Back/Top/Next

一章、新帝(7)




 降り立った都の玄関口――霧井湊は、すでに初夏の様相だった。
 雪瀬たちは湊近くの船宿で一泊したあと、街道を西にのぼり、数日後には都の大路門をくぐった。近く朱鷺皇子の即位を控えた都は、沸いていた。滞りがちだった市が道々に立ち、都の外から運ばれたサボンや砂糖黍といった珍しい食物や、旬の魚たちが豊富に並んでいる。飛び出してきた棒振りとぶつかりそうになって、雪瀬は瞬きをする。このように活気立つ都ははじめて見た。

「朱鷺殿下はまずまずやっているみたいだな」
「そうだね」

 呟いた薫衣に、雪瀬もまたうなずく。
 半世紀に渡って老帝の御代にあったこの国にとって、「新帝」は久方ぶりに経験する変化だった。どうなるのか、という不安と、どう変わっていくのか、という期待。ふたつの相克する感情をないまぜにして、ひとびとは高揚していた。賑わう市場に目を細め、でも少しでも長く続いたらいいのに、と雪瀬は思う。失われていた明るさや力といったものを、この地が少しでも取り戻せたら。領主としてではなく、それは東の辺境に生まれた青年としての率直な願いだ。
 風が吹いて、塀から伸びた橘の茂り葉がさざめく。
 おそらく同時に、今日の青天を見上げるべき男の不在を思ったが、雪瀬も薫衣も特に口にしたりはしなかった。

「おい、雪瀬。なんぞ前から来ているぞ」

 頭上を旋回していた扇が、雪瀬の肩に降りてきて言う。
 大賑わいのひとびとを脇に押しやるようにして、道の真ん中を歩いてくる一団。皇家の桜花紋を染め抜いた羽織を纏った武人たちである。早くも皇祇の迎えが寄越されたらしい。霧井湊についたところで早馬を飛ばしていたので、朱鷺が差し向けたのだろう。

「葛ヶ原領主橘雪瀬様でいらっしゃいますな」
「ええ、わたしがそうです」
「お初お目にかかる。殿下の近衛で、浪杜(なみもり)です」

 壮年のいかめしい男が名乗り、都式の拝礼をした。いくつか確認を受けたあと、葛ヶ原の兵が離れ、皇祇を載せた輿は、皇族方の近衛兵へと引き渡された。桜のことでまた駄々をこねるかな、と雪瀬は予想したが、輿の中の皇祇は存外泰然とした様子で、波杜にも鷹揚にうなずいている。そのあたりはわきまえているらしい。

「では、わたしもこれで」
「待てい」

 道を譲ろうとすると、当の輿のうちから袖端をつかまれた。
 御簾のかかった輿を雪瀬は怪訝そうに見上げる。

「皇祇殿下。まだ何か?」
「俺を都まで送り届けるのがそなたの役目であろ。何故ここで離れる。きちんと終いまでついてこい」
「ですけど、わたしは」

 領主である雪瀬は、許可さえあれば、南殿に続く門をくぐることができる。ただし、あくまでも許可があれば、の話だ。皇祇の引き渡しは無事に済んだし、朱鷺殿下に報告に上がるにしても、まずは伝奏を通さなければならない。

「俺がよいと言っておる。いいだろう稲城。わかったら、さっさとついてこい田舎領主」
「皇祇様は、おひとりでは心細いと仰っているのですよ」

 雪瀬に稲城がそっと耳打ちする。御簾は降ろされたままであったので、皇祇の表情はうかがえなかったが、そわそわとこちらの反応を気にしているそぶりは伝わった。

「――わかりました。殿下の仰るとおりに」

 嘆息すると、雪瀬は一隊のみを残して、あとの兵を薫衣に預けた。


 昨年は地揺れで修繕をしていた若宮御殿、姫宮御殿も、今はすっかり柱の塗り直しまで済んで、采女たちがせわしなく仕事にいそしんでいる。雪瀬の小袖と袴は参内用にしつらえたものではないので、しきたりにうるさい老采女はやはり嫌な顔をして雪瀬を睨んだ。皇祇が袖をつかんでいるため口にはしないが、本当はすぐにでも丸裸にして蹴り落としたいにちがいない。
 とはいえ一年前、領主の肩書を下げてははじめて参内をしたときは、奏上用の言葉を誤って教えられたり、裾を踏まれて転ばされたり、小さな嫌がらせをいやというほど受けたので、それらがなくなっただけでも幸いだろう。

