六章、呼声
二、
朱鷺皇子に雪瀬が呼びつけられたのは、四季皇子に代わって立太子が決まったのちの朝であった。すぐに東雲殿まで来い、との命で、丁寧に駕籠付である。明後日には都を発つつもりで、荷をまとめさせていた橘邸はこの報せにどよめいた。ただし、雪瀬に限っては涼しい顔で、やっときた、とだけ呟き、千鳥に持ってこさせた礼式の袴に羽織をかけた。
東雲殿に向かうまでの道のりでも、千鳥たち数名の護衛は雪瀬のそばから離れなかった。雪瀬は今や、朱鷺皇子の密命を帯び、玉津卿を討ち取った東の領主として都中に知られてしまっている。柊ではないが、玉津卿ゆかりの者の報復というのはそれなりにありうる話で、結果として雪瀬は都察院からの呼び出しなどをのぞいてはほとんど橘の屋敷に閉じ込められるはめになったし、見張りの数も普段の倍に増やされた。
都で、評価は割れている。
三年前の葛ヶ原の顛末に玉津卿は関わっていたから、兄の無念を果たしたのだ、と無責任に手を打つ者も少なからずいたし、他方、首まで討ち取るべきだったのかと非難する者もいた。雪瀬はこの一件で、双方に幾許かの死者を出した。しかも、雪瀬自身は玉津卿に捕まっており、自ら手をくだしていない。この印象がまず悪かった。討ち取られ、河原にさらされた玉津卿の首は驚愕の表情を張り付かせていたため、許しを乞うた老境の卿を問答無用で討ったのではないかという憶測が飛び交った。
ともすると、悪名のほうが轟いてしまいそうで、葛ヶ原の一行は暗澹たる顔つきで、ため息をつきあったものである。本当に彼らの主人は、とことん、そういった運には見放されている。というより、今回は万事淡泊な顔をしている当人の可愛げのなさに問題があるともいえた。
「東のけだものが参りましたよ」
参内した雪瀬は褪せた朱色の柱影でひそやかにささめく男たちへ、ちらと視線をやった。目が合うと、男たちは慌てて檜扇を開いて目をそらす。冷めた一瞥をくれただけで、雪瀬は袴を返した。
かれこれ半刻は歩いているのではないかという道を案内する女官について歩き、そうしてたどりついたのは、緑陰の夏庭が美しい東雲殿――帝の私的な客館だった。水無月会議が行われた場所であるため、雪瀬にも馴染み深い。館の主である老帝は今は病で臥せり、代わりに朱鷺皇子がその座を預かっていた。階の下の左右に並んだ屈強そうな近衛兵を眇め見ると、雪瀬は精緻な釣り灯篭が揺れる下を歩き、袴裾を翻して、その場に額づいた。しばらくして、微かな衣擦れとひとの入る気配が耳に届く。
「顔をあげよ」
柔らかな、清澄な水にも似た声が降る。
下ろされた御簾越しに座していたのは、やはりあの嵐の晩に出会った皇子だった。しかし、不思議と別人であるような気持ちがしてしまうのは、場所が違うからか、皇子の持つ空気があの晩とは異なるからか。白銀の髪を結い、鳥文様の簪を品よく挿す。朱鷺がまとっているのは火鳥の描かれた胞で、その文様を衣に描くことができるのはこの国で皇に連なる者だけと決まっていた。
対する雪瀬は、常磐色の羽織を引っ掛けている。髪は結っても目の前の男のように美しくはならないので、簡素に後ろでくくられて、背に流されているだけだ。
「それを」
朱鷺に促された女官が御簾を引き上げる。視線が暫時、ぶつかり合った。先に目元を和ませたのは朱鷺のほうで、「そなたは変わり者だな、橘」と苦笑気味に嘯く。
「皇子と目を合わせて、そのまま睨んでくる者などそうはおらぬ。畏まって目を伏せるのが常よ」
「目を伏せたほうがよろしかったですか」
「そうは言っていない」
緩く首を振ると、朱鷺は扇を開いて口元にあてた。その姿はあくまで泰然としており、つかみどころがない。
「変わり者というならば、あなたさまもそうでいらっしゃいますね。朱鷺殿下」
女官が眉をひそめるのもかえりみず、雪瀬は先に口火を切った。
「かようなときに東の田舎者を呼び寄せ、いったいどんなおはなしで?」
「そう警戒するでない。俺はただ、礼を言いたかっただけであるのに」
扇を振り、「皇祇」と朱鷺はかたわらでやたらにかしこまっていた皇子を呼んだ。
