六章、呼声



 四、


 雨はしばらく降り続け、夜明け前に止んだ。泣き疲れた身体を引きずって、ようやく桜がたどりついたのは、橘のお屋敷だった。まだ嗚咽に震えている咽喉を懸命に整えると、眦に残っていた涙を手の甲で拭いやり、朝ぼらけの薄霧にたたずむ屋敷を仰ぐ。門衛が立っているのを見つけて、心を決めた。

「すいません。雪……、領主さまに、会いたいんです。どうしたら会えますか」

 おそらくは不躾であろう桜の問いに、門衛たちは一様にいぶかしげな顔つきをする。そのうち、ひとりがあっと思い当たった風に声を上げた。桜にも覚えのある顔だった。

「先日も紫陽花様を訪ねておられましたね。確かご友人だと。出立のこと、ご存知ありませんでしたか」
「紫陽花は、あしただって……」
「――待て。そいつは俺の客だ」

 背後から割り入った声に、桜は顔を上げる。

「無名」

 玉津卿から差し向けられた刺客により負傷し、今は橘の屋敷で療養をしていると聞いていた。以前より幾分やつれてしまったが、顔色はだいぶよくなっている。ほっと息をこぼした桜に、無名は口元に複雑な笑みを湛え、「まさかお前のほうから来るとはな」と呟いて、中へ招いた。



 通された屋敷には人気がなかった。
 厩に並ぶ馬の数は減り、畳の干された室内では使用人が働いている姿こそ見かけるものの、どこか閑散とした空気が流れている。雪瀬はどこにいるのだろう。あたりを見回すたび、嫌な焦燥が膨らんでいく。

「無名」

 雨の中長く泣き喘いだせいで、声を出すと少しかすれた。衣は乾きかけていたが、髪はまだ湿っていたし、目は腫れぼったく、たぶんひどい顔にちがいない。東向きの濡れ縁に座らせたあと、無言で手巾を差し出してきた無名をすがるように見上げて、桜は尋ねた。

「雪瀬は? 雪瀬はどこにいるの……?」
「あいつなら、夜明け前に都を発った。本当は明日の予定だったんだが、嵐が近付いているもんで繰り上げたんだ」
「よあけまえ……」

 間に合わなかった。あと少しのところで。
 ――わたしがもたもたと泣いていたせいだ。
 声を失してうなだれた桜に、無名は奥の間から取ってきたらしい文箱をふたつ差し出した。ひとつは艶やかな七色の螺鈿細工がほどこしてある文箱で、もうひとつは特に飾りなどはなく、ただ中央に橘紋だけが彫られている。

「あいつから、お前にふたつ文を預かった。自分が都を発ったあと、お前に届けるようにと。届ける前に、よもやお前のほうからやってくるとは思わなかったが」

『明日、葛ヶ原からの使者があるぞ』

 忘れ去っていた月詠の言が脳裏に蘇って、桜は俯いていた顔を上げる。無名は器用に片手だけを使って文箱を開き、質のよさそうな固い和紙を取り出した。読んでもいいか、とうかがってきた男に、桜は小さくうなずく。無名の武人らしい無骨な手のひらが二通の書状を開く。桜のほうへと掲げられたそれは、難解な漢字が連ねられていて、桜にはぱっと読み解くことができなかった。

「平栄四年八月五日、第一皇子朱鷺が此処に約定する。丞相月詠が所有している夜伽、名を桜」

 急に自分の名前が出てきたことに桜は驚いた。

「この所有を葛ヶ原領主橘雪瀬のものとする。――そして同日」

 眸を大きくする桜の前で、無名は二通目の書状を開く。先ほどの流麗な水茎とは異なる簡素な字は、間違えようもない雪瀬のものだった。真っ白な書状には、ただ一文、一文だけが書かれている。それを桜の目が映すのと、無名が読み上げるのはほぼ同時だった。

