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一章、新帝(10)




 ずっと月ごとの墓参りを欠かしたことがない。
 知っているのは、馬の風音と、墓守の紫藤(しどう)くらいだ。公務の合間を見つけて風音を走らせ、墓地のある高台にのぼる。たいてい、ひとはあまりいない。紫藤はいつものんびり草むしりをしていて、特段話しかけてくることはなかったので、雪瀬はひとりでいくつかの墓前にかがみ、手を合わせる。何に対して祈っているわけでもない。だけどもそうしていると、少しだけ何かが和らぐ心地がするので、しているだけだ。

「連れて来られないのですか」

 珍しく紫藤が声をかけてきたのは、雪が降りそぼる初冬の頃だった。いつものように手を合わせていた雪瀬の後ろに紫藤が立ち、大きな傘を差し出す。離れた樟の下で、風音が白い息を吐き、寒そうに鼻を鳴らした。

「……誰を?」
「桜さまを」

 そういう考えを思いついたことはまるでなかったので、雪瀬は眉をひそめた。
 紫藤は苦笑する。

「いつもおひとりで参らずともよいのに、と思っておりました」
「わざわざ、連れてくるような場所じゃない。彼女は今毬街にいるし」
「こちらに呼ばれないので?」
「言ったけれど、断られた」

 そうして自分で船宿の仕事を見つけてくると、葛ヶ原を出て行ってしまった。おおよそ雪瀬の言うことを拒まない彼女がはっきりと己の意思を口にするのは珍しく、結局雪瀬はそれをゆるした。未だに、あのときの彼女の胸中はわかるような、わからないような気がする。
 昔なら、彼女が考えていることも、感じていることもたやすく見通すことができた。けれど、再会したあとの彼女の心は、前よりももっと複雑な万華鏡のようになってしまって、ときどきつかめないことや、理解できないことがある。わからないというのなら、でも本当はもっと根本的なところで、わからない。彼女は何故こんな男を選ぶんだろう。こんな男を愛したがるんだろう。

「雪瀬様は、恐れておいでなのですよ」

 紫藤は皺の刻まれた顔をかなしそうに歪めて呟いた。

「愛することを恐れておいでなのです。だから、このような爺がわかるようなことも、おわかりにならない」





 ふわりと額に何かが触れた気がして、雪瀬は目を開いた。
 真新しいみどりの畳に雨影が落ちている。内裏から戻り、薫衣の上げた報告を読むうちに眠ってしまったらしい。視線を上げると、かたわらにかがんだ少女が離れていくところで、黒髪の毛先が横たわった自分の肩のあたりに触れていた。別に何をするつもりでもなかったのだが、おもむろに揺れる髪房をつかみ寄せると、わっ、と小さな声が上がる。

「起きてたの?」
「……いま、起きた」

 桜は何故か頬を赤らめて、「うなされているみたいだったから、だから」と消え入りそうな声で呟いた。うなされているみたいだったから、どうしたというんだろう。桜は離れようとしているらしかったが、雪瀬は捕まえた髪房に深く指を絡めて、たぐった。彼女の頬に触れてあたたかさを確かめ、顎をとらえて唇に指の背で触れる。そういう風に物欲しげなそぶりをすると、桜は息を吐いて、雪瀬の手のひらにすべてを委ねようとする。
 ときどきこわくなるくらいに、桜はいつも雪瀬に従順だった。
 探り合いも何もなくて、望むと、まるで当たり前のようにすべてを差し出そうとする。引き寄せると、やわい唇が重なった。これからすることが雪瀬はわかっていたから、最初だけはやさしくて、丁寧な口付けをした。もどかしげなそれを少しの間重ねてから、深く口づけていく。そうしながら、彼女は、わかって、いるんだろうか、と考える。自分が今、何から逃れて、何を忘れたがっているのか。
 わかっていないだろう、と思う。桜は何も知らない。藍のことも、凪とのことも、雪瀬はただの一度も桜に話したことがない。自分でも呆れたくなる身勝手さに、彼女はきっと気付いていない。
 そのくせ、見透かされているとも思う。
 見透かして、でもゆるして、差し出してくれているのだろうとも。
 桜はほんとうは、雪瀬よりずっと大人で、聡明だ。頑なに何も問わずにいることが、幼さや無知によるものではなく、彼女という人間の分別であり、愛情であることに雪瀬ももう気付いている。
 腕を引いたはずみに、おぼつかない体勢は簡単に入れ替わった。反対に組み敷かれた少女は、まぶしそうに雪瀬を見上げる。外で糠雨が降っているせいで、畳にも、桜の淡紅色の小袖にも、まるい波紋を描いている。うしろめたさからなのか、単純に人恋しかったからか、雪瀬は求めた少女をとても大事にしたいような気持ちに駆られた。

