六章、呼声
六、
誰かの手が背をさすっている。
熱でも出したのか、うなされていた。うわごとを吐いて身をよじる桜を寝かしつけるように、そのひとの手が背をさすり、頬にひんやりした手のひらをあてる。その、皮膚のところどころ固くなった指先や、古い肉刺の残る手のひらはひどく懐かしいものだった。ほっと力が抜けて、甘えるように手のひらに頬を擦る。そうすると桜の望むとおりに、頬をまるく包まれた。身体じゅうがしあわせでいっぱいになって、桜は笑みを綻ばせる。
目を覚ますと、頬にあったはずの手のひらはなくなっていた。
身体が熱い泥濘に浸かっているかのようで、重い。咽喉の渇きを覚え、桜は呻いた。わたし、なにをしていたのだっけ。ここ、どこなんだろう。重たい頭を動かして探ると、かたわらでひとの動く気配がした。
「お目覚めですか」
察した風に、水を湛えた漏斗を差し出される。唇をあてると、ぬるい水が咽喉を滑り落ちた。適度にぬるまった水は嚥下しやすい。幾度かに分けて水を飲み干すと、桜はぼんやりとかたわらに座したひとへ目を上げた。漏斗を水差しに戻している黒髪の青年へ、だれ、と問う。声は思ったよりも細く、ずっと喋っていなかったひとのようにかすれていた。
「朧です。前に一度、都でお会いしたのですけど、忘れてしまわれたかな。ほら、無名さんのときの」
「……ああ」
名を聞いて思い出した。無名が負傷したとき、雪瀬が遣わせた医者の青年がこのひとだった気がする。わずかな記憶をたどってうなずくと、朧は人懐っこそうな笑みを浮かべて「思い出してくれたみたいでよかった」と言った。
「ちょっと首のあたりに触れますね。痛むところはあります?」
「ううん」
「じゃあ、口を開けて」
言われるとおりにしているうちに、霞がかった意識が徐々に鮮明になって、直前の記憶も戻ってきた。
「ここは?」
「霧井湊ですよ。結局、嵐が戻って、船も出なくなってしまいましてね。静かでしょう。安宿ですが、離れの二階なので、あまりひとも来ませんよ。安心しておやすみなさい。飯が不味いのだけが玉に瑕なんですけどね」
「雪瀬は……?」
桜の記憶は、船を待っていた雪瀬を呼んだところで途切れている。ここに朧がいるということは、雪瀬は桜に気付いてくれたのだろうか。意識を失う直前、大きな腕が桜を泥濘から引き上げてくれた気がしたのは、それとも、疲弊した心の見せた幻や夢のたぐいであったのか。不安に駆られて尋ねると、朧は「ああ」と困った風に頬をかいた。
「先ほどまでいらっしゃったんですけどね。いやあ、僕を呼びつけたときのあのひとの顔、見せてあげたかったなあ」
「さきほど?」
「ええ。ついさっきまで、そこに」
朧が示したあたりの畳に触れると、まだ温かい。その温もりを確かめ、桜は手探りで身を起こした。
「ちょっ!? 何してるんですか。あなたまだ足……っ」
「あのひと、どっちへいきました」
「下だと思いますけど、だからお待ちなさいって」
制止する朧には耳を貸さず、桜は内廊へ飛び出した。確かに身体は本調子じゃないらしい。足もやはり痛んだし、少し歩いただけですぐに息が上がり、軽い眩暈に襲われる。壁を支えに進み、階段へたどりついた。ぶり返した眩暈に眉間をおさえていると、雨音に交じって戸の軋む小さな音が鳴った。その音に導かれるようにして、白濁しかけた視界が焦点を結ぶ。
「――雪瀬」
階下の戸口で濡れた傘を振っているそのひとを見つけて、桜は言った。
思ったよりも、静かな声だった。相手が振り返るのすら桜は待たなかった。階段を駆け下りる。最後の数段で勢い余って足を滑らせ、ほとんどぶつかるようにしてそのひとをつかんだ。つかんだ、と思った瞬間、奇妙な浮遊感があり、直後派手な音が立った。
「っつー……」
微かな呻き声が上がる。数段であれ、踏み外したにもかかわらず、どこにも痛みを感じないのは、代わりに相手が引き受けてくれたからだろう。身じろぎをして、下敷きになった男を見つめる。勝手口になっているらしいそこは、数畳ぶんの土間があるだけで、しんとしている。外に出た帰りなのか、濡れた傘が立てかけてあった。桜を追いかけた朧が肩をすくめ、人払いをして二階に戻った。
「なんで落ちてくる……」