「兄上がそなたに会いたがっておったからな」
「朱鷺殿下がですか」
「ああ」
「それで、わざと連れて来てくださった?」
「無論じゃ。俺がそなたを恋しがるわけがあるか」

 にんまり笑って振り返る皇祇は、確かに一年前に出会った頃より、肩もしっかりと、手足も伸びて、しなやかな青年に成長しているようだった。外見は得てして中身を映すものであるから、皇祇自身にも変化はあったのだろう。皇子が昔ほどに我儘や無体を強いなくなったのに、雪瀬は気付いていた。わきまえるべき一線を心得るようになったというべきか。

「お取り計らい、ありがとうございます」
「ふん、俺は気の利く男なのじゃ!」

 褒められ慣れていないのか、わざとらしく唇を尖らせて皇祇が言った。周囲にそれとなく視線をめぐらせ、例の老采女が離れた場所にいるのを確認すると、ためらいがちに雪瀬の袖を引く。

「のう、橘?」
「何ですか」
「桜は……俺の妃になってくれるだろうか」

 俯きがちにぽつんと呟く皇祇を雪瀬は見やった。
 わきまえるべき一線を心得るようになっても、雪瀬がわきまえてほしい一線はたやすく飛び越えてくるのが皇祇らしい。さすがに返す言葉を考えていると、皇祇の目にみるみる水膜が張った。渡廊の途中で皇祇が動かなくなってしまったので、袖を握られている雪瀬も仕方なく足を止める。

「俺を好いてくれるだろうか。このまま好いてもらえることがなかったらと思うと、少々怖い。のう、そなた、恋をしたことはあるか? そやつを想うと胸がきゅうんとときめいて、切なくなるあれじゃ」
「……まあ。それなりには」
「その恋は叶ったのか?」

 一途な目に見つめられて、雪瀬は珍しく言いよどんだ。
 叶うというのは、なんだか難しい言葉だ。

「続けばいいなとは思いますけど」
「恋が? そなたは奇特な男じゃな! 俺はこのように、おなごひとりが笑ったり泣いたりするだけで、胸が飛び跳ねていたら、先に死んでしまいそうだ。桜が早く俺を好きになればよいのに」
 
 柱の影に控えた老采女がこちらを睥睨している。その視線に雪瀬は気付いたが、しばらく疑念に満ちた老采女の目から、しゃくりあげる少年を隠すように庭の花水木を見上げ――、おもむろに皇祇の膝を蹴った。

「なっ!? 何をするのだ、そなた!」
「皆があなたの思いどおりになると思ったら大間違いですよ、殿下」

 先ほどよりさらに非難がましくなった老采女の視線に首をすくめて、歩き出す。若草色の狩衣を翻して、皇祇もすぐに追いついてきた。

「何を言うか。おまえは必ず俺にひれ伏すぞ、橘!」
「楽しみです。あなたのご成長がとても」
「ふん。口だけはよう言うわ」

 感情を素直にぶつける屈託のなさや、生来の爛漫さは、雪瀬が長ずるにつれ捨てたり、失ったりしたものだ。
 なくならなければよいのに、と思う。
 多分に個人的な感傷が入っているが、雪瀬はときどきそのように思ってしまう。その爛漫さで、皇祇が彼の宝をさらってしまったら。そう願うのは、彼女に対する裏切りであると雪瀬もわかっている。わかっているから、言わないし、思わない。けれど、そういった薄暗い望みは確かに雪瀬の中に存在し続けるのだ。
 彼女に触れる男の手は何よりも清らかであってほしい。地上の幸福しか教えないでやってほしい。彼女の何者にも決して穢されることのない無垢さは、ときどき雪瀬の手に余る。





「道中平穏で何よりだったな」

 さほど間をおかず、朱鷺は淡い露草色の直衣に身を包んで現れた。裾に織り込まれた文様は、水際で戯れる涼しげな飛鳥の姿だったが、朱鷺当人の顔は浮かない。

「朱鷺殿下におかれましても、ご健勝のようで何よりです」
 
 だから、返す雪瀬の言葉は、若干の皮肉の色合いがあった。察して苦笑した朱鷺に、雪瀬は続ける。
 
「お祝い申し上げます。御即位は文月で固まりましたか」
「朔日だ。国中の領主が集う。まったく朝から晩まで忙しゅうてかなわん」
「皇祇殿下は、ご立派に大使のお役目を務めていらっしゃいましたよ」