「同日、橘雪瀬はこの所有を放棄する」

 蜜蝋を灯した室内で、さらさらと文を書きつける雪瀬の姿が一瞬よぎった。手元の書状に目を落とした男の横顔は淡泊である。冷ややかですらあった。男は筆を置くと袴を裁いて立ち上がり、部屋を出て行った。
 これらの出来事に、いったいどんな経緯と思惑があったのかはわからない。だが、丞相である月詠から葛ヶ原領主雪瀬のもとへ桜は譲り渡されたのだろう。三年前、帝から丞相に下賜されたのと同じように。けれど、雪瀬は桜を置いて葛ヶ原へ帰った。
 置いて帰った。
 それが、答えだった。

「なにか……」

 細いものをたぐり寄せるような思いで、桜はやっと口を開いた。

「なにか、雪瀬は言ってなかった? なにか、わたしに」
 
 ひとつだっていい。雪瀬の感情や思考、それらを示す片鱗が欲しかった。知らず袖端を握り締めた桜の手をやんわりつかむと、無名は痛ましげな顔をして首を振った。

「何も。あいつは何も言わなかった」
「どうして……」
「玉津卿の一件を片付けた褒美を朱鷺殿下から訊かれたんだ。あいつはお前を望んだ。三年前のあいつの助命嘆願で、引きかえに丞相に囚われたお前をすくいたかったんだと……思う。俺にはよくわからんが、ただ、あいつは今もお前のことを――」

 それ以上聞いているのが嫌になって、桜はいやいやとかぶりを振った。抑えきれなくなった嗚咽が途切れ途切れに押さえた指の合間からこぼれ落ちる。
 雪瀬はひどい、と思った。
 だって、気付いていたはずだ。乞い慕う桜の胸のうちに、聡いあのひとが気付かないわけがない。気付いていたから、こんな一文だけを突き付けて、いなくなったのだ。目の前が真っ暗になって、どうすればよいかもわからなくなってしまって、桜はくしゃくしゃに潰した紙を抱いたまま、泣き喘ぐ。

「――桜! この大馬鹿者!!!」

 刹那投げつけられた怒声に、桜は濡れた眸を瞬かせた。
 表が少しざわめいている。状況が理解できないまま、そちらへ目を向けた桜の前に、蝶と少し遅れて護衛の男たち、何故か駕籠の担ぎ手までもが飛び込んでくる。場違いな皇女の登場に呆けていた桜は、白い手にぐいと両肩を引き寄せられて我に返った。

「母上に皇祇の報告をしようと思っておったら、なんぞおぬしの泣き声がするものだから……。話はそこの門衛にかいつまんで聞かせてもらった。桜、おぬし何をそんなところで悠長に泣き喚いておるのじゃ!」
「だ、…って、だって、蝶、」
「追うのじゃよ!!!」

 真正面から爆ぜた声に、桜は目を瞠った。

「追うのじゃよ桜! まだ間に合う、まだ終わってなどおらぬ! いいや、たとえそれで終わってしまったのだとしても! 追うのじゃよ桜!! おぬし、あんなにがんばっておったのに、あんなに、震えながら乞巧奠だってやりおおせたのに、一枚紙を寄越されたら諦めてしまうのか!? それで諦める相手ならば、はなから糞じゃ、今ここで捨てい!」
「って、蝶、だって、でも、」

 雪瀬は桜のことなんか、ちっとも。
 ちっとも、気に留めてなんか。

「『だって』も『でも』も無ぁあああああい!」

 両手で頬を叩かれた。耳をつんざく怒声と痛みで口をつぐんだ桜に、「だから、追いかけろと言うておろう!」と蝶はじれったげに繰り返す。

「追いかけて、すがりついて、隣に女がいるなら蹴散らして、そこからが勝負であろ! よいか、もしもそれでも打ち捨てられてしもうたら、蝶が桜を召上げてやるから、安心せい!」

 どん、と力強く胸を叩かれ、桜は呆けたままの顔で蝶を仰いだ。びっくりするあまり涙まで引いてしまった。笑ったらいいのか、泣いたらいいのか、わからず、結局泣き笑いのような表情になってしまう。

「蝶のお嫁さんに、してくれるの?」
「うむ! 任せておけ、そのときは蝶が桜サンの皇子様になってやろう。このとおり、才色兼備で聡明剛毅、おまけに懐まで深い。不足はあるまい!」

