六章、呼声




 一、


 泣くだろうと、思ったのだ。
 小さな身体を抑えつけて、ひどい形で犯したとき、彼女は。
 泣くと、思った。
 そして、彼女を嬲ってきた男に向けるのと同じ眼差しで自分を見ると。それをどこかで望んでもいた。雪瀬をなじり、罵り、責める必要が彼女にはあった。けれど、目を開いた彼女は雪瀬を見つけると、花が咲きこぼれるかのように微笑ったので。たまらなくなった。やわらかくて、しろくて、あたたかな、彼女のことがいとおしくてたまらなくて、喘いで溺れるほどのいとおしさに駆られて、それなのに、激しい後悔でどうにかなってしまいそうだった。
 身体を求めたのは、愛情からじゃない。
 ただ、目の前の押し潰されそうな苦痛から逃れたかったからだ。
 
『それで腹を切れ』

 己に跪くことができぬというなら明朝までにそうせよ、と黒衣の丞相は言った。
 月詠から懐刀を与えられたあのとき、雪瀬はその実、腹の切り方のほうを考えていた。ただし、目の前の丞相に跪けぬと思ったからでも、朝廷のもとにくだり領主となることに反発を覚えたからでもない。そうではなく、ただ、雪瀬は疲れていた。
 疲れていた。笑ってしまうくらい、それだけだった。
 皮膚の内側でのたうち回る吐き気に近い苦痛にも、夜になれば自分を責め立てる最長老たちの悪夢にも抗い疲れ、立ち向かう気力をなくしていた。
 ――いっそ、もう楽にしてくれ。
 何度そう願ったか、わからない。
 それなのに、彼女が現れた。現れてしまった。
 あれはだから、本当なら己に向かうはずだった衝動を彼女がその身を差し出して引き受けてくれたに過ぎない。皮肉だった。夜伽という彼女の境遇を知っていたから、雪瀬は、ずっと大事に、おびえさせないように触れようと戒めてきたのに、結局、他の者たちと同じことをしている。ぬくもりを宿したしろい肩に額を押し付け、きつく目を瞑った。こんな風にゆるさないでほしかった。傷つけたのに、踏みにじったのに、奪い去られる彼女を助ける力もないくせに、そういう自分をゆるしてしまう彼女がいとわしく、何よりも、それで生かされてしまっている自分がいとわしく、情けなく。ゆるせなかった。
 きっと生涯、ゆるさないんだと思う。





 目を覚ましたのは、三日後だった。
 生死の境を彷徨ったというよりは、本当に疲れて眠り込んでしまっていたらしい。久しぶりに射した光がまぶしく、桜が重い瞼をこすると、すぐにこちらをのぞきこんでくる人影があった。思いも寄らない人物であったから、瞬きを繰り返す。

「ち、う……?」

 喉が張り付いたかのようで、声がうまく出てこない。かすれた声でなんとかそれだけを口にすると、蝶は翠の眸を瞠らせたあと、不意に表情を歪めた。ぽろぽろぽろと大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。

「……っの、」
「蝶」
「こっんの馬鹿もんがああああああああ!!!」

 目を覚ました早々、張り倒さんばかりの勢いで怒鳴り付けられ、さすがに面食らった。目を瞬かせることしかできないでいる桜のかたわらで、蝶は肩を震わせ、しゃくり上げる。
 
「このまま目を開けなかったらどうしようかと……桜サンなんぞ嫌いじゃ! 大嫌いじゃ!! 蝶をこんなに心配させよって……!」

 きつく睨みつけ、また鼻を啜る。
 桜が眠っていた三日の間、蝶は幾度か容態を案じる文を送り、一度は縞を遣わせ、ついに三日目になって耐えきれず自ら足を運んだらしい。桜の面倒は丞相邸に残った白藤が診てくれていたようだが、厭う白藤に拝み倒して、半ば無理やり邸内に押し入ったのだという。懐紙で鼻をかみつつ、そのように語った蝶に、桜は未だ呆けて、首を傾げた。

「わたし、そんなに眠っていたの?」
「うむ。三日三晩眠り通しじゃ。心配ないと朧とかいう医者が言うたが、あんまり目を覚まさぬので別の医者を呼ぼうとも考えていた。身体は? もうどこも痛いところはないか?」
「うん」
 
