雪瀬は走った。花見客で賑わう毬街の大路を無名たちとひとごみを縫って抜け、ようやく見つけた『翡翠』の看板の前で、息をつく。顎から滴った汗を乱雑に衣で拭うと、絡んできた酔っ払い客をいなして、最奥の部屋に突き進み、すぱんと襖を開いた。
「御無事ですか、殿下」
「おお、橘ではないか。久しいな!」
菓子壺から干菓子を摘まみ上げていた皇祇が気付いて、屈託なく顔を上げる。雪瀬は全身で息をついた。客の目を引く前に、後ろ手に襖を閉める。
都から毬街までの道のりを、皇祇は先触れなしにお忍びで来たのだという。先年命を狙われかけたことや皇子が輿の上でじっとしていられない困った体質ゆえ――と稲城は説明したが、雪瀬はあまり都の兵の能力を信用していなかった。痺れを切らして、自ら『お迎えに上がった』ところがこれである。
「久しいも何も――」
そこで雪瀬は皇祇の膝の上にちょこんと座っている少女を見た。遅れて、ああ『翡翠』か、と思い至ったが、やっぱり構図がおかしい。座っているというより、羽交い絞めにあって座らされているといった具合ではあったが。
「……何をされているんです?」
「桜と菓子を食べておった。俺はそのまま葛ヶ原に行きたかったのだが、稲城が先にそなたに話を通すと言ってきかんものだから。驚いたろう、橘。この俺自ら葛ヶ原に来てやったぞ! さあ、苦しゅうない、ずずいと案内せいよ」
「あなたさまがさっぱりお変わりになられていないことだけは、ひとまず理解しました」
「んん? そうかのう。だが、背は伸びたぞ、ほれ!」
皇祇が桜を抱えて立ち上がる。鼻息を鳴らして見下ろしてきた少年を、雪瀬は見やった。確かに。皇祇は背伸びをしているし、本当に本当に本当に少しだけだが、雪瀬より高い。いかにも少年じみていた手足はしなやかに伸び、昔の少女ともつかない華奢さはもうない。ふふん、と満足そうに口端を上げ、皇祇はわしわしと雪瀬の頭を撫でた。
「そなたこそ、ちーっとも変わらぬな! その淡泊面と平凡すぎて寝たら一晩で忘れそうな顔も相変わらずじゃ。ふっふーん、今は俺のほうが高いしな、ふっふっふ」
「それはおめでとうございます。とりあえず殿下が外見は成長されたようでよかったと思いますよ。あとわたしはもう成長期を過ぎただけです。御安心ください、あと二年もしたら殿下もそうなりますから」
「成程。つまり橘は永遠に俺を抜かせぬということじゃな!」
考えつく限り、もっとも嫌なまとめ方をされた。
うむうむ、と何度もうなずいて、危うく落ちかけた桜を肩のほうへ抱え上げると、皇祇は襖を開く。さっそく葛ヶ原へ向かうことにしたらしい。
「……降ろしませんか」
雪瀬は何食わぬ顔で横を通り過ぎた皇祇に言った。
「何をだ?」
「彼女を」
「嫌じゃ!」
皇祇の返答は実にきっぱりとしたものだった。珍しく顔に感情が出たらしい。皇祇はああ、と雪瀬が問いかけたかったことを理解して、うなずいた。
「兄上からいただいた大使の任は無論のこと。俺が東のくんだりまで足を運んだのはのう、こやつを迎えに来たのじゃ」
「……迎えに、ですか」
「決まっておる。皇族式の嫁取りじゃよ。俺は桜を召上げにきたのだ!」
さすがの雪瀬も口をつぐむ。
隣で稲城が疼いてきたらしいこめかみを揉んだ。とっさに意味をはかりかねた様子で緋色の眸を眇めた桜に向けて、「つまり、この俺の妻になれということじゃ」と皇祇は宣言した。
「おことわりします」
桜はこたえた。すばやかった。誰かが諌めたり、うなずいたりする前に、桜は先手を切った。当然、皇祇のほうは不満げだ。
「何ゆえじゃ?」
「私は夜伽だし、皇祇をあいしているわけじゃないから、奥さんになるのはおかしい」
「さ、桜さま、桜さま!」
桜としては率直に自分の気持ちを伝えただけであるのだが、稲城が慌てふためいた様子で間に割って入った。
