五章、乞巧奠
二十、
桜は鐘を鳴らした。
はずみのついた打ち木に振り回されそうになりながら、何度も繰り返し。目を覚ました、寝ずの番や屋敷の下男、下女たちが連子窓や裏戸から顔を出し、何事だ、うるさい、と怒声を上げる。萎縮しそうになる気持ちを振り払って、打ち木にしがみついた。それでも次第に息は上がり、腕が痺れてくる。
ずるっと手が滑り、打ち木から跳ね飛ばされた。鐘つき場に尻餅をつき、そこではじめて桜は外のざわめきが先ほどとは違っていることに気付く。群青の甍と甍の間に伸びた小路に、微かな明かりが浮かんでこちらへ向かっている。先頭に橘紋付の提灯を見つけ、桜はああ、と息を吐き出した。
「雪瀬、」
その声が届いたかどうか。
欄干に背をつけたとたん、目の前の景色が遠のいた。
*
雪瀬がその場にたどりついたのは、玉津派の残党を捕縛したとの報せを受けたあとだった。まるで天啓を受けたように時告塔付近へ雪瀬が向かわせた兵は結果として当たった。きみはやっぱり最後の最後でツイてるじゃない、と得意げになって漱が笑う。
着いたとき、すでに骸は水路沿いに顔を向けて並べられ、捕えられた者たちは縄で縛られて一か所に集められていた。報せを受けると同時に、都察院へは遣いを出してある。雪瀬は捕えた者たちを都察院へ引き渡す立ち合いに、この場へ訪れたのだった。
「雪瀬様」
見知った声に顔を上げると、柊であった。片腕を衣の端切れらしい布で吊っている。眉をひそめた雪瀬に、「ご心配なく。肩をかすめただけですので」と柊は苦笑して首を振った。柊が連れた兵は十程度だったと聞いている。精鋭だが、数の上では不利だった。並べられた骸はどれも損傷がひどく、昼は船の出入りに使われる幅広の水路はひとの臓物と血で黒く澱んでいる。
「こちらも、ふたりやられました」
少し離れた場所に横たえられた骸に羽織をかけながら、柊が言った。その手が何かを探すそぶりをしたので、雪瀬が自分の肩に引っ掛けてきた羽織を渡すと、玉津卿の子飼いであった者たちの上にもかける。
川べりに、雪瀬はかがんだ。どこからともなく風が吹いて水面を撫でたため、やはりあの方の弟君なんですねえ、と柊が蛍でも見つけたような顔で呟いた。
「……残党はこれですべて?」
「わかりません。玉津卿はかなりの数の孤児を拾い、裏で使っていたと聞きます。正確な数を把握するのは、難しいでしょう。あなたさまも、お気をつけくださいませ。しばらくは荒れる」
柊が懸念したのは報復である。
橘颯音が刑死したときも、その首をめぐり、直後各地で争いが絶えなかった。玉津卿の首は衣川の河原に十日間さらされるという。それを取り返しに駆けつけた残党がまた幾許か捕まるにちがいなく、禍根はこの先も残る。よい御主人様です、と熱を帯びた口調で玉津卿を語っていた少女の幼い横顔を思い出し、雪瀬は嘆息した。
「皇祇皇子は?」
「朱鷺殿下の私兵がいらしたので引き渡しました。あなたさまがいらっしゃる少し前です。よく嗅ぎ付けたと思いましたが」
「報せをもらったときに、馬を出したから。でも、ずいぶんイイ具合に出てくるもんだね」
暗に皮肉るような言い方になる。何せ、雪瀬が玉津卿に囚われたときも、しばらく静観を決め込んでいた皇子である。ええまったく、と柊も同調した。
「今回の件、もしやすべて朱鷺殿下の手の上だったのではないかと思うほどですよ。廃嫡は虚弱なお身体ゆえと聞いておりましたが……、文樹林でのんびりされているだけの方ではないようですね」
言葉を切って、柊は少し笑った。
視線の先には、時告塔の櫓がたたずんでいる。
「都察院の者が着くにはまだ時間がかかりましょう。あなたさまも迎えに行って差し上げたらいかがです?」