 答えながら、こめかみのあたりに触れると、目の粗い布が巻かれており、つんと薬草の香がした。頭の奥のほうで微かに疼痛がしたが、だいぶ和らいでいる。ざらついた布にぼんやりと触れて、直前の記憶をたどる。そういえば、玉津卿の追手に向かっていったときに、何か重いもので頭を殴られたのだった。途中までさかのぼったところで、自分を懸命に運ぼうとしてくれていた皇子のことを思い出し、桜はぱっと半身を起こした。

「蝶、皇祇は? 皇祇はだいじょうぶだった?」

 玉津卿の放った追手は皆、葛ヶ原や百川の兵によって捕えられていた。乱闘のさなかも皇祇には何人か守りがついていたから、無事だとは思うが、確かめたわけじゃない。急に落ち着かなくなって、桜は褥から立ち上がろうとする。

「桜、だめじゃ! まだ寝ておれ。縞!」

 侍女を呼び、蝶が桜を張りつけにかかるが、大の男ならともかく蝶くらいの力なら、桜もたやすく振り切ることができる。けれど、踏み出そうとしたところで右足に鋭い痛みが走り、転げた。床に顔面からぶつからずに済んだのは、蝶の声で駆けつけた縞が危うく抱きとめてくれたからだった。

「少しは落ち着きよって」

 蝶が呆れたように息をつき、「お身体に障りますよ」と言って縞が畳んで置いてあった羽織を広げた。夏用の軽い肌触りのそれを少し乱れた寝間着の上に掛けられる。それから、縞は白藤にも告げてくると言い、一度下がった。
 
「まったく、ここはろくに使用人がおらんなあ」

 丞相邸ともあろうものが、と人気のない屋敷を見回して、蝶がごちる。

「月詠はそばにひとを置くのがすきじゃないから」
「らしいな。あとで縞に粥を持ってこさせよう。琵琶のじじから、蜂蜜もくすねてきたのじゃ。蜂蜜は甘いぞ」

 話していると、半分開いていた障子をがさごそと揺らし、老犬が顔を出した。そのまま一直線に半身を起こした桜に飛びつき、普段は力なく垂れている灰色の尻尾をせわしなく振る。見ていた蝶が、自分の孫か何かと思っているんじゃないか、と笑った。

「犬にも世話になった。皇祇なら、無事じゃよ。傷ひとつなく帰ってきおった。今は琵琶のじじのところにともにおる。朱鷺の兄上もご存知じゃ」
「……そう」
「皇祇から、あの晩のことを聞いた。桜が皇祇を見つけて守ってくれたのだと。――有難う。皇祇の姉として、礼を言う。桜サンと犬は蝶と皇祇の恩人じゃ」
「蝶」
 
 微笑む蝶を見つめ、桜は首を振った。
 だって、ちがう。蝶は桜が皇祇を偶然見つけて助けたのだと思っているのかもしれないけれど、それはちがう。桜は皇祇が橘の屋敷に預けられていることを知っていた。朱鷺が雪瀬に皇祇を預けたその場所にこそ、偶然、桜は立ち会ってしまったのだから。

「ちがうの……」
「桜?」
「私、嘘をついていて。蝶にずっと皇祇のことを言えないでいて。だから、だから」

 ありがとうだなんて言わないで。
 きゅっと眉根を寄せて、桜は俯いた。

「桜。それだけではわからぬよ。嘘とはなんじゃ? 何を蝶に言えなかった?」
「……私は皇祇が無事だってこと、知っていたから。万葉山に登って帰ってきたあと、たまたま知ってしまったから」
「ん? ああ、朱鷺の兄上が橘に預けたというあれか。……そうよの」

 うん、とうなずき、蝶は腕を組んだ。

「あれはひどいの。蝶がどれほど皇祇を心配しておったか、いやというほど知っていたくせに兄上めが。そなたは面に出るからだめだと、平然と言いおった! まったくいけ好かぬ兄上よ。そうは思わんか桜」
「蝶」
「だから、そう辛気臭い顔をするでない!」

 桜の両口端を引っ張って、蝶はしかめ面をした。

「皇祇は戻ってきよった。桜サンは、朱鷺の兄上と一緒になって蝶にだんまりをしたが、皇祇を守って無事に帰してくれた。それは嘘ではあるまい? 蝶はそれがうれしいのよ」
「ひょふ」
「うん?」
「ひょめんなさいぃ……」
 
 口端を引っ張られたままの不格好な姿で鼻を啜った桜に、「ありがとう、桜」と蝶はもう一度囁く。それから、しかしひどい面じゃな、と犬と笑いあって、頬を好き勝手引っ張った。





