六章、呼声



 五、


 海が時化ているらしい。
 葛ヶ原一行は都からひとの足で一日半ほど離れた霧井湊に来ていた。
 昨日の昼過ぎを予定していた船は、風の強さからなかなか出航できず、夕方に強い雨が降り出してきたのもあって、いったん取りやめとなった。葛ヶ原から都の間には道中、険しい山岳地帯がある。場所によっては山賊などがはびこっていて治安が悪く、東方面への旅人は陸路を避け、水路を取ることが常だった。行きは都行きの直行があったが、帰りは海流の関係で霧井まで出て、東回りの航路を取る。近くの宿場には、足止めを食らった旅人たちが溢れ返っていた。
 船宿二階の勾欄から、丸めた帳簿を片手に旅人の喧騒を眺めていた雪瀬は、微かな羽音に顔を上げた。雨風を切って下降してきた白鷺が勾欄に留まる。

「船は一刻後に出るそうだ。半刻したら、乗船の受付を始めるらしい」
「案外はやく回復したね。もっと待たされるかと思ったんだけど」
「宿が足りんからなあ。旅人たちの突き上げを食らってるんだろう。ひとまず受付を開始させただけみたいだから、本当に出航できるかは怪しいな」

 行程通りに進めば、霧井は経由地として通過するだけの湊だった。しかし予想外に勢いづいた嵐に追い付かれたため、湊を出る前に船の出航が止まり、結局、昨晩は急遽宿を取って風が落ち着くのを待った。
 にわかに動き始めた人波を確かめて、雪瀬は窓から視線を解く。滞在中の費用を計上した帳簿をすでにまとめた荷に放って、濡れた羽を震わせる白鷺を抱き上げた。衣袖で水気を含んだ羽をかき回す。乗船が始まれば、そのうち小姓の竹が呼びに来るだろう。

「南海の頭領を見かけたぞ。放免の件、自分からも薫衣に伝えておくと請け負ってくれた。手順は必要だろうが、秋には葛ヶ原に戻ってこられるんじゃないか」
「そう」
「伝えたら、柚葉も喜んでいた。玉津卿から返された山岳地帯との塩の交易権はもうあいつが交渉を始めている」
「そっか」
「……雪瀬。おまえ、本当にこれでいいのか?」

 ほんのり湿った袖から顔を出した白鷺が首を傾ける。

「何のはなし」
「あの子のことだよ」

 わざと空とぼけたことが気に障ったらしい。扇は不満そうに嘴を鳴らした。

「連れ帰らなくてよかったのか。無名を置いていっても、あんな投げ出され方をしたら、たぶん……傷つく。弱い子じゃないが、打たれ強い子でもない。なあ、雪瀬。本当に、これでいいのか。お前が言うなら、まだ俺が――」
「扇」

 東の方角には未だ暗雲が立ち込めている。
 もうひと雨きそうだ、と嘆息し、雪瀬は話を切った。窓を閉めて立ち上がると、扇がまたかちかちと嘴を鳴らす。あろうことか、そのまま足に噛みついてきたので、「ちょ、なに」とさすがに面食らって身を引いた。それでも扇は嘴を開いて、臨戦態勢を解かない。
 そんなに『あの子』が気になるか、と若干辟易とする。
 しばし膠着状態になったが、そのうち小姓の竹が上がってきて、明らかにおかしいこちらの空気には気付かず、乗船が始まったという旨を話した。落ち着きなく階下へ引き返した少年に続こうとすると、扇がまた嘴を開いたので、今度は先に足を逃がす。噛まれはしなかったが、代わりに袴裾を引っ張られて、動けなくなった。

「……何すんの」
「行くなと言っている。どうせこの風じゃ乗船だけして、出ないぞ」
「イイおっさんが子どもじみたことを……」
「子どもじみてるのはお前のほうだろうが!」

 ぴしゃりと怒鳴りつけられ、雪瀬は口をつぐんだ。よれてしまった袴裾から嘴を放して、扇は雪瀬を見上げる。ひとであったなら、頬を紅潮させて怒っているところなのだろうが、黒い眸は濡れて、どこか痛ましげな光を帯びていた。

「べつにお前が自分で決めて、あの子から離れるならそれもいいさ。だが、何故自分でそれを伝えてやらない、せめて、無名に託さない? 頑なに向き合うことを拒むんだ。――雪瀬。何だっていいんだ、言ってやれよ。こんなひどいやり方じゃなくて。あの子はいつだって、まっすぐお前に向き合おうとしてきたじゃないか」

 その言葉に、言い返すことはついぞできなかった。
 傘を開き、雪瀬は宿の外へ出る。
 葛ヶ原の面々はすでに埠頭に集まって、割符を船子に見せている。軒から出ると、夏のわりに冷たい雨が差した。先ほどより少し小降りになったようだが、降り止む気配はない。歩き出そうとして、のろのろと立ち止まる。ぬかるみの上に座り込みそうになるのを目を瞑って耐えた。