「……なんのはなし?」
「おや、お耳に入っていませんでしたか。時告塔で鐘を鳴らしていたのは、少女ですよ。あなたもよくご存じの」
ひとひら、花が散るように脳裏に閃いた少女の姿に、雪瀬は一時声を失した。
「どうして」
「皇祇殿下を見つけたのが桜さんでしたから。私が駆けつけたそのときも、殿下を逃がそうと刀を振りかぶった男に突進する勢いでした。じっくり布陣を張るはずが驚いて、思わず飛び出してしまったほどです」
雪瀬の顔を見て、柊は苦笑する。
「大きな怪我はありませんが、足をくじいているようでした。あの様子では、降りられなくなっているのかもしれない。どなたか行ってやらなくては」
「柊」
「ああ、すいません。呼ばれているみたいです」
視線をよそに投げて声を返すと、こちらへ目礼し、柊はその場から離れた。
夜明けにはまだ早い、群青色の空にたたずむ時告塔の櫓を見つめ、雪瀬は目を伏せる。鐘つき場の欄干に寄りかかるほの白い少女の姿が浮かんだ。あの手が鐘を鳴らしていた。途切れそうになりながら、それでもずっと、雪瀬に向けて鳴らされ続けていた。
そらしがたく胸のうちにせり上がった感情が何なのか、雪瀬にはわからなかった。柊が言うよう、すぐにでも駆けて行って、小さな身体を抱き寄せてやりたい気もしたし、そのくせ、逃げ出したい、と途方に暮れた子どものようなことを思いもする。
踏み出そうとして、結局ためらった。
緋色の眸はまっすぐ雪瀬へ向けられるのだろう。これまでそうだったように。
それで、俺は何を言うんだ。
彼女に、何を言えるっていうんだ。
目を瞑り込むと、別の者をつかわせればいいと思って、きびすを返そうとする。足を止めたのは、水路に半身を浸して倒れていた男がふらふらと身を起こし、そばにいた別の男の刀を奪って、時告塔のほうへ駆けていったからだ。
「あのおんな、めちゃくちゃにしやがって……!」
雪瀬様、と気付いたらしい柊が声を上げる。そのときには雪瀬は身を翻していた。深手を負っているはずだが、男の足は異常に早く、塔にかかった梯子をどんどん上っていく。激しい焦燥が湧き上がった。頭上で刀の音が打ち鳴り、一気に血の気が引く。呼んだ、気がした。桜、と。彼女の名前を。もうずっと口にできてなかった気のする、けれど、唯一の名を雪瀬は口にした気がした。
うんざりなんだ。何かを失うのはもう。
*
ぴんと張り詰めていた糸が途切れてしまったらしい。
欄干に背をもたせたまま、しばらくの間指先ひとつまともに動かすことができなかった。頭を起こすのも億劫で、まどろみかけていた桜は、突如梯子のほうから轟いた足音に目を開いた。
「おまえのせいで、すべてめちゃくちゃだ……!」
鐘つき場に手をついた男が吼える。
何が起きているのかすぐには理解することができなかった。怒声で疼いた頭をわずかに動かして仰ごうとすると、間を詰めていた男が刀を抜いた。よけようとして、転げる。咳き込みつつ身を起こそうとした桜の頭上で、刀が唸った。ひゅっと、くろがねが風を切るときの燻すような音がこめかみを打つ。
しかし、男は動かなかった。
腰に刀をためたまま瞠目した男が膝からくずおれる。ぱっと散った赤黒い血が欄干に跳ねて、頬にかかった。床に伏したまま、桜は血をよそへ払って刀をおさめる相手を仰ぐ。まぶしい、と思った。空が明るみ始めていたからか、相手がしらじらした光の向こう側にいるように桜には思えた。けれど、それもやがて像を結ぶ。
「きよせ」
頼りなげな糸を手繰るように呼ぶ。
雪瀬は足元に転がる骸を見つめ、果敢なく息を吐いた。
【五章・了】
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