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一章、新帝(5)




「おい橘。蜷の頭領というのは、まさか頭が獣ということはあるまいな!?」

 当日の朝、皇祇はいっそ無残なほどに縮こまっていた。
 蜷方の伝令役に皇祇のことを伝え、十日。蜷からは、大使を歓迎するとの旨の返答が寄越された。調整の末、日取りは四月のつごもりに決まった。蜷ではこの時期、大地母神に感謝し、狩りの獲物を捧げる春豊祭が開かれる。皇祇をはじめとする一行は春豊祭に招かれ、一夜を蜷で過ごしたのち、葛ヶ原に戻ることが決まった。

「蜷の人間は親切な者たちばかりですよ。あと乗馬がうまい」
「だが、言葉も通じぬというではないか。そなたは蜷語が使えるのか」
「少しですが。通訳もつきますから」

 雪瀬は千鳥(ちどり)を皇祇へ紹介した。並の武人より腕が立ち、かつ蜷語も操れる千鳥は今回の随行にうってつけと言えた。紹介されたのが同い年ほどの少女であったことに安心したのか、皇祇は「頼んだぞ」と急に鷹揚になって顎を引いた。
 鎮守の森は、山がちな葛ヶ原の中でも常はひとの入らぬ禁域だ。山に住まう狩人は少なからずおり、彼らが踏みならした道を使うことはできたが、馬を操るには狭く、切り立った崖なども多いため、輿に乗った皇祇以外の従者は徒歩になる。
 雪瀬は数年前、危うく領地侵犯になりかけた蜷一派の後始末のため、この地に足を運んだことがある。だが、あのとき歩いた道は繁茂する草たちに覆われてしまって、見えなかった。木々を揺らす荒々しい風に衣裾をなびかせ、雪瀬は梢から射し込む日輪を目を眇めて仰いだ。迎えのためだろう。蜷の若武者が切り立った崖に馬を引いて立っている。気付いた案内役が手を上げると、瞬く間に崖を滑り下りてきた。馬とひととが一体になったかのような動き。雪瀬はひそかに感心した。

「さすがだな。馬の御し方が葛ヶ原とは違う」

 隣を歩いていた五條薫衣(ごじょうくのえ)が同じように感嘆の息を漏らした。
 朱鷺皇子の恩赦を受け、薫衣が南海から葛ヶ原へ戻ったのは昨年の初秋だ。以来、持ち前の肝の太さと才覚で葛ヶ原の兵を首尾よくまとめ上げている。今回の護衛も、薫衣がまとめた若武者たちが引き受けていた。

「領主様は新頭領はご存知で?」
「数年前に、一度だけ会った。言葉はひとつふたつしか交わさなかったけど」

 だが、眼光の鋭さは印象に残っている。
 鍛え抜かれた肉体は武人のそれ。身体も葛ヶ原の人間に比べると大柄だ。
 蜷は都を中心に据えた機構を持たず、いくつかの小規模な騎馬集団が緩やかにまとまり、ひとつの共同体を構成している。今の頭領は最大規模の騎馬集団を要しているがゆえの暫定的な頭に過ぎない。とはいえ、短期間で周囲の騎馬団を取り込み、勢力を拡大させた手腕と抜け目のなさは葛ヶ原にまで伝わっていた。名前をアランガ。

「葛ヶ原を発つまで日がないんだろう? 私に任せておいてもよかったのに」
「そういうわけにもいかない」

 雪瀬が前を歩く騎馬に視線をやると、薫衣は肩をすくめた。

「領主様は腹のうちで何やら企んでいらっしゃるらしい」
「ふた月も予定を前倒しされたんだ。少しは返してもらわないと」
「ただでは起きないね」
「当たり前」

 深い森を抜けると石の積まれた標があり、その先からが生活空間となっているのだと教わった。板塀で掘っ建てられた門が、先導する騎馬武者の声で開かれる。中から出迎えた、頭領の側近のひとりらしい男に、雪瀬は挨拶をした。男は快活によく喋り、皇祇一行を中へと案内する。

