六章、呼声
三、
そのときの私はまだ、自分の運命が東雲殿で転がされていたなど知る由もなかった。
*
「いたむ?」
くるぶしを白藤の手が試すように押した。思わず顔をしかめると、すり鉢の中にいくつか別の薬草を足して、またすりこ木を握る。つん、と香った鋭い草の匂いに目を細め、桜は黙々と薬を作る白藤の手を見つめた。
目を覚ました直後、熱を持ち腫れていた足首は、微かな痣を残す程度に回復していた。痛みももうほとんど引いている。人形は、生み出す際に人形師が不変の呪をほどこすので、常人より回復は早い。とはいえ、白藤の調合してくれた薬が効いたのは確かだろう。
「……藍は?」
「ねむっている」
白藤の答えはいつも簡潔だ。すりこ木をしばらく回してから、思いついたように「伊南たちがみてる」と付け足した。体調の不調を理由に一度後宮から下がっていた藍は宮中付きの御殿医の調べで懐妊があきらかになった。病床の老帝はまだひとの言葉を聞き取れぬ状態だと聞くが、にわかに月詠をめぐる周辺がざわめきだしたことに桜は気付いていた。藍の懐妊が知らされてから、丞相邸には来客が絶えない。中には祝いの品を持参する者までいる。藍の後見である月詠へのあからさまなおもねりだった。
臨月は、今年の終いくらいだという。
「月詠は、藍のことを知っていたの……?」
塗り薬をすくう白藤の横顔を眺め、桜は尋ねた。白藤は耳にかけた髪をさらりと揺らしただけで答えない。顎を引いて促すようにするので、裾を開いて、痣の残る足を差し出した。白藤は塗り薬を手の温度であたためて伸ばすと、丁寧に右足に塗り込んでいく。桜はぼんやりと、紫陽花たちが帰ったあとの庭へ目をやった。夕立の降り出しそうな曇天の下を蜩が果敢なく鳴いている。
「サクラは、何を迷っているの?」
だしぬけに投げられた言葉に、桜は眸を瞬かせた。
「まよっている?」
「ちがうの?」
当然のことのように白藤は言った。塗り薬を擦り込んだ足に新しいさらしを巻いていく。医術の心得のある白藤の手つきは慣れていて、澱みない。
「サクラのごはんが私はスキ」
「白藤?」
「嵯峨も菊塵も伊南も、……月詠様も。皆がスキ。サクラはちがうの?」
「……わたしは」
白藤の言葉はうれしい。
もとより倦んだ男の住まう屋敷で、知るひとのいない都だった。最初、こちらへ遠巻きに一瞥を向けるだけだったひとたちに、差し出した椀を受け取ってもらえたときは、本当にうれしかった。嵯峨はおまえの飯はまずい、といつも文句を言ってばかりであったし、菊塵などは警戒心の強いたちで、最初は夜伽が作ったものなどを口にできるか、と突き返されてしまった。けれど、それでも構わず続けているうちに、ひとつふたつと差し出される椀の数は増え、いつしかこの場所が、桜の帰る家になっていた。
「ちがわないよ」
雨気を含んだぬるい風が、褪せた紫陽花たちを揺らしていく。目を伏せてしまいそうになりながら、それでも口にすると、「そう」と呟いたきり無言になって、白藤はすり鉢を片付けた。
夕餉を取って白藤を見送ったあと、桜は外にいた犬にもよそったお粥を与えてやった。黒目がちの眸で見上げてくる犬の首を抱き締めると、稲じいの住んでいる長屋へ向かう。かねてから頼んでいたことを告げ、ひょこんと頭を下げる。桜は泣き出しそうだったが、犬のほうは丸めた尻尾を振ったきり、稲じいの足元におさまって振り返らなかった。
霧雨の降り始めた夜道を足早に戻る。
月詠はまだ、帰っていなかった。軒に稲じいに借りた傘を立てかけ、梅婆に声をかけてからうずみ火を始末すると、ひとり寝支度を整える。横になった褥の上で、高い格子天井を見つめた。
あさって、雪瀬は都を発つ。
寝付けず、寝返りばかりを打っていると、外の妻戸がにわかに鳴った。吹き付けた風音かわからないくらい微かなものであったが、不思議と桜は月詠だ、と確信した。いつもより若干ぎこちない所作で身を起こすと、行燈に残していた火から明かりを取って、玄関へ向かう。
「……月詠?」
雨はまだやんでいないらしい。傘持ちが下手だったのか、濡らした肩を払っていた男を見つけ、桜はそっとそちらへ火を掲げた。眸を眇めて、月詠は「いたのか」とだけ呟く。まるで桜がいないのが当たり前であるかのような口ぶりだった。怪訝に思ったが、あとはこちらを労わるわけでもなく、框に上がるあたりはいつもどおりである。先を歩く男を追うかたちになってしまいながら、「月詠」と桜は長身の背を見上げた。
「ごはんはいる?」
「いらん。腹がすいていない」
丸めた羽織を無造作に放るので、それを拾って衣桁にかける。腹がすいていないということは、やっぱりまだ調子がよくないのだろうか。考え込んでしまって、桜はためらいつつ男を仰いだ。
「明日……、」
言い差し、珍しく月詠は思案するそぶりを見せた。
「明日、葛ヶ原から遣いがあるぞ」
