皇祇は橘宗家のいっとうの客間に逗留することが決まった。葛ヶ原は治安が悪い領地ではないが、つけられる兵にも限りがあるし、葛ヶ原中を見渡しても、ほかに皇族を泊められるだけの館などないに等しい。
ただし、皇祇当人は若干不服そうではある。
「狭い。橘、これは広い屋敷の別邸か何かなのか」
「あいにくですが、うちの屋敷はこれきりです」
皇祇はそれでも屋敷でいちばん広い客間に陣取り、都から連れてきた稲城や数名の世話係もそばの部屋に控えることになった。桜も連れて行きたいと皇祇は主張したが、それは本人の丁重な「おことわり」によってなくなった。おいもの煮っ転がしがまだだから、と桜は真面目な顔つきで言うと、逃げるように鶯色の紬を翻した。
――ああぜんぜん、目を合わさない。
嘆息して、少女の背を見送ったあと、縁側に残っていた犬に手を伸ばす。とたん尻尾をぴんと立て、激しく咆えたててきた。動物にはわりと懐かれることが多い雪瀬だが、この犬に関しては以前からひどい嫌われようだった。犬からすれば、桜を苦しめている元凶が雪瀬なのだろう。取り成すように毛を逆立てている犬の首を揉むと、雪瀬は最近太ってきたせいでたっぷりとした毛に埋もれ始めた首に、飴売りから買った包みをかけた。
花見を反故にした詫びだったが、我ながら子どものご機嫌取りみたいだなと思う。あの娘はもう、菓子をやって喜ぶような単純な年齢を過ぎ去っている。もうとっくにちがってしまっている。知っては、いるのだ。
「のう橘。そなた、妻は取らぬのか。もういい歳なのに」
「いちおう、あなたさまとふたつしか違いませんが。……先年の噂はご存じでしょう」
ささやかながらも歓待の宴を催したあとである。夜更けになり、ひとが引けても、皇祇が雪瀬の袖を捉えて離さないので、仕方なく残った酒を片手に付き合った。皇祇はちまちまと隣で果実酒を舐めている。稲城曰く下戸なのだそうだ。対する雪瀬はザルであるので、すいすいと残った酒を片付ける。開いた障子戸から心地のよい夜風が吹いていた。散りかけの桜の樹影に、春の月が照る。まぶしげに目を細めて、皇祇は笑った。
「百川のおなごに頬を三回引っ叩かれたというあれか!」
「二回ですが、まあ、そうです」
「普段取り澄ましているそなたが愉快じゃのう。俺が世話をしてやろうか」
わくわくと顔をのぞきこんできた皇祇に、「たいへん恐れ多いので、ご遠慮願います」と雪瀬は切って捨てた。
「そうつれないことを言うでない。しかし、いつかは娶らねばなるまいに?」
「あなたのように?」
「そのとおりじゃ」
「求婚の仕方は、参考にしておきますよ」
心にもないことを、と皇祇はぼやいたが、まったくそのとおりだった。
雪瀬は嫁取りをする気がない。だから、紫陽花という偽りの許嫁を立ててまで黒海の姫との縁談をはぐらかしたのだし、長老たちがときどき勧めてくる娘にも取り合わない。無論、領主筋の務めとしていつかは後継となる者を見つけなくてはならないが、橘には宗家の代わりに子を差し出せる家がいくつかあるため、手順を踏んで周りを固めてさえおけば、雪瀬の血を引いている必要はなかった。
『何ゆえ?』
いつか、紫陽花が訊いた。たぶん許嫁役をしていたときだ。
私は、決して手に入らない男を愛しているため。
では、そなたは。何ゆえ、縁談を拒む。
『俺の妻になりたい女なんかいないでしょう』
『それは本心ではないな』
紫陽花は薄く笑った。
『私には望んでいないのはそなたのほうに見える』
円座の上で寝息を立て始めてしまった皇祇に上着をかけ、雪瀬は控えていた稲城を呼んだ。世話係の者たちがそぅっと細心の注意を払って、皇祇を寝所へと運んでいく。最後に申し訳なさそうに頭を下げて、稲城が襖を閉めた。
「きかん坊の皇子さまはもうお休みになられたのですか」
ちょうど入れ違いに開け放した障子戸のほうから、涼やかな衣擦れの音が立った。柚葉(ゆずは)だ。長い濃茶の髪を緩く組紐で結んだ少女は退朱の裾を引き上げてかがむと、「相変わらずのザルですね」と呆れ気味にあたりを見回した。
「兄さまみたいのを可愛げがないというんですよ。少しは酔ったふりでもなさったら?」
「途中退席をした妹みたいに?」
「だって、酔っぱらった殿方の相手をするのは面倒なんですもの」
にっこり微笑み、柚葉は空になった徳利を転がした。残った徳利から、手酌で中身を味わう。一族の例に漏れず、この妹も実のところは自分とさして変わらないザルだった。
「都についてのお話は聞けましたか」
「丞相の評判を少し。ずっと表には出てきていないらしい。都は今、朱鷺殿下の采配のもとで動いている」
「漱さまのくださる情報とさして差はありませんね」