顔をしかめて呟いた雪瀬は、こちらを見上げるや、表情を消した。常磐色の衿元にぽたりと丸い染みができる。それは雪瀬の頬にも落ちて、点々と水痕を作った。
「どうして」
どうして、なんで、なら桜のほうがずっと言いたい。
きつく唇を噛み、桜は溢れる涙を乱雑に拭った。
「どうして、逃げるの? いつも! どうして!!」
握りこんだこぶしで、力任せに男の肩を叩く。
憤っていた。三年分の時間を何もなかったようにされたことも、紫陽花を許嫁だと偽っていたことも、放棄するだなんて一文を寄越しただけですべて終わらせた気になって去るところも、それでいて、こんな風に弱った自分を放っておけないところもすべて。すべてだ。
「私が厭わしいなら、厭わしいと言えばいい。話したくないなら、話したくないと言えばいい。それなのに、どうしていつも、何も言わないでいなくなるの?」
こぼれた嗚咽をもどかしげにしゃくり上げる。
もっとなじってやりたかった。もっともっと責め立ててやりたかった。このひとが憎くて厭わしくてたまらなかった。
ふと涙と汗にまみれた頬にひやりとした指の背をあてられる。濃茶の双眸が桜を見上げている。静かな目だった。奥で何がしかの感情がゆらめいたのに気付いたが、それでも静かな眸だった。
惑うように頬を滑った指先は桜が瞬きをすると離れて、肩のあたりをそっと押した。その気になればたやすく押しのけられるのに、桜が自分から離れるのを待っているのがとても雪瀬らしかった。拒まれているのだとわかった。いつもそうだ。触れようとすれば、離れる。手を伸ばせば、かわされる。雪瀬はいつもそうやって、桜を必要以上に寄せつけない。そして、桜もそれ以上近づくことができない。踏み込んだら、きっと拒まれる。きっと、おしまいになる。それがこわかった。こんな、あるのかないのかもわからない微かな労り、それだけがかろうじて感じ取れる情に縋り付かずにはいられないほどに。桜は恐れていた。
雪瀬に拒まれることを恐れていた。
それで負うであろう傷の深さに、ずっと。
――そうだね。
わたしもずっと、逃げていたんだ。
「欲しいの」
指先が、少し乱れた常磐色の衿を引き寄せる。嗚咽を無理に押し込めると、泣きわらいにも似た表情がこぼれた。
「あなたが、欲しいの」
そうして、桜はあいする男に口付けた。
自分からするのは、はじめてだった。うまく触れ合わせられない唇がもどかしく、つたなく啄ばみ、息を吸って、唇を割り、ふるえる舌先を絡める。指がかじかんでいる。まるで暗闇の中にひとり放り出されてしまったようで、触れるあたたかなものをなぞるだけで精一杯だった。けれど、うまくできなくて、何度も噎せてしまう。溢れる涙を目を瞑って追いやり、なお唇を触れ合わせた。
雪瀬が欲しかった。
それしかいらない。他のものはなんにもいらない。
ただそれだけが、桜は欲しかった。
息が続かなくなってしゃくりあげると、されるがままだったそのひとの手が不意に頭へ回った。離れかけた唇を今度は確かな意思を持って塞がれる。背を引き寄せられ、呼吸をひとつ与えただけで、また口付けられた。ぬるい涙が頬を伝う。桜はいつの間にかつかんでいた雪瀬の手の甲に触れた。こんなに大きな手のひらなのに、こんなに薄い皮膚なのかと不思議に思う。その真中のあたりに引き攣れた傷痕を見つけた。するすると、愛撫するように撫でて、指を絡めた。はずみに舌先を深く吸われる。声が蕩けた。それもみんな、のみくだされる。頭がおかしくなりそうだった。手のひらが背に触れただけでもう、頭がおかしくなりそうなくらい、いとおしい。桜はこの手のひらをあいしている。あいしている。もうどこへも戻れないくらい、ふかく。
「――……なんで、わかんないの」
長く絡めあったあと、ようよう唇を離された。息をこぼして薄く目を開くと、肩を押されて壁に背をぶつけた。手首をつかみ、そのくせ、ひどく傷ついた風な顔をしたのは相手のほうだった。襦袢の乱れた肩に、果敢なく濃茶の前髪が触れる。
「ひどい奴なんだって、今ひどいことされてるんだって、なんで、わかんないんだよ」
「雪、」
「桜の言うとおりだよ。ずっと逃げていたんだ、俺は」
指の先が白くなるほど握り締められた肩が痛い。そうであるのに、右手の力ばかりが弱いことに気付いてしまって、桜はかなしくなった。それは雪瀬のほうが痛いくらいわかっていることだろう。