 短い再会の挨拶のあと、皇祇は席を外してしまった。
 雪瀬がそう報告をすると、朱鷺はほっとした様子で、あやつは肝っ玉ばかりはでかいのだ、と笑った。朱鷺の意向で御簾は引き上げられている。そばには近衛兵と侍従が侍っていたが、他にひとはいない。

「蜷のアランガと何やら商いの話をしたそうではないか」

 朱鷺の双眸が探るように向けられたので、雪瀬はわずかに頬を歪めた。いつもながら、この皇子の情報の速さには驚く。よほどよい目や耳を飼っているのだろう。

「皇祇殿下に伴い、わたしも春豊祭に招かれましたので」
「ふふ。毬街から海上交易権を取り返したばかりだものな」

 アランガとの密約の内容まで見通した様子で朱鷺はうなずいた。罰せられるかと雪瀬は身構えたが、朱鷺が考えているのはそういった些細な利益の話ではないようだった。

「俺はそなたに力を与えたぞ、橘」

 厳かに朱鷺は告げた。どこか預言や託宣といったものに似た清らなる声。
 確かに、雪瀬は力が欲しかった。
 四年前のように、他人の思惑にただ翻弄される辛酸も、手の中のものを目の前で奪われていく苦渋も、二度と味わいたくはなかったからだ。転がり込んだ領主の座を受け入れたのはそのためだし、昨年朱鷺に協力したのも同様だった。
 言ったきり沈黙してしまった朱鷺を雪瀬は見つめる。

「あなたに報いよと仰るので?」

 包み隠さない雪瀬の言葉に、朱鷺は困った風に微笑む。

「そうは言っていないが、まあ、そういうことかもしれぬ。そなたは素直でよいのう」
「わたしは嘘吐きですよ」
「俺の周りには正直者の顔をした嘘吐きのほうが多いのだ」

 朱鷺が閉じた扇をすいと横にやると、ひとりの近衛兵を除いて、周囲の者が立ち去る。初夏であっても薄暗い室内で、扇越しにこちらを見下ろす朱鷺には硬質な冷ややかさがあった。

「この春に、氷鏡の娘が男児を生んだことは知っておるな」
「噂では」
「あれは、忌子じゃ」

 うっそりと朱鷺は呟いた。

「いみご?」
「呪われた皇子よ。忌の証を持っておる」

 朱鷺の意図するところがつかめず、雪瀬は眉をひそめた。雪瀬の知る限り、朱鷺は迷信であるとか、伝承であるとかを気にする男ではなかったはずだが。

「忌の証、ですか」
「いずれわかる」

 渋い苦笑が落ちる。そのときばかりは歳の離れた弟に対する愛情が朱鷺の横顔によぎった気がしたが、次の瞬間にはもうわからなくなってしまった。朱鷺の手が雪瀬の両手をつかんで引き上げる。幼子の手を大事に包みこむような、そういう仕草だった。

「皇の一族のために、そなたはいかほどの血を被れるのか。のう、常緑の橘よ。そなたらはもうとっくに血を流しているのに、皇の一族とは鬼よの」

 憐れみをこめて呟く皇子を雪瀬は眺めた。
 それは帝に即位する前の男の、最後の本音だったのかもしれぬ。





 朱鷺への拝謁は、四半刻もかからずに終わった。途中で侍従が入り、別の用件を告げたためだ。
 千鳥をはじめとした側付の者は、南殿までは上がれないので、門の外に待たせてある。先ほどの意趣返しか、案内役の老采女がいなくなっていた。仕方なく雪瀬はひとり道を戻り、南殿の外に出た。見上げると、あれほど明るかった空には不穏な雲が垂れ込め、東のほうで遠雷が鳴っている。

「降ってきた」

 当然だが、雪瀬は傘を持っていない。
 次第に強まる雨から逃れ、見つけた庵の軒下に飛び込む。南の一角にしつらえられたそこは、薬草園のひとつであるようだった。小さな水路が引かれ、周囲にはあらゆる種類の薬草が植えられている。濡れてしまった上着を脱いで、端を絞っていた雪瀬は、ふと顔を上げた。近くにひとの気配を感じたためだ。

「きーちゃん……?」

 声に、息が止まる。
 庵を挟んだ対面に、やはり上着の雫を払う女がいた。くるおしさと懐かしさ、恐れと忌まわしさ、さまざまなものが乱れて消える。

『恋をしたことはあるか?』

 ある。あるけれど、最初の女は叶わなかった。
 伸ばした手もまた。届くことはなかった。
 曇天の暗がりの下で、雪瀬は眸を眇める。氷鏡藍がそこにいた。




Back/Top/Next