「何やら奇怪な……」

 皇祇がいちおう声を落として呟く。
 あてがわれたのは、獣の革をなめして作った円形の掘っ建て小屋だった。葛ヶ原とは異なり、移動の多い蜷はこの革を張った掘っ建て小屋を日々の住居にしているという。なるほど、中は適度に温かく、風通しもよい。最初は顔をしかめていた皇祇も、床に幾重にも敷かれた鹿毛の絨毯は気に入ったらしい。手足を伸ばして、ごろんと寝転がった。見ていた雪瀬に、「そなたも横にならんのか?」とすっかり我がもの顔で尋ねてくる。

「お休みになっておいてください。春豊祭の始まる前……夕方になったら呼びに参りますから」
「そなたはどこへ行くのだ?」
「あちらの人間と少し話が」

 薫衣に皇祇を任せ、千鳥とともに小屋を出る。先ほどの側近の男と通訳を交えていくつか下打ち合わせをし、ついでに春豊祭の会場となる広場も先に見ておく。なだらかな草原がどこまでも続き、小さな丘やいくつかの岩が見えた。

「敵襲の心配はなさそうですね」
「そのあたりは、あちらも警戒しているらしい」
「アランガは、南下の野心があるとも聞きますが」
「朱鷺殿下の腕次第だろう。少なくとも今じゃない」

 悠然と駆ける風に目を細め、雪瀬は天幕の張られた舞台を眺めた。


 落日。大地を染め抜く夕焼けに、春豊祭を告げる角笛がこだまする。
 一斉に焚かれた炎に照らされ、あたりは昼のように明るい。舞台の前に設けられた観覧席では、上段に新頭領アランガが座し、その隣に賓客である皇祇が並ぶ。存外平和かつ友好的に皇祇は祝辞と挨拶を済ませた。
 もともとが何かに物怖じすることのない皇子である。普通ならすくみ上がるような頭領の頬傷にも特段驚かず、ものを言う姿には生来の気品が感じられなくもない。意外にも適任だったのだろうか。「獣でなくてほっとした」と呟きつつ冷やし瓜を齧った皇祇を見て、雪瀬は息をついた。

「……何故わらう」
「殿下が卒なくお役目をこなされたので、ほっとしただけです」
「失礼な奴よの。俺様がすっ転ぶとでも思うたか」
「俺ははじめて都に赴いたとき、今上帝の前ですっ転んだことがあります」
「阿呆じゃな!」

 皇祇が腹を抱えて笑ったので、酌をしていた蜷の少女が不思議そうな顔で瞬きをした。壇上では、地母神に捧げられる狩りの獲物が横たえられている。今は眠らされている鹿は頭領によって、首を掻っ切られ、春豊祭の客人にふるまわれるのだ。

「失礼」

 頭領が鹿へ剣を振り下ろすその瞬間だけ、雪瀬は皇祇の目を塞いだ。さすがに卒倒されそうな予感がしたためだ。鹿の首が落ち、噴き上がった血は樽に貯められる。蜷の者たちが一斉に雄たけびを上げた。血飛沫を拭うわけでもなく、揺らめく炎を背に立つ頭領のアランガは、荒神のごとく闘気をみなぎらせている。
 ――勝てるかな。
 雪瀬も武人の端くれなので、そのようなことを片隅で考える。
 たぶん、無理。一太刀目で押し切られて終わる。
 早々に結論づけて、とろみを帯びた酒を口に含んだ。

「俺の鹿肉はうまいか」

 血抜きなどの処理のあと、火にあぶった鹿肉がふるまわれると、アランガが気さくに声をかけてきた。皇祇がいたため、通訳を通してだったが、おおまかにはわかる。

「ふるまわれる数がすこし少ないようですが」
 
 雪瀬は場を見渡してそのように言った。アランガがわざとらしく頬傷を歪める。

「俺の鹿肉なぞ食いたくないと抗う連中がまだいるものでね。むしろ、ひとの鹿を奪おうと虎視眈々と狙ってやがる。骨を折っているのさ」
「どこの国でも変わらないもんだ。……馬もですか?」
「馬だと?」

