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一章、新帝(1)




 風がひときわ強く哭いて、咲き初めの花枝を揺らした。
 平栄五年、四月一日。
 都は、大嵐に見舞われていた。春の寒夜にもかかわらず、額に脂汗を浮かべて祈祷をしていた女聖は、几帳に映った巨大な花影にひっと息をのんだ。まるで鬼が室内に忍び入ったかのように見えた。

「うう……うう……」

 塗り壁に囲まれた部屋の中央では、腹を膨らませた女がひとり唸っている。天井から垂らした紐につかまり、髪を振り乱す姿はさながら鬼女か何かのようだ。女の眉間にはきつい縦皺が寄り、虚ろに開いた眸は何も見てはいまい。
 ああ。ああ。ああ。
 ひび割れた唇から断続的な呻きが漏れた。果敢なげな容貌に反し、老女じみた呻き声を上げる女が恐ろしいと聖は思う。呻く女にあわせて、膨らんだ腹が上下に揺れた。子がひとり入るというだけで、かくも腹は膨らむものなのか。もとより、臨月を異常にのびたお産だった。あの腹には何かもっと恐ろしいものが詰まっているのではあるまいか。

「ああああああ!!!」

 ひときわ鋭い叫び声を女が上げた。弓なった背がくずおれ、女の開いた股座に手を突っ込んでいた産婆が何かを取り出す。産婆に抱かれた赤子は、しばらくの間泣かなかった。何度も尻を叩かれ、ようやく、うああ、と弱々しい声を上げる。生まれたその瞬間から、生まれ出でたことを嘆くかのような、かなしい泣き方だった。

「――……おのこでございます」

 赤子の検分を済ませた産婆が厳かに告げる。うなずいた大聖が裾を裁いて、席を立った。外に控えた伝令に告げるつもりなのだろう。

「皇子のご誕生でございます!」

 今か今かと息をつめて待っていた諸官の間に、ざわめきが広がった。決して慶びだけではない、雑多な感情と思惑の渦巻く外界をよそに、細く開いた襖から女聖が産所をのぞくと、今しがた皇子を生み落した女が乱れた褥に悄然と横たわっていた。産婆が脈を確かめるために手首を取り上げると、ぼんやりと睫毛を震わせる。そうしていると、先ほどの鬼女の姿は消え、まだ少女といってよい果敢なげな女だけが残った。おのこでございますよ、と産婆が励ますように女に言った。
 女の目には喜びも落胆も浮かばなかった。ただ、母の性とでもいうのか、赤子のほうへおぼつかなげに手を伸ばしたので、近づけてやるよう産婆に口添えする。藍は、まだ目を開かぬ赤子にそっと触れた。人形のようだった眸にやさしげな色が浮かんだのは、つかの間。

「いやああああああっ」

 藍の手が赤子を振り払う。慌てて赤子を受け止めた女聖は、藍の憔悴しきった表情に驚き、腕の中の赤子を確かめた。そして再び、ひっと息をのむ。赤子の眸は開かれていた。そしてその眸は、――血のような、緋色をしていた。

 平栄五年、四月。
 今上帝の第二十皇子はかくのごとく誕生した。
 黒髪に緋色の眸。皇族の容貌に似つかぬその姿は、忌子、とひとびとに噂され、おぞましがられた。





「きよせ」

 緋色の眸を細め、桜はそぅっと誰にも聞こえないくらいの小さな声で前を歩くひとを呼んでみた。橘雪瀬は、舞い散る花をまぶしげに見上げながら、風音(かざね)という馬を引いている。風音の青毛や、雪瀬の若草色の羽二重に花びらがいくつもくっついて、いつになく春めかしい。こうして数歩後ろを歩きながら雪瀬を見上げているのが桜はいっとう好きだった。
 周囲にはまたいつもの『みまちがい』だと笑われるが、桜にとって雪瀬は、緑の木漏れ日がまだらに落ちた背中も、光が当たってほのしろくなった指先も、春風に揺れる濃茶の髪やなんかも、どれも宝物のようにうつくしくて、どれだけ見つめていても見飽きないのだった。

「……何?」

 さすがに視線に気づいた雪瀬が胡乱げに振り返った。雌馬の風音が見透かした風に鼻を鳴らすので、「な、なんでもない」と桜は首を振って俯く。
 あなたに見惚れていました。
 というのは、いくらあけすけな桜でもさすがに言えなかった。

