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序、鵺




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 声が、している。
 声だ。おんなの声。おんながじぶんを呼ぶ声。

「つき」

 糸鈴の空に白い呼気をこぼしながら、甘く澄んだ声が囁いた。どこか睦言めいた響きを持って、彼女はいつも彼の名前を呼ぶ。いとおしむように。慈しむように。つき、と。そう呼ぶ。
 己の伴侶とすることを誓った女だ。生涯でただひとりの女のはずだった。

「ぬえ」

 彼は少しだけ微笑んで、少女の痩せた、されど腹のあたりにまろい膨らみのある身体を抱き締める。そうすると、衣越しに人肌の温もりが感じられた。ぬえ。呼ぶと、抱き締め返す腕の力が強くなる。雪片が絡んださやかな黒髪が彼の凍えた頬を撫でた。まだ雪に覆われた糸鈴の里を見下ろす彼女の眸は、けれどきっと甘やかな緋色をしている。

「なまえは、どうしようか」

 尋ねると、これから母になる少女はそっと、ささめきごとでもするように彼の耳元に唇を寄せた。さくらがいいな、と囁く。

「さくら?」
「そう。春になるとこの美しい里を覆う花。わたしたちの子はね、つき。きっと、春のにおいのする可愛いおんなのこだ。あなたの子だからきっと、心のやさしい子になるよ。ねえ、だから、つき」

 彼の頬に両手をあてて、彼女は微笑んだ。

「あいしているよ、月。たとえあなたがどんな姿になっても」

 そうして死んでいった。
 生涯ただひとりの女。





 微かな足音を捉えて、黒衣の丞相月詠(つくよみ)は目を覚ました。
 額に白い手のひらが置かれている。視線を上げると、藍(あい)が今にも泣き出しそうな顔で自分を見つめていた。濡れた黒眸を赤く腫らしている。ずっと眠らずにそばについていたようだった。

「もう目を覚まされないかと思いました」
「……そうか」

 口端に苦笑が載る。藍はいくつになっても出会ったばかりの五つの少女の顔をして自分を見ている。それが憐れで、健気にも思えた。

「夢を見ていた」
「……どんな?」
「そうだな。遠い昔の」

 口にしてから自嘲に頬を歪め、月詠は半蔀越しに広がる果てのない空を仰ぐ。

「気がふれるくらい昔の、空虚な夢さ」




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