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一章、新帝(2)




「皇祇殿下がこちらへいらっしゃると?」

 遣いの稲城(いなぎ)の話をまとめると、つまりそういうことのようだった。上座を稲城に譲り、下座に座した雪瀬は淡泊そうな面をわずかにしかめた。対する稲城は神妙そうに顎を引く。確か皇祇のお守り役をつとめていた男だ。

「蜷(ケン)に新たな頭領が立ったことを重んじてのようです。即位礼のご準備もあり、朱鷺殿下自ら赴くことができませんので、代わりに血の繋がった弟君である皇祇殿下をと」

 葛ヶ原と隣接する蜷に新頭領が立ったことは、数か月ほど前に雪瀬から都へ伝えてあった。都におわす今上帝の支配が及ぶのはこの葛ヶ原が最果てであり、森を挟んだ向こうの土地は、蜷という狩猟民が治める別の国だ。かつて、蜷とは争いが絶えなかったが、今は相互不干渉を旨とする協定を結び、双方の長が新たに立った折には祝いのための使節を送っている。
 皇祇は近く即位する朱鷺の弟として、その大使に任ぜられたようだった。

「わたしから口を挟むのもどうかと思いますけど、本当に皇祇殿下でよろしいんですか?」

 稲城から話を聞いた雪瀬はためらったが、結局言った。
 何しろあの皇祇である。
 一年前に出会ったときは、俺は偉い!皇子だから偉い!皇子だからすごい!と力説していたあの皇祇である。異国の頭領を相手に同じことを言ったら、下手をすれば協定を破棄して開戦だ。
 稲城は渋面のまま、うなずいた。

「わたくしにも朱鷺殿下の心中は察しきれぬところがありますが、殿下がよいと言うからにはよいのでしょう。皇祇様も、御年十八になられましたし、少しずつ政のことも覚えなくてはなりますまい」
「そういえば、そうでしたね」

 長く箱入りで育ったせいで世知に疎く、加えてたいそう我儘な性格なので、まだ十歳かそこらの餓鬼のような気がしていた。けれど思い返すと、一年前都で別れたときの皇祇は、以前よりも少し精悍な顔つきをして、必死に都のしきたりを学ぼうとし始めていた。今はどうしているのだろうか。
 きっとご立派になられているんでしょうね、と雪瀬はいちおう心からの言葉を述べた。

「それで、朱鷺殿下はわたしに何を?」
「葛ヶ原領主橘雪瀬様には、皇祇様の蜷までの道中警護、及び帰路――都までの警護をお願いしたく」
「蜷はともかく、……都までですか?」
「七月には殿下の即位礼が行われます。今年は水無月会議はありませんが、早めに都に入っていただいても構わなかろうとの仰せで」
「こちらはまったく構うんですが」
「はい?」
「いいえ」

 雪瀬は肩をすくめて、うなずいた。
 予定では、葛ヶ原は六月の頭に発つつもりだった。朱鷺皇子の即位礼は七月初めにあるので、日数上はぎりぎりの旅程だが、滞在にはとかく金がかかるし、六月の大雨の時期は川の氾濫や田畑への被害などに気を使うため、あまり葛ヶ原を空けたくなかったのだ。
 とはいえ、次期帝の思し召しである。

「お請けしましょう。皇祇殿下は、いつ頃到着のご予定なんです?」
「いえ、それが……」

 稲城の渋面がさらに歪む。雪瀬が眉をひそめると、「非常に申し上げにくいのですが……」とこの高齢の侍従は上座にてうなだれた。





 実は何も起こっていない。
 一緒に帰ってもう一年弱経つにもかかわらずだ。

 はあ、と桜は重苦しい嘆息をひとつついて、煮っ転がしの芋を箸でつついた。連子格子から吹く風が上気した頬を撫で、竈の灰で煤けた裏戸を揺らす。
 船宿『翡翠』。瀬々木(せぜぎ)の古くからの知己である咲(さき)が女将をしている船宿に、桜は住み込みで働いていた。去年の秋からだから、もう半年を数える。雑用でもなんでもよいので働かせてほしいとおずおず頭を下げた桜を、咲は快く受け入れ、寝泊り用に布団部屋の一角を貸してくれた。以来、桜が葛ヶ原に帰るのは月に数度きりで、ほとんどを毬街のほうで過ごしている。

「何よ、あんた若いのに、ずいぶん辛気臭いため息をついてんのねえ」
「……そんなことない」

 厨に顔を出した咲に、桜は眉間を寄せてこたえた。

「でも、休みは明日までじゃなかったっけ? あんなにうきうきした顔で出て行ったのに」
「いいの。なくなったの」

 皇子の遣いを迎えるとなれば、宗家の屋敷に戻っても邪魔になるだけだ。あのあとは、無名としばらく近況を話しながら葛ヶ原を歩いて、毬街へ帰った。柚葉にも会いたかったけれど、また来月だ。

「まあ、あたしは人出が増えていいけど。あんた、よく動いてくれるしねえ」

 咲はさっぱりと笑うと、いくつかの指示を出して、仕事場へ戻った。春の毬街といえば、落雁大橋のたもとで行われる花見相撲、舟遊び、豊作を祈念しての予祝芸と、どこもかしこも花見客でにぎやかだ。花の盛りを過ぎたため、以前に比すると落ち着いたが、この時期に船宿を使う客はまだ多い。
 桜はできあがった煮っ転がしをお皿に盛り付けると、膳を整え、中へ運んだ。とたんに宴の喧騒がどっと押し寄せる。