「ひとつき、よう弟を守ってくれた。皇祇。橘に礼を言ってはどうだ」
朱鷺に促され、皇祇がおずおずとこちらを見やる。別段期待を込めていないいつもの淡泊な顔で見返すと、「お前なんか……!」と皇祇は急激に機嫌を損ねた様子で眉間に縦皺を寄せた。
「調子乗るなよ、ぜんぜん、感謝なんかしてないんだからな! お菓子だって一個も食べさせてくれなかったし、屋敷は狭いし、む、無名の奴だって、無事だって文ひとつ寄越しもしないし……。キライ! とっとと葛ヶ原に帰れ! ばああああああかっ」
「――と、皇祇もおおいに寂しがっておる」
雪瀬にはどう逆立ちしても、「寂しがっておる」ようには見えなかったが、朱鷺はさらりと話をまとめて立ち上がった。御座から降り、雪瀬の前に片膝をつく。殿下、そのような、と周囲に侍る者たちが声を上げるが、渦中の雪瀬はただ静かな眼差しで朱鷺の挙措を眺めていた。
「俺からも、礼を言おう橘。玉津卿の件、よく片付けた。残党から皇祇を守り抜いたのもそなたぞ」
「……わたしは、何もしておりませんよ」
「そなたのために、数多の人間が動いたのなら、すなわちそれはそなたの力よ。そして、その者らのおかげで皇祇がここにおるのも確か。そなたを選んでよかった。葛ヶ原の領主は一度抱え込んだものは決して裏切れぬと――、ほんとうにあいつの言ったとおりだったな」
雪瀬の手を取って一度握るようにすると、朱鷺は衣裾を翻した。冷ややかであるのに、熱のこもった体温は雪瀬のこぶしのうちに不思議な印象を残した。
「褒美に、三年前玉津卿が得た葛ヶ原の権益すべてを返そう。南海に幽閉されていた五條の娘も放免とする。あとは……そうだな。次にこちらへ参った折に、俺の話し相手になってもらえるか」
『金子を』
あのとき雪瀬が挙げたあけすけな言を、すぐに玉津の取り上げた権益に結び付けたあたりに内心少し驚く。口を閉ざしたまま、雪瀬は眸を眇めた。こればかりは生来といってよい勘のよさで、皇子の言外の誘いを見抜いてしまったからだ。朱鷺はこれから立太子したのち、帝位につく。次に雪瀬が「こちらへ参った」ときには、即位されているんだろう。その話し相手をしなくてはならない。無論、ただの茶飲み話で済むわけもなく。
殿下は俺に何をさせたいのだろうか。
至極、当然の疑問が沸いた。問いかけたところで朱鷺が答えないのはわかっていたし、今はまだ、雪瀬もはかるべくもない。だから結局、雪瀬に突きつけられたのは、覚悟の一言に尽きる。
黙考の末、雪瀬は結論を出した。
「――謹んで」
答えたそのとき、外がにわかにざわめいた。遅れた非礼を簡素に詫び、姿を現した男をみとめて、周囲がすっと息をのむのが座していた雪瀬にも伝わった。
丞相、月詠。
老帝が倒れると同時に、床に臥せっていた男が内裏に戻ってきたのである。「しかれば、」と朱鷺は月詠に一瞥をやってから、何事もなかったかのように話を続ける。
「約束どおり、そなたには橘の枝を与えよう。確か、家督を継ぐ際に捧げた枝であったな」
不意に風がそよめいて、美しくしつらえられた中庭の緑陰をふるわせた。
頬に風を受けて、雪瀬は目を伏せる。
もしも、後世に。自分も死に絶え、自分を知る者も、知る者の子もすべて死に絶えた後の世に、『橘雪瀬』はいったいどのように語られるのだろうか。ふとそんな他愛もないことを思って、喉奥で嗤う。きっと、こんなちっぽけで取るに足らない男は、語り継がれることなどないと思ったからだ。
「いーえ」
常磐色の羽織をかさりと鳴らして、雪瀬は顔を上げる。時折金に似た淡やかな色をする眸は、不遜にもそのとき、御座の皇子ではなく青白い顔をして幽然と立つ丞相のほうを見据えていた。
「橘の枝じゃあない。わたしが橘を継いだときに捧げたのは、葛ヶ原に咲いていた『桜の花』」
その場に集った者が目を瞠るのをよそに、葛ヶ原領主橘雪瀬はいっそ鮮やかなまでに艶笑した。
「さあれば、丞相月詠の妾である『桜』。わたしが褒美に望むのはそれです、朱鷺殿下」
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