 桜が眠っていた数日のうちに、事態はめまぐるしく収束を見せたらしい。
 目を覚ましてから十日ほど経ったのち、扇を伴い、やってきた紫陽花に教えられ、桜はほんとうにめまぐるしい、と思った。
 まずは、玉津卿の捕縛。その首は衣川の河原で、十日間晒され、駆けつけた残党も皆ことごとく捕まり、都察院へ引き立てられたという。奥方の鬱金姫や屋敷の女衆も免れなかったようだが、こちらはいくつかの簡易な取り調べだけで解放されるだろうとの扇の見立てだった。
 
「無名は?」
「命は取り留めた。今は朧がついて身体を直してる」
「そう」

 聞けば、柊たち郎党や沙羅も、負傷の程度に違いはあれど無事であるという。桜はくじいた足に白藤が作ってくれた塗り薬を擦り込みつつ、かたわらで話してくれる扇の声に耳を傾けた。目を覚ましたとき、赤黒く腫れあがっていた右足は骨に異常こそなかったが、しばらくの静養を要した。丞相邸で漫然とした日々を過ごしていると、扇を連れて紫陽花が見舞いに訪れたのだった。

「『おみまい』……?」

 紫陽花の差し出した包みを怪訝そうに受け取ると、「私とそなたは家の行き来をするほどに仲がよいらしいからのう」と紫陽花は桜が橘邸の門戸を叩いた折の口実を揶揄して嗤った。艶やかな駒下駄をからんと鳴らして、閉じた日傘を中へ立てかける。

「あの日は悪かったの。内密に動いておって、屋敷には帰らなかったのじゃ」

 腰を落ち着けたあと、急須と茶碗はどこじゃ、と紫陽花が尋ねた。招いたわけではないが、茶はねだるつもりらしい。仕方なく桜が立ち上がろうとすれば、近頃は視えぬわけでもないからの、とくすりと笑い、袖を翻して厨のほうへ向かう。
 もらった包みを広げ、紫陽花の淹れたほうじ茶を啜った。都で見つけた名品だと自慢する饅頭は、確かに頬張ると白餡がほろろと溶けて、たいそうおいしい。思わず頬を緩ませた桜に、「うまかろう」と紫陽花は何故か偉そうに胸を張った。泰然とした風なのに、時折なんだか子どものような仕草をする女性である。

「丞相はおらんのだな」
「うん。起きてからはずっと」

 外のすっかり水気をなくして褪せた紫陽花の群れを揺らし、ぬるい風が流れ込んでくる。葉月もはじめとなり、夕暮れになると不意に涼しさの混ざる風が軒下に吊るした土風鈴を鳴らした。蝉時雨はもうあまり、聞こえない。
 去る文月末日。老帝は、譲位を決めた。
 病身の皇子四季に代わり、急遽立太子することになったのは朱鷺皇子そのひとであった。四年前の廃嫡からの復権である。これらのからくりに、皇祇の謀殺未遂や玉津卿の死と残党の捕縛、雪瀬をはじめとした葛ヶ原、南海、百川の領主たちが裏でどれほどの関わりを持っていたのかを桜は知らない。察することすらできないが、変わりゆく世の風の端を桜もまた、この都で感じることになった。

「氷鏡藍が身ごもったらしいな」

 どきりとすることを紫陽花が言った。
 桜は紫陽花を見たが、薄いさらしの巻かれた双眸は桜を通り越して遠くを見つめているようである。

「老いてできた子は可愛いからのう。めのこなら幸福な姫だが、おのこなら荒れるの。姿を見せない元占術師殿は、どちらと占うておられるのやら」
「紫陽花?」
「ただの独り言じゃ」

 肩をすくめ、紫陽花はやっとこちらへ目を戻した。

「桜にもおいしいと言われた。クソじじいへの土産はこれにしよう」

 そう言って、ふたつ目を勧める。桜としては引っ掛かりが残ったが、膝に乗せた扇が嘴を鳴らしたので、小さくちぎって与えてやった。自分も残ったぶんを頬張る。やはり、口の中で餡がまろやかに溶けておいしい。三つ目に手を伸ばしたところで、紫陽花の指が止まっていることに気付き、ちら、と盗み見る。涼しげな桔梗色の小袖。白粉のかおる首筋。結い上げた亜麻色の髪にはやはり紫石の銀簪が挿されており、果敢ない翳りを女のうなじに落としていた。まばゆいほどの白さに、目を細めた。