「真実の刃はもう少しお手柔らかに……でないと、皇子が二度と立ち上がれなくなってしまいます。いちおうはじめてなので」
「だけど」
「……あいしているわけじゃないと言ったな」
皇祇の腕の力が緩んだ隙に、桜は畳の上に滑り下りた。しばし呆然と立ちつくしていた皇祇であるが、すぐに気を取り直して桜の肩をつかむ。
「だが、俺は! そなたが好きじゃ! だいすきじゃ!!」
よもや面と向かって叫ばれるとは思わず、桜は声を失した。意思とは無関係に、頬がゆるゆる染まっていくのがわかる。桜は苛立った。だって、雪瀬がいるのに。隣に雪瀬がいるのに。
「わたしのどこが、すきだというのです」
「桜は力持ちじゃ。追手に取り囲まれたときも、俺をひとりで守ってくれた。勇敢だ。意思が強い。それと、わらうと可愛い。そなたのことを思うと、胸が痛んで苦しゅうて、これはいったいなんだと蝶に聞いたら、恋じゃな!とこたえたのじゃ」
蝶は大好きだけれど、どうしてそんな余計なことを言ったりしたのだろう。桜は遠く離れた友を胸中で少しだけなじった。
「だけど、私は」
その先を言うのは、かなりの勇気が要った。
「わたしは、……きよせを追って、都を出て、」
ちがう。そうじゃない。そんなことは、誰もが知っている。
けれど、皇祇も雪瀬も、稲城に護衛までもいるこの場所で、自分の想いを打ち明けるのは、難しい。もしも雪瀬が受け入れてくれなかったらどうしようと急に弱気になってくる。
「確かに」
口ごもっているうちに、皇祇がうなずいた。
「この一年気が気でなかった。橘が桜を后にしてしまったらどうしようと思うと、夜も眠れなかったのじゃ。だが、来てみて安心した。桜はひとりで働いておったし、ちがったのだな」
「――……」
不意に桜は自分がとても傷ついたことに気付いた。
はためにも自分たちは何事もなかったようにしか見えないのか。そのことに思いのほか傷ついてしまっていて驚く。
「だから、嫁取りをした。異存はなかろう、橘?」
だけど、だけど。
「やめて!!!」
雪瀬が口を開く前に、桜は叫んでいた。雪瀬がわずかに驚いた風に桜を見やる。瞬きをすると、大粒の涙がこぼれ落ちた。
どうして、皇祇はそんなに恐ろしいことを訊くんだろう。
だって、もしも雪瀬がこたえたら。それでよいと、こたえたら。この娘を召上げてくれと、そう言ったら。桜はとても生きていけない。恐ろしかった。そばにおいてくれている、繋いだ手を離さないでいてくれる、たったそれだけのことを支えにして、どうにか立っているのに。雪瀬はたぶん、桜を引き止めたりしない。
「やめて。私が嫌なの。だから、いいの。やめて」
繰り返すと、皇祇はにわかにたじろいだ様子で、「わ、わかった。わかったゆえ――」と視線をさまよわせた。
「……そう泣くでない。葛ヶ原への滞在はまだあるゆえな。最後にうなずいてくれればそれでよい」
ためらいがちな手が伸ばされる前に、桜は自分の手の甲で涙をこすった。雪瀬が隣にいるのはわかっていたけれど、顔を上げられなかった。どんな顔をしているのか、見上げる勇気がない。
桜が勇敢だなんて、嘘だ。
本当は、うっすらと気付いてしまっている。雪瀬が絶対に一線を越えようとしないのは、手放せるように、するためだ。いつでも桜を手放せるようにするため。そのための機をうかがっているようなところが、雪瀬には前からあった。出会った頃からそうだった。橘雪瀬というひとは、ときどき子どものようなたどたどしさで愛を乞うのに、いつも決定的なところでその手を離す。ひとと寄り添って歩かない。芯の部分は誰にも譲り渡さない。まるでひとりで生きていかないといけない呪いがかかっているみたいだ。
桜は俯いたまま、こぶしを握った。それでも胸の奥底で少しだけ、したたかに期待していた言葉を雪瀬はやっぱり言ったりしなかった。