 椀を置いて話を振ると、アランガは太い眉を上げた。

「蜷の月毛たちも、奪い合いが大変そうだ」
「月毛は美しいから、蜷じゃあ誰もが欲しがる。見たことは?」
「いいえ」
「そりゃあいい。祭りついでに見せてやろう」

 アランガは鍛え抜かれた身体をするりと翻して、天幕の外へ出る。

「た、橘?」
「ちょっと外します。五條は置いていくので」

 とたんに心細げな顔をする皇祇に告げて、雪瀬はアランガを追った。特に命じなかったが、千鳥は後ろからついてきた。天幕を下ろすと、外の樹に繋いだ月毛をいなしていたアランガが口端を吊り上げる。明かりが遠のくと、頬傷のある顔はより凶悪に映る。

「蜷で月毛の話をするとは、領主殿は命知らずなのかな。もしくはただの阿呆なのか」
「月毛の奪い合いで頭領殺しにまで発展したっていうのは、本当らしい」
「いかにも。月毛をどれだけ多く保有するかが、我らの富の差といっていい。月毛一頭で、青石を万積む野郎もいる」

 馬に価値を置く蜷では、特に大地母神の娘と呼ばれる月毛の価値が高い。乱獲で、頭数を減らしてからはさらに値がつり上がるばかりだ。

「むやみに月毛の話でもしてみろ。相手によっちゃ逆上して、剣を持ち出すね」
「御忠告恐れ入ります」
「何が目的だ? 葛ヶ原領主よ。大使の警護で来たのではなかったのか」
「それもある。ただし、別の目的も。蜷の頭領」

 雪瀬が腰に佩いた刀に目をやったので、場に一気に緊張が走った。背後でアランガの配下の者たちが剣の柄をつかむ。アランガの鋭い眼差しは、雪瀬に固定されたままだ。ふわりと足元の草木を風が揺らすのにあわせて、雪瀬は深く息を吐いた。

「かつて帝とあなたがたとの間で結んだという相互不介入の協定。破ってみませんか」
「どういう意味だ?」
「もちろん、争うという意味じゃない。ただ、あなたがたの欲する月毛は、東にはまだ豊富に生息していて、俺たちにとって希少な鉄くれをあなたがたは豊富に蓄えていらっしゃる」
「つまり、通商か」
「はい」

 雪瀬の返答に、思案するようにアランガが顎をさする。

「それは葛ヶ原と、という意味か」
「ええ、そうです」
「葛ヶ原は先年毬街から海上の交易権を取り戻していたな。我々蜷をも通商路に組み込みたいと? そちらの帝とやらも同じ考えなのか」
「どうでしょう。聞いてないし、この先も聞くつもりがないからわからないな」

 口にしたとたん、隣の千鳥が肩を跳ね上がらせたのがわかった。こういうものの察知は、千鳥のほうが雪瀬より長けている。予想したとおり、蜷の大ぶりな剣が鼻先に向けられていた。帯元から懐刀を抜こうとした千鳥を制して、雪瀬は鈍い光を放つ刀身を見つめる。何度も打ち直した鋼。ひとの血肉を吸って育てられたひとふりだ。

「本気か」
「はい」

 アランガの目が雪瀬を見定めようと細まる。獣だったら間違いなく首をかき切られる、そんな眼光をしている。しばらくアランガは雪瀬を見ていたが、やがて大声で笑い出した。そばに侍っていた若武者がぽかんと口を開いてしまったくらいだ。剣をおさめ、アランガはかたわらで草を食む月毛を撫でた。

「――いいだろう。まずは月毛を百頭運んでこい。話はそれからだ」
「仰せのとおりに」
「大法螺を吹く度胸は認めてやる」

 頬傷を歪めて、アランガは紫がかった眸を眇めた。何かを読み取るような目の動きに瞬きをすると、「暗雲が垂れ込めているな」とアランガが呟く。油脂を使った照明具の輝きが、なめし革の天幕に不気味な影を描く。雪瀬は眉をひそめた。

「暗雲、ですか」
「俺の目は少し先視に長けていてな。気に入った奴の相を読む。おまえのそれは凶相だ、領主殿。激しい輝きと、その一歩先に暗闇が広がっている。暗闇の先は何も『見えない』。前にもこういった相は見たことがある」
「そのひとはどのように?」
「前の頭領だ。俺が首を刎ねて殺した」
「成程。凶相だ」

 占いのたぐいはもとより信じないたちの雪瀬である。うなずきはしたが、今ひとつ扱いをはかりかねて首を傾げる。そしてしばらくするうちに、言われたことすら忘れてしまった。




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