『おまえはね』
『彼女をあいしていて』

 じくじくとうずき始めたこめかみの奥で、男の声が嗤う。

『あいしていて、あいしていて、』
『くるおしいくらいにあいしすぎていて』

 ……うるさい。傘の柄に縋るようにして俯くと、子どもじみた声が漏れた。だまれ。だまって、くれ。おねがいだから、もう。傘を深く傾け呟いた声は、雨音に掻き消えてしまって、誰の耳にも届くことはなく。やがて強まった雨脚が雪瀬の袴裾を濡らしていった。





 霧井までの道のりは思ったより長くかかった。常であるなら、すぐに追いつけたはずだが、悪天候が祟ったのだ。
 桜は馬を操ることはできないが、無名は優れた乗り手であったため、病み上がりの状態でもすぐに馬と心を通わせ、街道沿いを走ることができた。山越えにはいかないまでも、無名が選んだ道はきちんとならされていない獣道のようなものも多く、桜は数年ぶりにあの吐き気をもよおす振動と格闘するはめになった。
 あまり踏ん張るな、馬の勢いに身体を任せろ、と無名は言うのだが、なかなかそのとおりにできず、上下左右の揺れで気持ち悪くなってくる。道端で何度か吐いて、吐くものもなくなると、馬首にぐったりもたれかかっていることしかできなくなった。雨は昼過ぎから再び強く降りしきり、ぬかるみも増す。そうなるとどうしても、遠回りになっても整地のなされた広い道を選び、速度を落とさざるを得なくなる。無名が物売りから買い付けた合羽の中に桜も抱き込まれていたが、横殴りの雨風が吹きすさび、足の先からじわじわと体温が奪われていった。夜も更けると、明かりがなくなり危険が増えるため、街道脇の小屋に泊まり、旅人たちと夜を明かした。
 空が白むのを待って、再び街道を走る。
 太陽が出ていないせいで、いったいどのくらい走ったのか、時間の感覚があやふやになってくる。半ば意識を朦朧とさせていた桜は、しかし急に身体を預けていた馬が暴れ、鞍から落とされそうになって我に返った。

「どう! 落ち着け!」

 無名が強く手綱を引く。男の巧みな手綱さばきでどうにか落ち着いたようだが、剥き出された歯から唸り声と荒い吐息が漏れた。桜を抱き上げて、ぬかるんだ道に下ろすと、無名もまた馬から飛び降りて、桜に一度手綱を渡した。馬の後方に回り、小刻みに痙攣している足を確かめる。

「まずいな。怪我をしている」

 見れば、道端に張り出した太い茨の棘がしなやかな筋肉に刺さっていた。かたわらにしゃがんでいた老爺が孫に支えられて立ち上がり、詫びを入れる。どうやら老爺をよけようとしたはずみに、茨の茂みに突っ込んでしまったらしい。申し訳なさそうにしきりに頭を下げる老爺に首を振ると、無名は背にくくりつけていた行李から茶色い壷を取り出した。青緑色の粘着質な汁をすくう。草を煎じて作ったらしいそれはぷんと苦味がかったにおいがした。傷口に薬を塗りつけ、揉むようにするが、やはり痙攣はおさまらない。

「仕方ない。ここに捨ておくしかねぇか」
「待って」

 桜は舌打ちした無名の袖を引っ張った。名も知らぬ馬であったが、この冷たい雨の中放置すれば、どうなるかは想像できる。

「ここから霧井まではどれくらい?」
「もうかなり近いところまでいってるな。ひとの足でも二刻はかからんはずだ」
「わかった」
 
 うなずき、桜は馬にくくりつけてあった荷を下ろした。藁で作った雨合羽もきちんと着こむ。

「ひとりで行く。道はまっすぐだし、そうするつもりだったから、へいき」

 ここまで無名についてきてもらったが、もともとは桜がひとりで越えなければならない道のりだった。幸いにも霧井は近く、街道はまっすぐでひとも多いから、迷いようがない。いける、と踏んだ。

「だが、予定だとあいつはもう……」
「湊で追いつけなかったら、また追いかけるよ。路銀が尽きたら働いて、それで葛ヶ原に行く」

 だから、だいじょうぶ。
 わらった桜に、無名は目を細めて「そうか」と言った。

「できるさ。お前なら」

 頭をくしゃりと撫でて、そうして背を押される。桜は小さく顎を引くと、ここまで運んでくれた馬の首に手を回して頬ずりし、きびすを返した。
 ぬかるんだ道を水たまりを避けて歩く。気はせいだが、走るなんて馬鹿なことはしない。二刻もかかる道を走ったら、途中で力尽きてしまうに決まっている。一時霧雨に転じていた雨はまたびゅうびゅうと風を伴い強くなってきて、桜の薄っぺらい身体を容赦なく叩きつける。雨合羽をまとっているものの、徐々に隙間から雨がしみこんできた。夏の盛りであるにもかかわらず、手や指の先がかじかんで、蒼褪めてしまっている。吹き付ける雨に腕を掲げ、合羽を引き寄せながら桜は歩いた。見通しの悪い視界に目を細めながら無心に足を動かしていると、脳裏にさまざまなものが蘇っては過ぎ去った。別れてしまった蝶や、稲じいに預けた犬のこと、十人衆と藍、それから月詠。

