三角巾を取ると、先日作った火傷に汗が沁みて、桜は眉根を寄せた。
そぼろ餡を冷ますために蓋をした大鍋を竈から下ろす。翡翠楼の厨には常時三人ほどの飯炊き娘が入っているが、今は朝も早い時間であるため、桜ひとりが働いているくらいだった。翡翠楼は通いで働く娘が多く、住み込みはもともと桜と数人しかいない。
「精が出るわね。味見していい?」
顔を出した咲が鍋の中身をすくう。うんうん、ととりあえずは及第といった様子でうなずいてから、細かな味の指示が出た。覚えの悪い桜は言われたことをひとつひとつ紙に書きつけていく。蚯蚓がのたうったような悪字にくすりと笑って、咲が上げ框に腰かけた。隣に座って早めの朝餉をふたりで取る。昨日の残り飯に茶を注いだくらいのものだが、おいしい。
「そういえば、あんたの領主様はもうすぐ都に発つそうじゃないの」
「うん」
それについては、扇が立ち寄ったときに教えてくれていた。葛ヶ原から都までは水路で十日、陸路も含めると二十日近い旅程となる。あちらの滞在期間も考えると、ふた月か三月ほどはまた帰ってこない。
「あんたはいいの? 一緒に行かなくて」
「三月もかかるから」
「あら。別にいいわよう。お手伝いの子ならいっぱいいるしね。あんたに抜けられるとそりゃあ困るけど、まあ、どうにかなるわよ。だいたい、あんた年始まで働いてくれてたし」
「でも、いい」
桜はきれいに平らげたお椀に箸を置くと、手を合わせた。
この傾向があまりよろしくないことは自分でも理解している。雪瀬はたとえば、自分からこうしてほしいとか、ああしてほしい、といったことをほとんど桜に言わない。連れて行って欲しいなら、自分からそう言わなければだめだ。だけど、今はなんだかそういったことがうまくできそうになくて、躊躇してしまう。言葉にならないもやもやを抱えきれなくなり、桜は床にぺしゃんとだれた。
「腐ってんわね」
「……くさるの? ひとも?」
「時と場合によってはね。食えなくなる前にどうにかしといたほうがいいわ」
「うん……」
「――おお、いたいた。桜!」
華やいだ声を上げ、連子格子から中をのぞきこんでくる人影があり、桜は床に額をくっつけたまま瞬きをした。かぶった被衣で申し訳程度に身をやつしているが、見間違えようもない、皇祇である。咲が怪訝そうな顔をしたので、「し、しりあい、なの」と急いでごまかす。こういった機転が桜は昔から不得手だ。
「どうしたの」
「もちろん、桜を迎えにきたのじゃ!」
皇祇は翠の眸を輝かせて言い放った。心の奥底がかしゃんと変な音を立てる。目を瞠らせた桜の両手を引き寄せ、皇祇は言った。
「行くぞ、桜! 都じゃ!!」
――このようにして今に至る。
ほとんど取るもの取らず、毬街に着いた船に乗せられてしまった桜は、仕事着である鶯色の紬に前掛けをつけたままだ。遠のく毬街埠頭を船上から眺めつつ、いったいどうしてこんなことになったんだろう、と桜は深々息をついた。
「咲さん、怒っているかな」
「それはなかろう。女将は率先してそなたを送り出しているように見えたぞ」
若草色の狩衣を翻してきざはしから甲板に降り立った皇祇は、桜のほうへ手を差し出した。降りて来いということらしい。一年のうちにずいぶんたくましくなった腕を一瞥し、されど桜は自分の足で甲板に降りた。結果、皇祇の手は宙に浮いたままになる。
「ほんに可愛くないおなごじゃな、そなた!」
「皇祇は前に私を落としたでしょう」
「今は落とさぬ。あと、そなたごときに抱き上げられたりもせぬよ」
確かに皇祇は桜よりもずっと背丈が伸び、手足もぐんとしなやかになって、とても以前のように横抱きにして持ち上げることはできなそうだった。黙り込んでしまった桜の隣を皇祇は歩き出す。皇子がこんなに好き勝手歩いていいのかと疑問に思ったが、今乗船しているのはいつもの乗合の商船ではなく、皇子が所有する船であるし、雪瀬と稲城はただいま船酔いが極まって皇祇に構えるような状況にないので、口出す者はいない。
『都に行くから、ついてこい』
という皇祇の横暴ともいえる言葉によって、桜は翡翠楼から都行きの船上に引きずってこられた。はじめはもちろん断ろうとしたが、皇祇は桜の手をつかんで離さないし、女将の咲も何やら楽しむ様子で送り出す手はずを整えてしまったため、逃げきれなかったのだ。
『いいじゃない』
桜の背を押し出しつつ、咲は笑った。
