
「あら、わたくしはよく存じていますよ」

 仮にも姫皇女を平然と遮り、女官は弓なりに目を細めた。

「史(ふみ)殿がよく嘆いておられましたもの。東の田舎者。おまえたちは皆卑しくて、野蛮で、醜い。そっくりですわ、わたくしの前に現れた『鬼』とおまえはそっくり」
「失礼な。俺のほうがずっといい男ですぜ」
「真砂。この方はいったい……」
「鬱金(うこん)様ですよ。覚えていらっしゃらない? 玉津卿の奥方の」

 名前を聞いても、心当たりはなかったらしく、蝶は顔をしかめた。それも無理からぬことだ。玉津卿はともかく、鬱金は屋敷からめったに外に出ない姫君であったし、雪瀬が玉津卿を滅ぼしたあとは、誰もが存在すら忘れていた。
 ここに、いたのか。
 つつましやかなそぶりで目を伏せた女を見て、真砂は眸を眇めた。
 そのとき、蝶の腕の中にいた赤子が急にぐずり出す。

「おお月、泣くでない。泣くでないぞ」

 背を叩いてあやしていた蝶がふと動きを止める。一瞬悲鳴を上げかけたのをかろうじてとどめたのは、蝶の理性と、あとは友人によく似た容貌の娘がいたためだろう。ぱちりと開いた赤子の眸は、血のような緋色だった。黒髪に、ましろの膚、緋の眸。まるで、と真砂は思う。まるで、あの娘そのものじゃないか。
 
「月様。ほうら。このばばめがいますからね。ほうら」

 か細い声で泣き出した月を鬱金の細い腕が取り上げる。月を引き寄せ、うっそりと微笑む女を見つめ、殺しておいたほうがよかったんじゃねえの、と真砂は胸中で問いかけた。この女、あのとき殺しておいたほうがよかったんじゃねえの。雪瀬。
 鬱金は赤子をあやして、ころころと笑っている。
 




 雨上がりのにおいのする甘い風が額を撫ぜた気がして、桜は目を開いた。
 半分ほど開かれた障子戸に鳥影がよぎり、濡れ縁に出た雪瀬の腕にふわりと白鷺が舞い降りる。まだ夜明け前なのか、雪瀬の足元に落ちる影は青い。

「まったくおまえは。このくそ暑い中、東くんだりまで往復させやがって」
「ごめん。あんまり遅いから、来ないかと思った」
「彫金師まで指定しなけりゃ、はやかったさ」

 ごちた扇が首にかけた包みを雪瀬に差し出す。中に入っていたものを雪瀬が薄明りにかざすのが見えた。表情はわからなかったけれど、「これでいい」とだけうなずき、手の中のものを箱にしまう。

「せっかく東一の彫金師に頼んだんだ。もっと手の込んだものを彫らせればよかったのに。希少な石を入れるとか」
「うるさいな。いいんだ、これで」

 いったい何の話をしているんだろう。もう少し聞いていたかったけれど、ひとの熱がこもった褥の中にいると、意識がほどけて、夢の中に戻ってしまう。抗いきれなくなり、桜はゆるゆると目を閉じた。
 次に目を開けると、扇はいなくなったあとで、代わりに正装用の黒の直衣に腕を通している雪瀬が見えた。それで、さすがに身を起こす。あたりは曙色に包まれ始めていた。
 今日の夕、朱鷺皇子は帝に即位する。
 雪瀬たち諸領主、並びに宮中の百官は御所にのぼり、即位礼に立ち会うことになっていた。

「起こした?」
「……もう出るの?」
「午前には始まるから」

 雪瀬は器用なので、桜からすると複雑そうな着衣でも難なくひとりでこなしてしまう。下染めに藍を使った墨色の直衣は、光が射すと艶やかな蒼い光沢を放ち、一晩焚き染めた荷葉の香りがくゆる。頬を擦り寄せたい心地に駆られたが、さすがにかたちが崩れるので我慢した。

「蝶や皇祇もいるかな」
「皇族はたいてい揃うよ。俺は端っこのほうだから見えないけど」
「蝶はきれいだろうな」
「見たかった?」
「見たかった」

 素直にうなずくと、淡い苦笑が落ちる。襦袢の上にかけていた桜の羽織を引き寄せて結び、雪瀬はあらわにした額にふわりと口付けた。まるでたやすくそんなことをするので、桜は次の言葉を飲み込んでしまった。

「気を付けて」

 外に出る背中にかろうじてそれだけを告げる。
 まるで残り香のように桜の頬を撫でた風が雪瀬のほうへ帰っていく。





 平栄五年、七月朔日。
 朱鷺皇子、即位。およそ半世紀ぶりの若き帝の誕生であった。
 即位礼が始まったとき、時間は夕刻に近かったが、日差しの強さは和らぐことなく、天に掲げられた旛はますますまばゆく輝いた。玉砂利の上に茜染めの衣を折ってかしずくのは、文武百官。近頃不調を理由に表に姿を見せることがなかった丞相も、このときばかりは幽鬼にも似た蒼白い顔で現れ、新帝を仰いだ。さらには各地の領主たち。南海の網代あせびを筆頭に、黒海、白海、青海の諸領主。東からは、毬街の総代五條苑衣。瓦町の百川刀斎。葛ヶ原の橘雪瀬。
 皇子皇女たちも真白の衣に身を包み、殿のうちにて立ち並ぶ。新帝と母を同じくする弟、皇祇。妹の蝶姫。それから、氷鏡藍に抱かれた末子の月。老帝そのひともまた院の御座に腰掛け、いとおしそうに赤子の皇子を見つめている。

「即位はあいなった。元号は平栄改め、朱頴元年」

 新帝が玉声をもって、改暦を告げる。
 それを南殿から離れた人知れぬ場所で、黒衣に身を包んだ男たちも見ていた。濃茶の眸を冷ややかに眇めて膝を抱えた男は、まぶしげに旛を仰ぐ東の領主をひととき見つめ、やがて視線を落とした。さりとて、表舞台にのぼってはいない彼らの名をここで連ねるのはまだ尚早であろう。
 しかし、新たなる火種はまかれている。
 炎天下、燃えゆく松明が天(そら)へと掲げられる。
 燃える、燃える。炎が燃える。
 平栄五年。改め、朱頴元年。
 その日、新帝は即位した。
 のちに炎帝と呼ばれる、数えて七十六代目の帝である。




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