降りしきる雨の中、雪瀬を見つめ返す女はほっそりと痩せ細り、数か月前に出産したと聞いたのが嘘のようだった。みるみる顔を蒼白にさせ、藍は花鼠の打掛を翻す。抱えていた手籠からばらばらと薬草が落ちた。
「藍」
追う気はなかった。けれど、藍の足取りはおぼつかなく、今にもぬかるみに足を取られて転げてしまいそうだ。迷った末、雪瀬は女の手首をつかんだ。細い悲鳴が上がって、ここだけを見られたらまるで帝の側妾を手籠めにしようとしているみたいだな、と冷めた頭の片隅で思う。
「嫌! 離して! はなして!」
「……離すよ。ちゃんと歩いてくれるなら」
「さわらないで! はやくはなしてちょうだい!」
力任せにもがいていた女がふつりと力をなくして、くずおれる。思わず腕を差し出すと、この世のものではないような軽い身体が腕のうちにおさまった。意識を失ってしまった女を抱え、雪瀬は途方に暮れる。側付の侍女を探したものの、草陰からそっと顔をのぞかせたのは、十五、六歳ほどの少女がひとりだった。下級の女官服を着ているが、顔の半分ほどが爛れたように膨れ上がり、片方残った目も虚ろにこちらを見つめるだけだ。
「彼女。どうすればいいの」
「あー。うー」
少女は口をもごもごとさせて、首を振った。瞬きをした雪瀬の袖をつかむと、こちらだ、というようについついと引っ張って歩き出す。言葉自体は通じているのか。少女は迷いなく奥へと進んでいく。帝の側妾である藍は、普段は後宮にいるが、出産後の忌みのため、しばらく丞相邸にこもったあと、今は離れの宮を住まいにしていると聞いていた。木々が鬱蒼と生い茂った館を雪瀬は見上げた。衛兵はいたが、盲いた老人がひとりきりで、ぼんやりと戸口に腰掛けている。
少女が身振り手振りで促したので、抱えた女を褥に横たえ、濡れた打掛を衣桁にかけた。さすがに小袖を脱がすわけにはいかないので、夜具を上に重ねておく。
「ああー。うー。あー」
少女は何やら言い立てたあと、雪瀬を置いて外に出て行ってしまった。誰かを呼びに行ったのか、あるいは水でも汲みに行ったのか。定かではないものの、一介の領主が帝の側妾の館に忍び込んでいるのはさすがにまずい。腰を上げかけた雪瀬は、眠る女の横顔に一瞬だけ、視線を吸い寄せられた。憔悴しきった青白い頬。痩せ細ったうなじや肩。――誰か、彼女をみているのか。守っているのか。こんなに痩せてしまっているのに。
雪瀬は手の甲でそっと藍の冷たくて固い頬に触れた。
「……つくよみさま?」
無防備な声に呼ばわれ、手を下ろす。
「きーちゃん」
まぶしそうにこちらを仰いだ女の眸には、先ほどとはちがい、はっきりとした理性の色が戻っていた。けだるそうに藍は半身を起こす。
「ここまであなたが運んだの? 菜子は?」
「なこ?」
その名にわずかに聞き覚えがあり、雪瀬は眉をひそめる。藍はあたりに視線をやっただけでこたえず、かけられていた夜着を引き寄せた。閑散とした館は、褥のそばに衣桁とわずかな障壁具がある以外は何もない。半蔀の向こうで、前栽を叩く雨音だけがしている。しばらくに障子に映った雨影を見ていた藍は、やがて口元を歪めて目を伏せた。
「葛ヶ原領主は、今年はずいぶん、早く来たのね」
「……知っているでしょう。皇祇殿下の護衛があった」
「知らないわ。ここはまったく、ひとの出入りがないの。私と彼女、それから少しの衛兵だけ。年寄りばかりでまるで役に立たないけれど、密通にはもってこいね」
ふふっと藍は今の状況を揶揄するように笑った。
伸ばされた手が雪瀬の衿をつかむ。
「あなたはときどきまるで無防備でお馬鹿さんだわ。今、私が悲鳴を上げたら、あなた姦通罪でつかまるわよ。丞相の夜伽の次は、帝の側妾かと、皆が笑うわ」
「藍」
「かわいがっていたものね、あなた。あの夜伽のこと。もう抱いたの?」
閉口したこちらの顔をのぞきこみ、藍は小さく咽喉を鳴らした。
「なんだ、まだ抱いてないの」
こちらを見つめる双眸に嗜虐の色がうっすらと乗る。
この女はいつもそうだ。理性が戻ってくると、とたんにひとをいたぶる顔つきをする。
「ああ、忘れてしまっているようだから、教えてあげる。菜子は、玉津のところのお馬鹿さんな使用人よ。流行り病にかかって道端で死にかけていたのを見つけて、拾ってきたの。私もたまにはそういうことを、するのよ」
『ひとつ聞いてよろしいですか』
『東の辺地では、ひとの耳を狩るのですか』
少女の潔癖そうな横顔が脳裏に蘇り、雪瀬は息を詰めた。先ほどの少女を思い出す。膨れ上がった顔のせいで、記憶の中で鋭い眼差しを向けてくる少女と同じかは判別がつかなかった。雪瀬へ乾いた一瞥をやり、「だって、私たち、友だちだったから」と藍は低い声で嗤った。
「菜子はもうあまり昔のことは覚えていないわ。きっと、ひどい目に遭ったから、忘れてしまったんでしょう。目もあまり見えていない。よかったわね、領主様。菜子はあなたを恨んでいたから、正気だったら、きっと仕返しされてしまうわ」
衿をつかんでいた手がおもむろに肩に伸びる。まるであっけなく、雪瀬は女に押し倒された。普通ならよけられた。けれど、どうしても絡みついてくる蔦のような腕から逃げられなかった。まるい膝で半身を縫い止め、藍は眸を眇めて、雪瀬を見下ろした。寝乱れた襦袢から白い乳房がこぼれたが、扇情的なはずのその姿も、ひたすらに冷たかった。
「傷ついた?」
咽喉に這った手を雪瀬は見つめた。
「……今さらだ」
「嘘よ」
藍は不意に慈しみを帯びた微笑みを浮かべた。
「傷ついているわ、あなたはとても。刀を抜くたび、どんどん傷ついているわ。ときどき、耐えられないような気分になっている。でも認めたら、だめになるから認めない。だって、もう戻れないんだもの。夜伽のお嬢さんには決して見えないあなたの切れ端が私にはわかる。ねえ、領主様」
蒼褪めた唇が、色付いて見えた。
あかい。腐り落ちる前の花の。
「慰めて、あげましょうか」
すぅと眸を眇め、咽喉を這う手が衿のあわせを開く。ふわりと重なった、それは口付けだった。冷たい。本当に、冷たいだけの、口付けだった。何故かそのとき、雪瀬の胸中に湧き上がったのは、かなしみだった。どうしてだろう。しかるべきすべての感情はこごり、代わりにかなしみだけがくるおしく胸をかき乱す。さらに深くを探ろうとした女の肩をつかんで引き剥がす。のしかかっていたはずの重みはたやすく消えて、あとには表情のない女だけが残った。たぶん、雪瀬もまた、表情なんてなかったはずだ。
「屍の山を築きなさい。橘雪瀬」
薄暗がりの中、巫女の託宣のように、女は告げた。
「そんな数じゃとても足りない。足りないわ」
「藍」
「もっと奪って。踏み躙って。傷ついて、絶望して、そして――」
藍ははじめてはっきりと雪瀬を見つめた。
「わたしを迎えにきて」