終章、湊にて




 湊に男がひとり立っている。
 夏の嵐は、存外長くあたりにとどまった。しばらく船の出入りに支障をきたしたほどの嵐はしかし、数日もするとすっと晴れて、代わりに今は凪いだあおみどりの海が広がっている。
 都の玄関口と呼ばれる霧井湊である。
 少し前にも、湊から毬街へ向けて一艘の大船が発った。東へ向かう旅人たちを多く乗せた船で、今はもうずっと小さくなった船影を男の目は追っているようにも見えた。

「お見送りですか」

 不意に背後から声がかかる。男の隣に立ったのは、行き交う旅人たちよりずっと軽装をした同じ年頃の若い男だった。杖を握っていない片手だけで器用に日よけの笠紐を解き、隣に並ぶと、額に手をかざすようにして穏やかな水平線を眺める。緩く結ばれた濃茶の髪を風に遊ばせている。真砂だった。

「ちなみに、俺はちがう。あなたに会いにきたんよ、『アカツキ』。……見つけるのに、思ったより時間がかかっちまったけど」

 そういうわりに真砂の声は軽やかで、男もまた、眉ひとつひそめることはない。埠頭に立つふたりの男に、嵐の去ったあとのぬるい潮風が吹いている。

「少し、話をしてもよいでしょーか」

 珍しく真砂はうかがいを立て、相手の返事を待った。よっこいせ、と義足を隠しもせずに、乾かしてあった古い船の上に腰掛ける。近くで船の掃除をしていた子どもたちが、へんな足だと無邪気にわらう。うるせーと言って、しっしと杖で追い払った。泥にまみれた子どもたちの明るい笑い声が弾ける。兄妹だろうか。やれやれといった顔で杖を引き寄せると、男もまた目を細めて子どもたちのほうを眺めていた。みどりの波が積んだ石垣に打ち寄せる。

「玉津卿の首はついぞ、あちら方に奪われなかったらしいね」

 寄せては返す波音に耳を傾けながら、「朱鷺殿下は流石」と真砂はいかにもうわべだけの称賛をした。

「だけどもさ、その聡明な次期帝についてひとつ、どうにもわからないことがあったんよ。都では、雪瀬が玉津卿に囚われたこと、捕縛の宣旨により反対に玉津卿を討ったことで持ち切りのようだけど、そもそも殿下は何故、大事な弟皇子の匿い先に葛ヶ原の橘雪瀬を選んだのか」

 問いかけつつも、真砂は相手の返事を期待してはいない。男もそれを心得ている風で口を挟むことはなかった。

「殿下と雪瀬に面識はない。兄と違って、風術すら使えない凡庸な弟だ。ろくな噂だって流れていなかった。だけど、朱鷺殿下は大事な人選に迷うことなく雪瀬を選んだ。まるで誰かが殿下にそうせよと進言したみたいだ。雪瀬の性格をとてもよく知っていて、あいつが次に何をするかを違わず予測できる“そいつ”は、朱鷺殿下のそばにいて、おそらく今回の件を仕組んだ張本人じゃないかと俺は思っているんだけど、どうでしょう。アカツキ」
「それで?」
「……アカツキって、すげえ紛らわしい名前だよな」

 独り言のように呟き、真砂は口端を上げた。

「おかげで、暁のクソにまで顔を合わせるはめになった俺の労苦をちっとは思いやってほしいもんだぜ。とんだアカツキ違いで、参った。そういや、聞いた話だと、玉津卿は今わの際に叫んだらしい。『アカツキ、よう来てくれた! よう――』。その男が、玉津卿を討った。もちろん、暁のクソ野郎じゃあない。この二年、卿のもとで働いていたのは別のアカツキ。卿が死に、宮中からひとまず古狸の勢力は一掃され、対する雪瀬は三年半前に取り上げられた葛ヶ原の権益を一部取り返した。だいぶがんばってたあいつにはかわいそうだけども、たぶん、すべてアナタの思い描いたとおりに」
「――相変わらず、きみは口がよく回る」
 
 たしなめるように、相手は苦笑した。そうすると、男の纏う空気が和らいで、生来の彼らしい表情になる。
 
「思い描いたとおりにというのは言い過ぎだよ。刺客数人の相手が朝飯前のわら人形を連れた女性や、窮地に鐘を鳴らす女の子なんて、予想つくわけがない。皇祇皇子を危険な目に遭わせてしまったのも失敗だったし、雪瀬が卿を捕まえきれなかったのも予想外」
「だから、アナタが出て卿を討った」
「最初からそうするつもりではあった」
「あいつの手を汚させないため?」
「いいや? 捕えられたあとあれこれ話されると、こっちが困る。それに、雪瀬は卿を討とうなんて考えてもいなかったね。最初から最後まで捕まえる気だったでしょ」

 困った風にわらう。いとおしんでいるのか、倦んでいるのか、よくわからないわらい方だった。眸を眇め、真砂は空を仰いだ。嵐の過ぎ去った空は青く、澄み渡っている。まったく嫌になるよな、と思う。しばし居候をしていた南海から真砂が都へのぼったのは、確かに、蝶姫のためではない。
 『探し物』をするためだった。