 自信満々に返され、桜は今度こそ笑った。
 叩かれた両頬が熱い。痛くて熱かった。この熱も痛みも感じられるなら、まだ大丈夫だ、と思う。まだわたしは歩ける。まだ、立ち上がれる。はじまりを思い出す。あのとき、二本の足だけでわたしは東の果てまでたどりついた。

「蝶」

 見た目よりずっと華奢な身体を抱き締め、うずめた胸の中で囁いた。

「ありがとう。私、あきらめないよ」

 ひとしきり抱き締めてから、桜はすべてを振り切るようにきびすを返す。

「船の割符なら、あるが?」

 走り出した桜の隣をたやすく陣取り、無名が口角を上げる。もとより予期していたかのような準備のよさだった。苦笑しつつうなずくと、無名は使用人のひとりが連れてきた馬を引き寄せ、桜を抱えて飛び乗った。とても病み上がりとは思えない鮮やかさだ。

「領主様の『忘れ物』だ。届けてくる」

 使用人の女たちに告げると、顔を見合わせたのち、何故か黄色い歓声が上がった。少し待っているように言って、馬の鞍に旅支度らしい荷をくくり付ける。無名が礼を言って、馬の腹を蹴った。

「桜!」

 声に振り返ると、蝶が頬を上気させて表門まで走ってきていた。

「また、会おうぞ! 約束じゃ!!」
「うん!」

 わらって、手を振り返す。角を曲がって見えなくなってしまうまで、蝶は表門に立っていた。朝霧に霞むその姿を瞼裏に焼き付ける。
 朝の大路は、ひとが少ない。水たまりをさけて市を広げ始めた露店の合間を疾風のごとく駆け抜ける。馬首につかまって揺られる道すがら、見知った男を見かけた気がした。

「真……」

 呟きかけると、男はひらひらと手を振って、桜とは反対の方向へ歩いていった。





 そうして、蝶の生まれて初めての「ともだち」はあっけなく蝶の前からいなくなった。最初から、いつかこうなるだろうとは思っていたのだ。はじめて出会ったとき、恋しそうに湊の向こうを爪先立ちして見つめていた少女。その一途な横顔が可愛くて、声をかけた。この娘はいつか、目の前に広がる海を渡って遠くへ行くのだろうな、と蝶は思っていた。

「まったく蝶もお人よしじゃのう……」

 嘆息して、櫃へ目を落とす。
 夜も更けた、琵琶師の邸宅である。地揺れでこの屋敷に仮住まいをしていた蝶であったが、姫宮御殿の改修もまもなく済む。兄の朱鷺皇子が再度立太子し、また今上帝の容態が落ち着かないこともあり、早急の帰還が求められていた。すでに縞の采配で、調度や衣類などの運び出しは始まっている。常よりも物の少なくなった私室で、蝶は縞を下がらせたあと、ひとり眼前に置かれた櫃を見つめた。中には大事にしてきた朱表紙などがしまってある。
 処分せい、と面食らう縞に蝶は告げた。
 縞が手配を済ませたはずであるから、明日には火焚き場に運ばれよう。皆蝶の宝じゃ、と櫃に手を触れさせ、蝶は我が子を失う母のような気持ちで思った。それから、や、やはり皆は捨てられぬ……、と思って、数冊を衣に包んで隠した。
 
「踏ん切りじゃよ。現を見つめねばならぬ」

 物言わぬ朱表紙たちに語りかける。

「見つめねばならぬのじゃ」

 蝶は皇女である。まもなく朱鷺が立てば、今上帝の妹姫という身の上になる。桜のように、好きなところに好きなように駆けてゆくことはできない。だからこそ、心はいついかなる時も自由でありたいと願っているのだが、それでもやはり、ままならぬ我が身を嘆きたくなるときはあった。かぶりを振って外に出ると、蝶は勾欄をつかんで天を仰ぐ。俯かないのは、泣かないためだった。俯いて、足元を見れば、涙は自然とこぼれてくる。蝶はだから、いつも悲しいことがあったときは空を仰ぐ。空を仰いで、遠い世界に想いを馳せれば、心はつらくなんてない。