「花、満開だね」
「どうかな。少し過ぎた気がする」

 雪瀬はそう言うが、高台から見下ろす葛ヶ原の桜は絢爛だ。都では何度か春を迎えていたが、葛ヶ原で桜を見るのはこれがはじめてだった。艶っぽいたおやかさがあった都のものに比べて、葛ヶ原の桜は淡雪めいた花色をしており、風が吹くとさざめいて、くるくると天を舞う。
 一面ましろに染まった里を眺めて、桜は眦を緩めた。

「きれい」

 雪瀬は覚えていたのだろうか。
 昔、出会って間もない頃に、いつか葛ヶ原の桜を見せると言ってくれたことを。
 どうだろう、覚えていないかもしれない、と桜は苦笑した。雪瀬は薄情で嘘吐きだから、桜と交わした小さな約束なんて覚えていないかもしれない。でもそれでもよかった。
 
「散ってしまう前に、来れてよかった」
「そう?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」

 そっけなくも、律儀に返してくれるのが楽しい。風をはらんで翻った若草の衣裾をつかまえる。拒まれなかったので、そのまま背中に額を押し付け、手を回した。たわいもない、甘える仕草だ。

「……抱きしめて、へいき?」
「もうしてんのに、聞く?」
「もっとして、へいき?」
 
 陽が当たってあたたかくなった羽二重に顔をうずめていると、諦めたように、手の上に手を重ねられた。桜の気が済むまでさせることにしてしまったのだろう。指を絡めようとすると、代わりに深くつかみ寄せられた。桜よりひんやりして固い指先が手のひらを撫ぜる。くすぐったくて、小さな笑い声を立てた。
 少し離れた樟の下では、風音がやれやれといった様子で、淡い情事にはそっぽを向き、尻尾を振っている。衣越しに伝わるぬくもりに目を細め、口付けたいな、と桜は不意に思った。こたえてくれるだろうか。それとも、ふしだらな娘のように思われてしまうだろうか。
 懊悩に小さく息をつき、おそるおそる雪瀬を見上げた。膨らみ始めた緊張をのみこんできゅっと指を握り締める。そして。そして桜は――。
 大変居心地の悪い視線に気付いて、瞬きをした。

「取り込み中、失礼するが」

 無名(むみょう)の憮然とした顔と葦子の鼻面が茂みからこちらをうかがっていた。葦子については、のほほんと。無名は視線をそらし気味にして、いかにも居心地悪そうに。桜は声のない悲鳴を上げて、飛びすさった。

「むみょ、むみょう。どうしているの?」
「都からの遣いだ」

 雪瀬は特段桜のように動揺した風はなく、少し乱れた羽二重を直していたが、「都?」と無名の言葉には怪訝そうに反応した。

「朱鷺(とき)殿下の即位には、まだ時間があったと思うけど」
「ちがう。皇祇(すめらぎ)殿下のほうだ」
「皇祇が?」
「ああ。とにかく至急戻ってくれ。今は柚葉が迎えている」
「……わかった」
 
 うなずいて、雪瀬は風音の綱を解き、馬上のひとになる。ふたり乗りだと遅くなるので、桜は無名に任せて置いていくことに決めたらしい。ごめん、と離れ際に肩にかけられた羽二重はやさしさのようでもあったし、機嫌を損ねかけている桜への気遣いかもしれなかった。
 別によいのである。雪瀬は領主様なのだから。
 今日だって一日ひとりじめできると思っていたわけじゃない。
 桜は羽二重を引き寄せて、小さくなっていく青毛を見送る。けれど、桜の中では何年か越しに叶えられた花見が一瞬で打ち切られてしまったのは悲しい。何故、このときに。皇祇はわたしに恨みでもあるのか。それとも、一瞬でもよこしまなことを考えた天罰か。

「悪かったな」

 残った無名が、頬をかきながらぽそりと呟く。

「べつに、」

 と返した自分の声は我ながら不満がありありと滲んでいたので、咳払いをして、いいの、と桜は言った。春の空へ天蓋のように花枝が腕を伸ばしている。葛ヶ原の桜は色が淡いせいか、空の蒼が花びらから透けて見える。絶え間なく吹き続ける風が、蒼に染まる花をさらっていった。

「ほんとうに、きれい」

 かき乱される黒髪を手で押さえ、桜は空を仰ぐ。
 そのとき都を駆け巡っていた騒乱をよそに、葛ヶ原の空はまだ穏やかに凪いで、やさしかった。




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