『真面目に働いてくれたご褒美よ。三月は領主様のそばにいられるわ』
「なあなあ、桜」
「……」
「聞いておるか? おーい。桜。桜。桜」
「……聞いてる。何?」
子犬のように後ろをくっついて歩く皇祇に痺れを切らして、桜は振り返った。どう見ても庶民然とした娘に始終くっついて歩く皇子。何とも奇妙な光景だったが、網の準備をする海の男たちはむしろ愉快がっている様子で、にやにやとした笑みを浮かべてこちらの様子を見守っている。裏で賭け金が回されているのが見えたが、何も見なかったことにしておく。
「それで、俺の妃になる気にはなったか?」
いかにも品のよさそうな若草の狩衣を潮風にはためかせ、皇祇はおそるおそるといった風に桜をのぞきこんだ。不安と期待の入り混じった眼差しを見つめ返すには、桜であっても少々の覚悟が要った。
「ならない」
「……何ゆえ」
「なりたくないから、ならない」
「むう。なら、どうしたらなりたくなるのだ?」
皇祇は不思議そうに呟いた。両手を持ち上げて、大事そうに包まれる。前は姫君のように柔らかかった手のひらが少し固くなっていることに桜は気付いた。潮風が吹いて、皇祇の白銀の髪房を揺らした。
「どうしたら、そなたは俺を好きになるのだ?」
「……皇祇は、わたしがすき?」
呟いた声はかすれて、どこか助けを求めるような響きになってしまった。どうしてわたしはそんなことを皇祇に訊くんだろう。ぼんやりと生じた疑問は、「うむ!」と曇りのない目で見つめ返された瞬間に、つまびらかになった。思わず、あとずさる。きょとんとした皇祇に、ごめん、と桜は言った。
「ちがった。ごめん」
羞恥心がこみ上げて、顔を上げられなくなる。半ば振り切るように身を翻すと、甲板から梯子をくだって、狭い船内を夢中で走った。いったいどこを走って、どこを曲がったのか。やっと誰もいない倉庫らしき場所に出て、桜は乱れた息を整える。
――びっくり、してしまっていた。
まったく無自覚のうちに求めていた言葉。それは、実のところ皇祇に訊いたのではない。本当は別のひとに訊きたかった言葉を、目の前にいた皇祇に尋ねてみただけだ。
いらないと、桜は思っていた。雪瀬はそんなことを言いたがらないので。無理に言わせることは、あのひとのいちばん脆い部分を傷つけてしまう行為のような気がしていたので。別にそんな言葉が欲しいわけじゃないと聞き分けのよいふりをして、わたし本当は。確かめたい。わたしが、大事だと。わたしだけをあいしていると。そんな口約束が欲しくてたまらない。次々に際限なく膨らむ欲求に眩暈がしそうだった。どうして。わたし。こんなに欲深なんだろう。
「もうすぐ霧井湊に入るそうですよ」
船の速さが緩やかになったのに気付いて、雪瀬は薄く目を開いた。
重ったるく疼くこめかみを押さえて半身を起こすと、団扇で風を送っていた千鳥が濡らした手拭いを差し出した。まだ初夏の時期だというのに、船室はむっとした熱気と人いきれが立ち込めて、嫌な汗が背中に張り付いている。それでも、途中荒波で船体が傾き、ほとんど桶を手放せなくなっていた頃に比べればましだと言えた。正直、船中の記憶がほとんどない。
「大丈夫……そうではありませんね」
「大丈夫じゃないことに慣れた。いい加減」
雪瀬は引き寄せた肘掛にだらしなくもたれかかった。もとより船とはたいへんに相性が悪い。乗船中の雪瀬はたいてい機嫌が悪かったが、今回ばかりは別にも原因がある気がする。
「皇祇は?」
「無名がついています。薫衣様が竹と下船の準備に向かわれたので」
「そう」
現状を確認したあと、そういえばあの娘はどこへ行ったのだろうととりとめもなく考える。前に葛ヶ原へ帰る船では、片時も離れずそばにいてくれた少女は、今回はいつの間にかいなくなっていた。皇祇がまた性懲りもなく追いかけているのだろうか。仮にも仕えるべき帝の弟をはたくわけにもいかないので、そのままにしてあるけども、なんだかいい加減面倒くさかった。
「桜さんなら、扇が探しに行きましたよ。もうすぐ下船ですから」
雪瀬の思考を読み取った風に千鳥が告げる。この少女の聡さはいちばんの美点だったけれど、察しが良すぎて煩わしく感じるときもあった。そう、と視線をよそにやりつつうなずくと、千鳥は団扇を急に雪瀬の胸に押し付けて、「私も先に準備をしてまいります」と言った。
揺れる船内でも器用に人ごみをすり抜けていく千鳥から目を離し、雪瀬は団扇を拾い上げつつ息をついた。