「どうしてほしい?」
「どうしてって、」
「俺に言ってほしいことがあるのでしょ」

 雪瀬は察している。妃になれ、と皇祇に求められた彼女が、それを一蹴した彼女が、心の奥底で何を望んでいるのか。察している。あいにくと雪瀬はそう鈍感なわけでも、純朴ゆえの盲というわけでもなかったので。彼女が言ってほしいというなら、別に、言ってもかまわなかった。あいしているとでも。なんでも。そういう睦言が欲しいなら、言ってもかまわない。それで、彼女が少しでも満たされるなら、別にいいんじゃないかと、今は思った。
 だって俺はこんなにも彼女を巻き込んで。踏み躙って、傷つけているのだから。
 惑うた様子で桜は雪瀬を見上げる。ためらいがちに口を開いてから、また目を伏せるので、雪瀬はうながすように唇のふちに触れた。緋色の眸にゆるゆると水膜が張りつめ、ああたぶん泣かれる、と思う。

「……らない」
「なに?」
「いらない。わたしは」

 桜は何かを恐れるように、眉根を寄せた。
 そうして一度閉ざされた眸が雪瀬を見つめる。万華に移ろううつくしい緋。

「わたしは雪瀬が欲しい。雪瀬なの。ほかに欲しいものなんてないよ」

 白い手のひらがいとおしげに頬に触れる。
 彼女はいつも、そうだった。こわごわと手を伸ばしてくる。拒まれるのを恐れて、それでも勇気を出して、手を伸ばしてくれる。雪瀬は桜に触れるのが、いつも少しこわい。雪瀬の手は決してきよらかではないからだ。

「いいの、それで」
「どうして?」
「もどれなくなる」

 ちいさく吐息がこぼれた気がして、雪瀬は桜を見つめる。
 彼女はどうしようもないことを聞いた様子で、にがく微笑んだ。
 
「おわりまで、はなさないから、いいの」

 ――恐れておいでなのです。
 白に染まりゆく野でやさしく降る声が、耳に溶けた。
 愛することを、恐れておいでなのです。
 まるで誓約のように目を瞑った少女の瞼の上にそっと口付けを落とす。やわらかなあたたかさが溶けて、俺はずっと、長い間ずっと、彼女に触れたかったのだと気付く。
 よいのかとは聞かなかった。答えはもうわかっていたから。
 取り上げた指先にそっと口付け、雨夜の薄くらがりにぼんやり浮かんだ白い輪郭をなぞるように唇でたどる。何度も吸うのだけども、それでも、溢れて、溢れて、やまない。あえぐ声も、涙も、なにもかも。触れていたかった。なくなってしまうことを考えるとこわくてたまらないのに、だけど、触れていたかった。なだめて、あまやかして、すべて奪い去ったあと、息をこぼした少女の額に口付けて、目を閉じる。そのとき、ああさっき彼女が頬を赤らめたのは、口付けていたからなのか、と気付いて、少しおかしくなった。
 瞼裏には、白い曠野と置き去りにされたような墓石がひとつある。
 ごめん、と雪瀬は祈りにも似た気持ちで思った。ごめん、凪。俺はたぶんこの先も屍を築いて、それらを踏みしだいて先を行く。ひとを不幸にもする。不幸にしたひとたちに、恨まれるし、憎まれる。そういう冷たい道を俺は選んだから、だからひとりで歩かなくちゃいけないけれど、だけど、でも。
 ひとつだけだから。
 ほかはのぞまないから。
 ひとつだけ、俺にちょうだい。
 そうしたら、終わりまで、かならず歩ききるから。
 果ての果てまで、そこがどんな場所でも。かならず。




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