「――っ!」

 濡れた小石に足を滑らせたはずみに、足首に鋭い痛みが走って、桜は足を止める。もともと痛めていた側の足を捻った。おそるおそるかがみこむと、外目には変わらなかったが、骨の奥のほうから重たい痛みが響いた。街道の真ん中では手当など、たかが知れている。泥と水とを吸って破れかけていた草鞋を引き裂いた着物裾で結びつけると、歩き出した。
 それからの道のりは、ひどくつらかった。土を踏むたび、足に鋭い痛みが走って、びく、と歩みが止まってしまう。見かねた旅人が、持っていた杖を渡してくれた。半ばそれに縋りつくようにしながら、歯を食いしばって進む。それでもついに動けなくなってしまって、桜は街道脇に生えていた大きな樹の下に入って、幹に背をもたせた。雨合羽を脱いで、低い枝に引っ掛ける。合羽は重く水を含み、桜の小袖も川で泳いできたみたいにびしょびしょになっていた。
 水を絞り、膝を抱えて小さく丸まると、ほんの少しだけ眠った。きよせにあいたい、と子どもが親を探すような気持ちで思う。あのひとにあいたい。あのひとのあたたかな腕に、むかしみたいにぎゅっと抱き締めてもらえたら。もうそれだけで桜は死んでしまうくらいしあわせなのではないかと思った。果敢ない夢にまどろんでいると、今度は突き放されて途方に暮れている自分の姿がよぎり、身体が冷たくなった。不安と疲労で吐き気がこみ上げた。
 
 ほんの四半刻にも満たない短い間眠りについて、目を覚ます頃には、ひどかった雨も弱まっていた。枝にかけていた雨合羽はまだ乾いていないようだ。気は引けたものの、ここで捨ててしまうことにして、杖を支えに進む。しばらくは山がちの細い道が続いたが、やがて道幅は広くなって、ひとも増えていく。遠目に、霧井の関所らしい門が見えてきて、桜は安堵の息をついた。手形を検分される列に並ぶかたわら、旅人たちの話に耳を傾ける。雨が弱くなったのを見計い、昨日から止まっていた船も出航を始めたらしい。
 
「毬町行きの船も?」

 話に加わると、男は少し驚いた風に桜を見てから、「たぶんな」とうなずいた。

「都行きはまだ動いていないらしいが、東のほうは天気もいいから、もう出航してるって聞いた」
「そう」
「お嬢さん、女の子で一人旅かい?」
「うん。馬とあとひとり、いたのだけど、途中でわかれて」

 説明しながら、なかなか動かない列にそわそわとする。
 東行きの船。おそらく雪瀬が乗る予定の船だ。
 それが乗船を始めているのだという。あともう少しで追いつけるかもしれないのに。焦燥が湧き上がってきて、検分を済ませ門をくぐるや、桜は埠頭に向かって走り出した。雨の中、微かな潮の気配を頼りに海沿いの道に出ると、大きな船が沖に止まっているのが見える。船頭の声がしている。まだ動き始める気配はないが、岸辺からいくつかの小船がそちらへ向かっているのが見えた。――待って。まだ。まだ、いかないで。あのひとを連れて行ってしまわないで。天にも祈る気持ちで、桜は走った。海沿いであるためか、風が強い。危うく身体が傾ぎそうになりながら、前方に小船の寄せられた岸辺を見つけて、あ、と思う。
 人群れにたたずむ傘を深く傾けた影。
 たくさんのひとが立っているのに、桜にはそこだけがちがう光が当たって見える。ちがう。ちがう光。
 橘雪瀬が、そこにいた。
 きよせ、と桜は呟いたが、それはぜいぜいと喘ぐ息にまぎれてうまく声にならない。もう一度、強く呼ぼうとして――、足をもつれさせ、その場に転んだ。受身を取ることもできずに、したたか腹を打つ。少し飲んでしまった泥水のせいで咳き込み、桜は地べたに這い蹲ったまま、きよせ、ともう一度呼んだ。雪瀬。きよせ、きよせ、きよせ、

「雪瀬……!!!」

 咽喉を潰さん限りに叫ぶと、こめかみが強く痛んで、視界がぐにゃりと歪んだ。泥をつかむ手のひらの感触が遠のく。いやだ、と桜は思った。また、置いていかれる。置いていかれてしまう。目の前にいるのに。とどくばしょに、いるのに。泥に爪を突き立てるが、きちんと前を這ってゆけているのかそれすらも定かでなかった。それでもしばらく力なく泥をつかんでいたが、ついにそれすらもできなくなって、桜はぬかるみに突っ伏した。往生際悪く、まだ微かに身じろぐ。意識を手放す寸前、大きな腕に引き寄せられた気がした、――それは桜の見たまぼろしだったのだろうか。