「桜。土産ついでに、ひとつよいことを教えてやろうか」

 やにわに振り返られて、桜は小さく胸を跳ね上がらせた。
 ばつが悪くなり、紅潮した顔を紫陽花からそむける。

「よいこと……?」
「ああ。私と橘なんだがな。実はほんに婚姻の契りを結んではおらん」

 唐突に明かされた話に、桜は俯いたまま眉をひそめた。
 紫陽花は空にした茶碗を手の中で転がしている。

「どうせふた月も経てば、風の噂でそなたの耳にも入ろう。ゆえ、先に知らせてやる。このあと葛ヶ原へ戻ってから、橘が都で女を作っていたことがばれての、私は秋の婚姻を待たずして契りを破棄する。最後は橘の頬に私が一撃を見舞い、それでしまい。そういう、筋書じゃ」
「お、おんな……?」

 紫陽花だけでも敵わないのに、さらにまた、女?
 困惑した桜に、「だから、そういう『筋書』じゃ」と呆れた風に紫陽花が吐き捨てた。

「どうして、そんな」
「黒海の一の姫のことは知っておるか」
「いちのひめ?」

 首を傾げた桜に、「南海連合のひとつ、黒海家の姫君よ」と紫陽花が説明する。

「黒海のじじはの、一の姫を橘に嫁がせたかったらしい。黒海は三年前の助命嘆願にも関わった恩深き家であるからのう。面と向かって切り出されるといかんとも断り難いので、橘は私を連れて都にやってきたわけよ。ほれ、くだんの宴の席にもおったろ。そなたが酒を橘にぶちまけた」

 嫌な記憶が思い起こされ、桜は口をつぐむ。
 記憶に薄いが、粗相をしてしまった丞相邸の宴に、確か黒海家の領主も並んでいた。雪瀬がわざわざ紫陽花を連れてあの場に現れたのは、そういった意図があってのことらしい。しかし、桜は腑に落ちなかった。

「紫陽花はそれで、よかったの?」
「わたしか? ……まあ、外の世界は見てみたかったからの。持ちかけられたとき、面白そうだし、よいかと思うた。それに」
「それに?」
「不憫ではあるまいか、その一の姫とやら。決して己を女として見ない、そのような男の隣で生きるのは阿呆じゃ。愚か者のすることじゃ。そういった愚かごとはの、盲の女ばかりがすればよいのよ」
 
 それ以上を、桜は訊かなかった。

「いつ、発つの?」
「明後日には。霧井湊まで出て、そこから船を使う」

 もとより、文月の中頃には帰ることになっていた葛ヶ原一行である。帝の発病や玉津卿、皇祇皇子の一件で長くのばされていたが、ついに許しが出たのだろう。実際、ここ数日の間に都にとどめおかれていた領主たちも次々故郷へ戻り始めていた。

「雪瀬は……」
「あやつなら、東雲殿に向かった。朱鷺殿下に呼ばれてのう、葛ヶ原へ戻る前にと参ったのよ」
「そう」
 
 こちらを案じてか、首をもたげた扇を撫でて、目を伏せる。
 瞼裏に蘇る、あの晩の最後の記憶は雪瀬だった。

 ――きよせ、と。
 常夜塔の明かりに目を細めながら、桜はそのひとを呼んだ。絶命した男が足元で未だ血を流している。雪瀬は返り血ひとつ浴びておらず、桜は最初、刀を突いたのは別のひとではないかと思ったくらいだった。それから、返り血ひとつ浴びない速さで仕留めたのだと思い直した。
 足元を見つめている雪瀬の目は昏い。くらかった。夜の翳りと同じ目をして、雪瀬は男の背中を見つめていた。きよせ、と何かをたぐりよせる気分になって、今一度、呼ぶ。それでようやく少しだけ、相手が動いた。膝をついて、広がる血からのけるように桜の身体を抱え上げる。立てる?、でも平気?、でもなく雪瀬は桜の身体を抱え上げただけだった。桜は雪瀬の咽喉のあたりをぼんやり眺めながら、言葉をなくしてしまう。
 ありがとう、助けてくれて。
 そう言うべきなんだろうか。だけど、雪瀬は代わりに手を汚している。考えると、胸がきゅっと萎んで、何も言えなかった。梯子を降りる雪瀬の首にそっと手を回しながらも、何も口にすることができなくて、桜はただ、男の首筋に額を擦った。乾きかけた汗のにおいがする。走ってきたのかと思ったら、切なくなった。それが、意識が途切れる直前の最後の記憶だった。