「すくえなかったんだ。颯音兄も、ゆきも薫ちゃんも、柚も、真砂も、最長老も、暁も、凪も、藍も、誰も彼も、俺がぜんぶ。できなかったんだ、できなかったんだよ。たすけたかったのに、でもできなくて、いつも目の前で失ってしまう。そういう自分から逃げたくて、それで、あなたを傷つけた。向き合うのが怖くなって、どんな顔をしたらいいのかもわからなくて、ずっと逃げ続けてた。こんなのが、本音だよ。本音なんだ。桜。俺は桜が思っているよりずっと、よわくてあさましくてきたなくって救いようのない、あいする価値もないにんげんなんだよ」
俯けた肩が震えている。
首を傾け、桜は幼子のように肩に縋っているひとを見つめた。
ああ、このひとは。
やっと捕まえたこのひとはなんて。
「しってる」
桜は弱く苦笑した。
「しってるよ」
なんて、ちいさなおとこのこだったんだろう。
知って、いるのだ。あなたがとても弱いひとであることも。ずるいひとであることも。嘘ばかり吐いて、ひとをちらとも寄せ付けないで、臆病で、きっとやさしくもない。けれど、触れたいと思った。背中を固くこごめて、指先に力を込めて、嗚咽を喉奥に押し込めて、それでどうにかひとりで立っているこのひとに、だから触れたいと思った。
「じゃあもう、気が済んだでしょ」
投げやりに雪瀬が呟いたので、苦くわらい、そっと頬を擦った。濡れた頬に頬を触れさせていると、潰れるような吐息が漏らされた。肩をつかんでいた指先がひらいて、ためらいがちに背に触れる。一度、二度、離れかけた手のひらはやがて強く桜を引き寄せた。
「ごめん」
雨脚がまた強くなったことに桜は気付いた。
声に引かれて、沙羅の葉が垂れる墨色の連子格子へ向けていた目を戻す。
「ごめん、」
きつく引き寄せたまま、うわごとのように繰り返す。実際、うわごとだったのかもしれない。それくらい、雪瀬の声は無防備でたよりなかった。息を吐いて、濃茶の眸を閉ざす。深い絶望がその横顔にあった。絶望と、なお切実に、乞いもとめるような。届かないものへ祈るような、その。
『――……ゆるして』
記憶の中の声が、蘇る。しとしとと降る雨にまぎれて繰り返されるうわごとめいた謝罪が別の色彩をもって、身体の芯に触れた。どうしてだろう、あのときには見えなかったもの、今まで触れられなかったものが不意にすべて明らかになってしまって、溢れゆくまま、まるで無防備に自分に向けて注がれる感情に、桜のほうが喘いで、溺れそうになる。
呼ばれていたのだと、わかった。
声なき声で、あなたはわたしをずっと、呼んで。呼んでいて、くれたのだと。
決して明かされることのない心の奥、ためらいがちに触れる指先や、そっと、本当にそっと握り締めてきた手のひら、口付けにひそんだ熱に、愛情に。気付いたとたん、息もつけなくなってしまって、桜はゆるゆると目を細める。
「だいじょうぶ」
そう口にしたのは何かを考えてのことではなかった。
ただ、どうしてこのひとはこんなに苦しげなのだろうと、傷ついているのだろうかと。
「だいじょうぶだよ」
微笑むと、雪瀬は濃茶の眸をまぶしげに細めた。
それから、困った風に苦笑する。
「こんなにいっぱい泣いてんのに?」
差し伸べられた指先が眦に触れた。左も右も、丁寧に同じようにする。
「もう、泣かないよ」
「そう」
「わたし、前よりずっと、わらえるようになったから。うまくわらえるようになったから。だからもう……」
「――じゃあ、わらって」
ふわりと花がほどけた。
その、一瞬。
「微笑って、桜」
そのまぼろしのような一瞬を、桜は生涯忘れないだろう。
大きな腕が身体を引き寄せる。先ほどよりも、今度はそっと。
雨影が常磐色の羽織にまだらに落ちて、波紋を描いていた。沙羅の葉をふるわせ、落つる雨影が、ああまるで、咲き初めの花のようだと思う。花のように美しく、とても、とても美しく、かなしさと蕩けるような幸福と、その両方を感じてしまって、目を伏せる。
わらおうとしたのに、涙が溢れてしまって、もはや言葉にすらならず。
花をえがくその背を、だから、抱きしめた。
【六章・了】
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