「桜ちゃん、桜ちゃん、こっちにも酒追加で!」
「ああ、だめだめ! こっちが先だよ。熱燗ふたつ!」
「膳がまだ来ねえぞお」

 道すがら、次々と声をかけてくる常連客に律儀にうなずき、座敷役の少女たちへ伝える。普段、こういった表の仕事は愛想がよく、快活な少女たちが務めているのだが、咲の言うとおり人出が足りていないらしい。

「今日はおまえまでよく働いてるな」

 膳を運び終えてひと息ついていると、柄杓で水をすくっていた瀬々木に苦笑された。朝の回診の途中で通りがかったのだという。手招きされ、表通りの栗屋さんで買ってきたのだという桜餅を袖に入れられる。栗屋さんの桜餅はもち米がふっくらして、あんこはしっとりとかぐわしいと評判だ。ありがとう、と顔を綻ばせた桜に、「なに、水代だ」と瀬々木が柄杓を返す。
 午後を過ぎると、客足がいったん途絶えたため、桜は短い休憩をもらった。人気のない裏庭に面した花頭窓に腰かけ、瀬々木からもらった桜餅を食べる。やっぱり噂のとおりで、とてもおいしい。ひとりでこっそり相好を崩したが、舞い散る花をひとりで仰いでいると、なんだか無性にさみしくなってきて、あとは静かに食べた。

『何故です? 葛ヶ原がお嫌なのですか?』

 桜が葛ヶ原ではなく、毬街の船宿へ住まうと告げたとき、雪瀬は「そう」とうなずいたきり何も言わなかったけれど、柚葉(ゆずは)は若干の反対をした。どうして。何故。葛ヶ原がお嫌ですか。それとも、私たちと暮らすのがお嫌? 矢継ぎ早に尋ねられた言葉に、桜はふるりと首を振った。
 葛ヶ原が嫌いなわけではなかった。雪瀬や柚葉とも、できるならずっと一緒にいたい。けれど、何ができるわけでもないのに、雪瀬や柚葉にただ庇護されてしまうのはおかしい気がする。それでは、以前と一緒だ。都から逃げてきた桜を雪瀬が拾い上げて、庇護してくれたときと一緒。桜は安全な巣に戻りたくて、都を出たわけじゃない。

「でも、本当によかったのかなとときどき思うの」

 羽二重から落ちた花びらを拾い上げつつ呟くと、かたわらで丸まって眠っていた犬が尻尾をぱたん、と振った。
 一緒に帰ってもう一年弱になるのに、わたしたちは特段何も変わっていない。後退もせず、さりとて近付いた気もせず、ふわふわと曖昧な距離を保っている。昨夏に雪瀬を追いかけて抱きしめてもらえたとき、桜は自分がこのひとをあいしているように、このひともまた自分をあいしてくれているのかなと思った。桜を閉じ込めた腕はとてもやさしかったし、声も甘やかだった。
 けれど、なんだか今はよくわからない。わたしたちはときどき口付けをするけれど、それはたいていが大人の男のひとが子どもにするような淡いもので、ごくまれに、深くを探るような触れ方をしても、やっぱり桜をなだめるような趣を持っているのだった。雪瀬は絶対にその先の一線を越えない。
 越えない。
 まるであのひとは待っているみたいだ。
 桜の気が済んで、離れていくのを待っているみたい。ときどきそう思えてしまう自分が、桜はかなしい。雪瀬は本当はちゃんと約束を覚えていて、何も言わないけれどそのために時間を作って桜に花を見せてくれたのに。あのひとはたぶんすごく、あのひとからしてみれば、桜を大事にしてくれているのに。

「私が欲深になってしまった気がする」

 呟くと、犬はそんなことはないとでも言いたげに尻尾を振って桜の頬を舐めてきた。苦笑して、犬の今はきれいな毛並みに顔をうずめる。少し土のついた、ぬくい獣くささが心地よい。

「なんだ、泣いておるのか?」

 ふいに間近で上がった声に、桜は顔を上げた。見れば、舌を出して尻尾を振っている犬の隣に並んでしゃがみ、じっとこちらを見上げている少年がいる。薄紅の被衣で隠しているせいで、わずかにこぼれるばかりの髪は、このあたりではほとんど見かけることのない白銀だ。眸は若葉を思わせる翠で、陽光が射すと、きらきらと宝石のきらめきを帯びる。桜の大好きな友人と瓜ふたつのそれを、よもや見間違えるわけがない。

「……もしかして、皇祇でんか?」
「久方ぶりだな、桜! そなたはまったく変わらぬ!」

 桜が名を言い当てたことがよほどうれしかったのか、ご満悦の笑みを浮かべ、皇祇は桜の身体を犬ごと抱え上げた。





「もう到着されているだって?」
「申し訳ございませぬ……」

 聞き返した雪瀬に、稲城は額が畳につきそうなほど平伏し、弱りきった声音で答えた。




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