「いいの? 大事なトモダチだったんでしょ」
「……なんじゃ」

 男が現れるのは常に唐突だ。
 今宵とて、どこから忍び込んだのやら。もしかしたら琵琶のたぬきじじいと裏で繋がっているのやもしれぬ。蝶は胡乱げな顔で、いつの間にかそばの勾欄に背をもたせて天に架かる月を同じように仰いでいた男を睨んだ。

「蝶のもとを去った元護衛が蝶に何の用じゃ」
「つれませんなあ。姫君が寂しがっているかなって思って、戻ってきてあげたのに」
「寂しがってなどおらぬ。妄言もたいがいにせぇよ」
「そーお? じゃあ、これは何だろう?」

 勾欄に腕を載せて、伸ばした手のひらを頬にあてがわれる。蛇か、でなければ蜥蜴か、とにかくそういった類だと思っていた男の手のひらは、意外なことにあたたかかった。手のひらが濡れた頬に添えられ、眦のあたりにたまった涙を親指で拭う。何をするのだ、と顔をしかめた蝶に愉快げにわらい、真砂は勾欄から少し身を乗り出した。

「だって、蝶はお馬鹿さんだなぁって。桜サンがいなくなるのが寂しいなら、引き止めればいいのにさ。逆のことをしてしまうんだ」
「そんなこと、できるわけがなかろ」
「だろうね」

 あっさり引き受けて、真砂は肩をすくめた。取り出した懐紙で目についていたものを拭い、蝶は唇を噛む。この男の、何でも見通していますよ、とでもいうような態度が心底気に食わない。蝶が腹に隠した朱表紙だって、知ってますよ三冊でしょ、などと言い出しそうなあたりが本当にもう、気に食わない。おぬしにいったい蝶の何がわかるのだと、子どもじみた八つ当たりをしたくなる。

「失せよ、と言ったはずじゃ。蝶の前から失せよと」
「安心なすって。俺はずっとおそばにいてあげますよ姫君」

 だから、どうして、その逆を言うのか。

「嘘吐きめ! お前は蝶に嘘をついてばかりじゃ!」
「まさか。俺はいつも本当のことしか言ってないのに」
「どの口が言う! 橘の人間だと隠していたのはどこのどいつじゃ!」
「東の最果てにいるとは言ったじゃないですか」
「気付くわけがなかろ!」
「ちっとも考えないあなたが悪い」

 払おうとした手首をつかまれる。目を瞬かせた蝶の手首を、真砂は包み込むように引き寄せた。唇が触れる。あまいにおいがした。濃くあまい男のかおりがくゆった。

「蝶。勇気を出して、俺を呼んでごらんよ。あなたがいちばん欲しいものを差し上げる」
「だから、そのような」
「言って、蝶」

 今さら引っ込めることもできなくなってしまった手のひらを見つめながら、言うものか、と蝶は思う。一度は自分のもとを去った男である。しかも、東の男である。平気な顔で嘘をつき、いつ裏切るとも知れない。だから決して、心を許すなどと。決して。

「蝶」

 再度呼ばれたとき、されど、蝶は自身も思いも寄らぬことをした。最初に知覚したのは己の泣き声だった。みっともない泣き声で、しかも、自ら男の首にしがみついて、泣き喚いている。混乱した。何をしているのか、さっぱりわからない。さっきまで、泣かぬ、と天を見据えていた物憂げな美少女はどこへいった! 蝶! 己を叱咤するも嗚咽は止まらず、やがてしゃくり上げ始めた蝶の頭を大きな手のひらが引き寄せた。それはとても、信じられないほどに優しい仕草だった。
 あたたかな胸のうちで目を細めると、一面白銀の雪景色の中、がさがさとうるさく騒ぎ立てる椿の葉が瞼裏に蘇った。まだ幼かった、あのとき。椿の葉をかきやって飛び出てきた少年を見つけたあのとき、ああ、皇子さまが現れたのだと思った自分が、馬鹿だったのだ。最初から、馬鹿だったのだろう。
 固く引き結ばれていた唇が観念したように綻び、名を呼んだ。





 ――以降、真砂は橘姓を捨てる。