「月詠宛に?」
「さてな」
何とも意味深な言い方だった。桜が眉をひそめると、紙燭から行燈に火を移し、月詠は脇息にもたれるようにして座った。くつろぐときの男の癖だ。まもなくその白い手は近くにある気に入りの香炉を引き寄せるのだろう。思ったとおり、慣れた様子で香を焚き始めた男をうかがって、桜は対面に座した。
「……今、話してもへいき?」
「なんだ、ぶしつけに」
「話があるの」
「ほう、珍しいな。こちらの具合を気遣うほどの?」
揶揄した月詠に、桜は心を決めて顔を上げた。
「あなたの名前は、『つき』」
淡紫と黒の眸が不意に瞠られる。一転して鋭く眇められた眸をまっすぐ見つめて、桜は続けた。
「『月』というんでしょう。ちがう?」
「……誰から聞いた?」
「誰にも。あなたが倒れたとき、汗を拭いていて、肩にそう刻まれているのを見つけたの」
「刻まれていたからといって、名前を指すとは限らない」
「私、嵯峨せんせいから漢字を習ったの。けっこう、たくさん」
別のことを言って、桜は己の肩を示す。
「『夜』、『鳥』。ちがう?」
今度こそ、月詠は口をつぐんだ。
それから急に、おかしそうに喉奥を鳴らす。
「成程」
うなずいて、また少し嗤う。
「お前の神はほとほとお前に甘いらしい。棚機姫と牽牛を引き裂いた無慈悲な天の神も、一途なお前をあいしてしまったのだろうか」
脇息から身をもたげ、温かなひとの熱を持った手のひらが桜の頬に触れる。そうだ、と月詠は低く呟いた。指先がそぅっと眦に触れる。まるでいちばんいとおしいものに触れるかのように、その手は桜に触れた。
「『つき』と言うんだ、ぬえ」
わたしは鵺ではないと。喉まで出かかった言葉を、桜は口にすることができなかった。そう告げるにはあまりに男が幸福そうで、その触れれば崩れ去りそうな果敢ない表情を、奪ってしまえなかったのだ。もしも今、たった一言でも男の呼声にこたえてやれば、桜は深い虚無にも似たこの男をすくいあげることができるのだろうか。抱き締めてやれば。まぼろしにすがることしかできない男を確かなひとのぬくもりで温めてやれば。
一瞬のうちに、嵐のような葛藤が過ぎ去った。
けれど、桜は動かないのだった。指先ひとつ動かすことはなく、表情ひとつ変えることもなく、ただ泣いて、いた。眸からとめどなく溢れた涙の粒は眦に触れている男の指にも伝って、白く冷たい手のひらを濡らす。眸を固く瞑った。次に目を開けたとき、桜はもう泣いていなかったし、月詠もまた微笑ってはいなかった。
「――……なにも、いらないよ」
もしも俺のほんとうの名を呼ぶことができたら、とここに連れてこられた最初の日に月詠は言った。お前の望むものをなんでもやろう、と。金でも、国でも、橘雪瀬でも。何でもやろうと、月詠は戯れのように約束した。あのときの真意は今をもってしてもわからなかったが。
「何もいらない。考えたけれど、何もなかったの」
桜は少しわらった。
胸に抱いたひとのことを思うと、どこか苦いものを含んだわらい方になってしまった。
「ひとから与えられるもので、欲しいものはなかったの」
「それがお前の望みか」
一時、視線が絡む。
桜はもう、迷わなかった。
「代わりに許して。私はここを出て行く」
裾をひらりと蝶のように揺らして立ち上がる桜を月詠は止めなかった。衣擦れの音に合わせてこちらへ向けた視線をふっと解く。それが男の答えなのだとわかった。
「お饅頭をふかしたから、せんせいや白藤たちと食べて」
思えば、それが別れの言葉になってしまったのだから、てんで珍妙だった。結局最初から最後まで、食べ物のことばかり話していた気がする。月詠がろくにものを食べないで痩せているから、食べ物の世話ばかりしていた気がする。
戸を開き、降りそぼる雨の中を傘を取るのも忘れて飛び出した。
かつて、行くあてもないまま逃げ出したあのときと同じように、後ろは振り返らずひた走る。そうしないと、立ち止まって白藤や伊南や嵯峨たちや、月詠のもとへ戻ってしまいそうな自分が恐ろしかった。
下駄がつかえて転げそうになり、それでようやく立ち止まる。
自らの足で飛び出した「世界」は、真っ暗で明かりがなく、どちらへ行ったらいいのか自分でもわからないくらいで、怖くて、ただただ不安で、うれしいというより、とてもとてもかなしかった。生まれたばかりの幼子のようなかなしみに駆られて、桜は空を、仰ぐ。
目の前に広がる天は、果てしない。
桜は声を上げて泣き出した。
*
東雲殿にて――。
かくのごとき申し出ておるが、と首を傾げた朱鷺皇子に、丞相月詠は寵愛したとされる妾をまるであっさり手放したのだという。
ついぞ口を開かなかったため、男の胸裏はよう知れぬ。
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