「三年半前。家督を継ぐことを決めた橘雪瀬は都から葛ヶ原へ戻る際、その兄、橘颯音の首を所望し、持ち帰った。自ら丞相に頼んで首を受け取ったらしい。大半の人間はそれを兄を慕う少年の情だととったようだけれど、俺はちとちがった。あれが案外、諦めが悪いのを知っていたから」

 領主の肩書を背負って動けなくなった従弟の代わりの『探し物』である。いい歳をした男の世話を自主的にやいてやっているんだから、自分は本当はお人よしなんじゃないかと真砂は思う。

「検分に寄越された首は、どこかの誰かが盗んだせいで、死後ふた月以上が経ち、肉は腐敗し、原型をとどめていなかった。それでも、橘颯音と断定されたのは、いくつかの外見的な特徴と証言、首を入れた樽が百川の焼き鏝を押されたものであったことなど。にもかかわらず、丞相に訊かれた雪瀬は断じたらしい。これは兄の首であると。――俺はね、こう思っているんよ。あのとき、雪瀬は真実、あの首が『誰のものか、わからなかった』んじゃないかって。そして直後に気付いたんでないかね。『わからない以上、誰の首でもありうる』可能性。だから、雪瀬は目の前の首が橘颯音の首であるということにした。そうすれば、万に一つであっても生きているかもしれない兄を逃がすことができる。たとえ贋の首であっても、自分が持ち帰って、領内に埋めてしまえば、のちのち誰かが疑念を抱いたって、己の許しなく掘り起こせやしない。『空葬』。あれは、カラの弔いだったんよ」

 とろみを帯びた秋に近い色合いの海を海鳥の群れが翔けていた。遠のいては近づくかしましい鳴き声を男は静かな顔で聞いている。不意に眉間が痛んできて、真砂は嘆息した。慣れないことをしているからかもしれなかった。

「あいつは今も、おまえの帰りを信じて待っている」

 何のはずみか、鳥の声が消えた。
 風向きかもしれない。ここにいるのは、当代一の風術師。風の、操り手である。

「こたえてやらないの? ――颯音」
 
 少し前までアカツキと名乗っていた男は肩をすくめ、弱く苦笑した。





 強い風が吹いている。
 もう秋も近い時分であるのに、その日の毬街埠頭は、盛夏のうだるような暑さに焼かれていた。容赦のない陽射しをまぶしげに仰ぎ、今代葛ヶ原領主の妹――橘柚葉は日傘を差して埠頭のあたりの石垣を歩く。柚葉にとって、今日は特別な日だった。初夏の頃に都に旅立った兄が久方ぶりにこちらに戻ってくる。数日前、兄の使いである白鷺から報せを受け取った柚葉は浮き立つような心地で埠頭に立った。海の色は明るい。甘い香りのする木々を風が颯と撫で、灼熱の地表をさらって通り過ぎる。
 揺らめく水平線上にやがて、小さな行船が現れた。
 あ、と普段は大人びた少女の顔に子供らしい笑みが咲く。駒下駄を鳴らして、柚葉は岸辺へ向かう。向かうにつれ、行船のほうも陸へと近づいてくる。遠目には小さな点に過ぎなかった船は近づくと、張られた白い帆が風にたなびき、船子たちの威勢のいい掛け声が耳を打った。到着を知らせる笛が青い空に長く、長く、響く。柚葉は傘を畳んで、少ない護衛とともに岸辺に立った。帰りを待つひとびとがすでに集まっている。その中に身を置いて、柚葉もまた待つ。
 あいする兄。その兄が、あいする少女を連れて、葛ヶ原へ戻ってくる。
 三年前に別れてしまった少女だ。
 変わりはないだろうか。都での生活はつらくなかったろうか。まっすぐだった心根が曇ったり、病んでしまったりしていないとよいけれど。
 不安と興奮とで高鳴る胸を押さえて、柚葉は沖に停泊する船を仰いだ。潮風が吹き抜ける。やがてこちらへ向かって漕ぎ出した幾艘かの小船を見つけ、柚葉は目を細めた。小船には大柄な男たちに混じって、兄と、それから小さな少女の姿がある。海面を指差して、兄に何かを囁いていた少女はふと吹く風に惹かれたかのようにこちらを振り返った。軽く手を振ってやる。緋色の眸がみるみる瞠られ、ふっと花がやわく綻ぶかのような微笑がこぼれた。
 頬を上気させながら風を受け、柚葉は小船がたどりつくのを待つ。
 そして降り立った彼らを迎え、最初にこう言うのだ。
 おかえりなさい、にいさま。
 おかえりなさい。おかえりなさい、桜さま。
 たたずむ少女の髪をみどりの風が撫ぜゆく。
 それは、嵐のあとの青天の到来を彼らに告げていた。





三譚、風【完】


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連載期間/2009.1.1〜2013.8.11