不穏な雲が広がり始めた北の空を桜は仰いだ。
衣川下流近くのこのあたりはまだ空も明るかったが、内裏がある方角は薄暗い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうだ。桜は眸を細めて、床几代わりにしている古船にくっついた固い藻を指でつつく。
「文は返ってきたんだろう?」
落ち着かない桜の様子を見取ってか、薫衣が苦笑気味に尋ねた。うん、とうなずいて、桜は膝の上に手を揃え直す。
「じゃあ、すぐにおいでになるさ。心配しなくても」
「……うん。そうだね」
うなずく声は少し小さい。衣川沿いにある荷揚げ場で、桜はひとを待っていた。荷揚げ場には国中の荷が集まるため、ひとの往来が激しく、活気に満ちている。桜は都にいた頃から、こういったものを日がな眺めているのが好きで、よく稲じいや雛には呆れられたものだった。
数刻前、雪瀬と別れた一行は、都の橘屋敷に入った。桜は正式な橘の随行ではないので、寝泊りする場所に思案したが、漱が機転を利かし、滞在中の使用人として雇ってくれた。総出で屋敷の掃除をしたあと、今は積み荷を引き取りに出た薫衣のかたわらで、ひと待ちの間、手伝いをしている。
「雪瀬は大丈夫かな」
「皇祇殿下のこと?」
「うん」
「いちおうはあいつも大の男なんだし、平気だろ。かどわかされたわけじゃあるまいし」
肩をすくめた薫衣に、桜は曖昧に顎を引く。別に信頼をしていないわけではないのだけども、雪瀬は目を離すとどこかへいってしまいそうな気配がする。だから、いつもどうしても心配になってしまうのだった。
「都で世話になっていた連中には、こちらに来たことを伝えたのか」
「ううん。言ってない」
月詠邸で三年間を過ごしたひとたち。白藤(しらふじ)や伊南(いな)、嵯峨(さが)に菊塵(きくじん)。気にかかってはいたものの、桜は自らあの場所を去った人間だ。もう会うことはできない。そのようなことを呟くと、「おまえも真面目だなあ」と薫衣は呆れた風に呟いた。
「ああ、来た。たぶんあれだ」
常磐色の旗を見つけた薫衣が、引き揚げられたばかりの荷のほうへ滑り下りる。遅れて立ち上がっていると、川を挟んだ向かい側から微かな視線を感じて、桜は瞬きをした。川沿いに並んだ柳の後ろに隠れるようにして、顔をのぞかせたおかっぱの少女。
「……白藤」
しばらく桜を見つめていた少女は、けれどこちら側に渡ってくることはなく、何故か安堵した様子で顎を引くと、きびすを返してしまった。しらふじ、と飛び出しかけて立ち止まる。かなしいような、懐かしくてたまらないような。胸に渦巻いた感情を持て余して、桜はきゅっとこぶしを握る。
「桜!」
そのとき、別方向から降った明るい声に、桜は今度こそ小さく声を上げた。渋染の頭巾をかぶり、身をやつした少女が対面の河岸から駆けてくる。ときどき思い出した風に老婆よろしく腰をさするが、すぐに忘れて走り出すので、まったく演技になってない。しまいには隣の男が、さっさと行けとばかりにさすろうとした少女の腰を小突いた。
「だっ!? おまえはいたいけな乙女に何をする! この下僕が! 見てないで、かよわい蝶をはよう運べ!」
「運べ! 運べと申されましたか、この姫君は。いいでしょう、運びますよ。それで、するめと一緒に箱に詰めて異国に売りとばしましょうかね? そうしたらあなたもちっとはしょんもりとして、ちょうどいい塩梅になって戻ってくるかもしれない」
「失敬な! 蝶をするめと並べるか!」
「俺を下僕呼ばわりする姫君にはするめで十分」
お忍びであるはずが、やかましく言いあうせいで、すっかり目立ってしまっている。そうでなくても、この変わり者の姫と男はひとの目を引くのだ。よもや、こんなところで口喧嘩をしているのがこの国の姫皇女とは誰も思わないだろうから、逆によいのかもしれないけれど。桜は笑い声をこらえておけなくなって、走り出した。
「蝶!」
そして久方ぶりの友人を抱き締める。
積み荷の確認をしていた薫衣は、背後で立った愛らしい歓声に、顔を上げた。見れば、桜と同じ頃の少女が手を取り合って、何やらはしゃいでいる。こちらに気付いた桜が、あっ、という顔をしたので、いいから、と手を振る。もともと、手伝いで隣にいてもらっただけだ。それに、近頃の桜は何故だか沈みがちで、満面の笑顔を見るのは久しぶりだった。