雪瀬の助言役として働いていた百川漱(ももかわすすぎ)は数か月前に都に入り、あちらの内情を逐一葛ヶ原へ報告していた。都に広い情報網を持つ漱の報告は迅速かつ的確だ。このため、雪瀬たちは葛ヶ原にいながらにして、老帝の譲位決意後、各勢力の思惑が入り乱れる都の動向を細かく知ることができた。漱の出身である瓦町もおそらくは同様に。
そもそも、朱鷺皇子の即位礼自体、当初は年明けに行われる予定だった。それが七月まで延びたのは、帝に近侍する公家の一部から譲位について反対があり、おさめるのに半年を要したためだ。反対勢力の筆頭といえば、昨年雪瀬たちが朱鷺皇子の命のもとに捕縛した玉津一派であるが、玉津ひとりが消えたところで、これまでの権威を振りかざす公家衆をなかなか抑えきることができないのが実情だ。さらに昨秋には、大雨による大規模な洪水が衣川で起こっている。朱鷺は早々、この対応にかかりきりになった。
「すぐに各領主、公家衆、大商人などから負担金を取り、復興をはかった殿下の手腕を褒める者もいますが、反発する者も多いそうです。それらはむしろ、かつて対立していた丞相方へ流れていっているのだとか。丞相が動かないのが、不気味ですね」
「あの男はいつも、考えていることがさっぱりわからない」
「おそらく常人が欲するものにあまり興味がないんでしょう。兄さまと似ていますよ」
「どうだか。俺は俗世の煩悩にまみれてるからよくわかんないな」
柚葉は苦笑した。兄さま、とそっと呼ばれる。その眸によぎった鋭い色に気付いて、雪瀬は猪口を置いた。さりげなく周囲をうかがった柚葉は、雪瀬のかたわらにもたれると、耳元へ唇を寄せた。
「まだ内密の情報です。先ほど入ったばかりなので、皇祇殿下はご存じではないかもしれない。氷鏡藍が、男児を産んだそうです」
雪瀬は一時黙って、柚葉のほうを見た。
藍が老帝の子を身ごもったということは、先年雪瀬にも知らされていた。十月十日を超える遅い出産だった。男児、と雪瀬は呟く。相次ぐ陰謀によって、帝の血を引く皇子たちは神職に入るか死んで、ほとんど残っていない。男児なら、朱鷺と皇祇くらいか。
しかし、男児が生まれた。
老帝が譲位するというこの時期に。丞相月詠を後見とする、男児が。
「即位礼の折には、『氷の君』へもお祝いにうかがいませんと」
雪瀬の胸中を察したのか、柚葉は別のことを言った。
突き返されるよ、と雪瀬は苦笑する。
「ところで兄さま。聞きましたよ。皇祇殿下が桜さまに求婚なさったって」
「またその話?」
忍び笑いを漏らす柚葉に、雪瀬は顔をしかめる。
「扇にもさっきさんざん嫌味を言われて、もう聞き飽きた」
「兄さまが一年も放っておくから、自業自得です。私は忠告してましたからね。きちんと繋ぎ止めておけって。桜さまがその気になって、受け入れたらどうなさるおつもりです」
「こたえないよ、桜は」
「そういうところがあなたは卑怯です」
皇祇に対する桜の返答は、すげないを通り越して必死に過ぎて、見ていてなんだか痛ましかった。そんなに怯えなくていいのに、と雪瀬は思う。そんなに簡単に、たとえば皇祇くらいのことで、手放したりなどしないから。
「“君が好きで好きでたまらない。他の男には渡さない。そばにいてくれ”って言ったらいいんだと、思いますよ」
「……俺がそう言ってるの想像できる?」
片頬を歪めて呟くと、「残念ながら」と柚葉は肩をすくめた。
「けれど、柚にはわかりません」
「何が」
「いつまでも曖昧な繋ぎ方をして、兄さまは、桜さまをどうされたいんです?」
雪瀬は口をつぐんだ。適当な応酬をしようとして失敗し、手元に視線を落とす。
そばにいてほしい。できれば。
……だめなら、彼女がそう望んでくれる限り、すこしでもながく。
それでいい。彼女がじぶんにくれる時間は、長い時間のほんのひとにぎりで構わない。一年でも。二年でも。三年でも。それより短くても。たった一日でもなんだって。身に余る幸福だと思う。何の因果か、雪瀬の人生は血なまぐささから逃れることができず、そうしたいわけではないのに、年を経るごとに踏みしだく屍の数は増えていってしまう。凪や兄、八代、最長老、玉津卿、名を知らない人間たち。自ら選んだときもあったし、そうでないときもあったが、もうとっくに両手では足りなくなっている。これから先もそうだろう。必要になれば、雪瀬は刀を取る。
それは、死者の怨嗟、生者の憎悪にまみれた道だ。
雪瀬はよい。自分で選んだことだから。けれど、そんな人生に彼女が付き合う必要は、絶対に、ない。
「しあわせに、なってほしい。ひとなみに」
夜風が開いた障子戸から入ってきた。冷ややかなそれにうなじのあたりで短くした髪を乱されながら、雪瀬はつかの間彼女のことを考え、それから、生まれてきた男児のことを考えた。
嵐が近いと、風が言っている。