「これで最後です」
「ああ。ありがとう」
船頭から荷札をもらって、仲介料を支払う。
朱鷺皇子の即位を前にして、やはり引き揚げられる荷の量は増えているようだ。都の活気は上がったが、周辺では陸路を通って集まる荷を狙う野盗の数も増えていると聞く。一度傾きかけた国を立て直すには、まだ長い時間と労力がかかりそうだった。
「終わったら好きにしていいぞ」
わずかばかりの駄賃と一緒に最後の荷を渡すと、人足の青年たちはよく日に焼けた顔をぱっと輝かせた。衰退の一途をたどっていたとはいえ、普段葛ヶ原から外に出ない青年たちにとって、都はめずらかなもので溢れている。とたんに浮足立った青年たちに、「落とすんじゃないぞ」と形だけの注意をして、腰を上げた。人足や桜たちは自由にさせてしまってよいが、薫衣は戻って荷揚げの帳簿を確認しなければならない。河原のきざはしをのぼっていると、ふと、対面にある荷揚げ問屋にかかった暖簾のひとつに目が留まった。暖簾というよりは、それを何気なく引き上げた男の指先に。
手の記憶というのは不思議だ。並べてみれば、どれもみんな同じに見えるのに、何故か、わかる、と思うときがある。薫衣はそうだった。だから、かつて愛する男の小指だけを寄越されても、すぐにそれが誰のものだかわかってしまった。身体が記憶しているのかもしれない。幾度となく絡めた指先や、髪をいじるときの、頬に触れるときの、もっと奥に触れるときの、その手。何より、萌葱色の暖簾が翻ったはずみに見えたその手には小指がなかった。
「颯音……!!!」
意図せず咽喉からほとばしった声に、驚いたのは薫衣自身だった。
手がどうしたって?
何が。誰の。
戸惑い、髪をかき上げたそのわずかな間だった。荷揚げ問屋から出てきたはずの男はいなくなっていた。
「……っ待て!」
ちょうど河岸にいくつか小舟が泊まっていたので、悪い、と船子に詫びて、数艘をまたぎ、対岸にたどりつく。左右を見回したが、やはり男の影も形もなかった。
「おい! 小指の欠けた男が、今ここに来てなかったか?」
暖簾をくぐって中にいた問屋の主人に尋ねたが、老境の主人は「さあ……」とぼんやり首を傾げるばかりで埒が明かない。痺れを切らして、薫衣は店の外に出た。
――どちらへ行った。
あたりをつけて走るが、彼らしい姿は往来のどこにも見当たらない。危うくひとにぶつかりかけ、薫衣は立ち並ぶなまこ壁に手をついた。そのままずるずるとしゃがみこむ。ぶつかりかけた相手が心配そうに声をかけてきたが、大丈夫だ、と言って首を振った。
「何をやってるんだ私は……」
別に顔を見たわけではない。声を聞いたわけでも。ただ、小指が欠けていた、それだけで大声を上げて、飛び出して、あたりを走り回って。顎を伝う汗を衿で拭っていると、胸中の虚しさが増した。
普段は平気だという顔をして生きている。
わたしはもう乗り越えたのだと、そういう顔をして、自分にも言い聞かせて。だけども、ほんのささいな揺さぶりで、不意に弱さが顔を出す。薫衣の強がりを薫衣自身がたやすく裏切っていくのだ。もういない男を追い求めることの不毛さを、薫衣は理解しているつもりだ。だけど、ほんとうは、もう一度、あいたい。あいたい。まるで息をするように思う。あいたい、あなたに、あいたい。あいたいよ。
「薫衣?」
なまこ壁に背を預けてしゃがみこんでいると、頭上に傘を差し出された。薄暗がりから心配そうにこちらをうかがっている少女を見上げて、桜、と呟く。いつの間にか雨が降り出していたらしい。別に泣いていたわけではなかったが、情けない顔が恥ずかしくて、乱雑に拭った。
「具合、わるかった?」
「いや。……知り合いかなと思って追いかけたんだけど、別の奴だった。ごめん。よく見つけられたな」
無茶苦茶に走ったせいで、荷揚げ場からはずいぶん離れてしまったはずだ。少し感心して呟くと、桜は苦笑して首を振る。小柄な少女の後ろにもうひとつ別の影があるのに気付いて、薫衣は瞬きをした。
「よう、五條。お変わりもないようで」
にやにやと笑って片手を上げた男を、呆れ交じりに仰ぐ。
「……おまえか」
失踪中の分家の当主、橘真砂だった。