五章、乞巧奠



 十九、


「遅すぎです」

 柊が櫛笥川沿いの河原にたどりついたとき、玉津卿の子飼いのうちひとりは絶命し、もうひとりは後ろ手に縛られているさなかだった。沙羅と名乗った橘の食客であるという少女は自身も負傷した様子で、縄を結ぶ手つきが少しおぼつかない。柊は繁茂した夏草をかき分け、前へ進み出た。

「私がやりましょう」
「平気です。私とて人形の身、心配には及びませんから」

 傷が痛んだのか、沙羅は上気した頬を歪めた。

「早くあの皇子と桜を追ってください。……ひとり、離れた場所でうかがっていた者を取り逃しました。まだ仲間が幾許かいる様子。あの子たちの足では下手すれば、追いつかれます」





「ちょ……さくら、待て……息」

 繋いだ手を後ろに引かれ、桜は足を止めた。夜の小路をずいぶん長いこと走った気がする。水路の脇で柳の長細い葉がさらさらと揺れている。どのくらい走ったかはさだかでないが、一度時告げの鐘の音がなまこ壁をこだました。

「へいき?」
「……へ……き、じゃ、……」

 膝に両手をついた皇祇は息も絶え絶えといった風で、肩をせわしなく上下させている。道の真ん中で座り込みそうになってしまった皇祇を支え、ひとまずなまこ壁の影になっているあたりに連れていこうとした。

「うわっ」

 しかし、皇祇の足が蹴つまずいた。腰を上げたはずみに膝の力が抜けてしまったらしい。はずみのついた身体にぶつかられ、桜も一緒くたになって転げてしまう。どさ、という音がなまこ壁に響いた。
 桜はしばらく、動けなかった。
 河原で転んだときに捻った右足に激痛が走り、地面に爪を立てて肩を震わせることしかできない。

「桜? おい、へいきか?」

 先に身を起こした皇祇が桜の肩を揺する。それから、翠のまるい眸をいっぱいに瞠らせた。

「おまえ、どこか怪我しておるのか」
「だいじょうぶ」

 首を振ったが、皇祇は桜が手を添えた足首をめざとく見つけて、おそるおそる指先だけで触れた。「熱い」と呟く。

「痛むのか? 動かせないのか?」
「……うごかせるよ。だいじょうぶ」
「阿呆。嘘をつくでない」

 左足だけを使って身を起こそうとすると、皇祇が肩を押さえて遮った。桜の足首に落とされた眼差しがふいに引き締まる。深く息を吐き出して、皇祇は袖をまくった。

「っ!?」
「ええい黙れ! しずかに、せよ!」

 桜の背と膝裏に腕を通した皇祇が、よろめきながら立ち上がる。桜は同じ年頃の少女たちに比べても小さく、軽いほうであるが、何せ皇祇である。桜ひとりだってその細腕で抱き上げられようはずもなく、少しずつ歩き出そうとするも、左へ右へふらついてしまっている。顔をしかめた少年の額にみるみる汗が吹き出るのを見て、いいよ、と桜は皇祇の肩を押した。

「おろして。あるけるよ」
「黙れ」
「すめらぎ」
「だから、うるさい、と言っておる! 俺は皇子ぞ、この国一高貴な皇子であるぞ! それがおまえのような、くっそ小さきものを持ち上げられんでたまるか! だああああおまえ、ほんっとうに、重い! 少しは軽くせい! 腹の立つ!」

 むちゃくちゃなことを言いながら、けれど皇祇は桜を捨て置いたりはしない。前へ見据えているかたくなな横顔を見つめて、桜は困ったように苦笑した。蝶とそっくりだ、と思ってしまったからだ。
 
「蝶が、ずっとすめらぎに会いたがっていたよ」
「……そうか。俺も、蝶にあいたい」
「蝶とすめらぎは似ているね」
「双子だからな。双子は不吉ぞ、とあれこれ言うものも多かった。蝶はそういうとき、黙っていないでつかみかかるから、よくふたりで縞と稲城に叱られたものよ」

 気を紛らわせるつもりか、皇祇は多弁だった。
 橘の屋敷まではもうさほど遠くはないはずだった。東地区の目印である時告塔の櫓が見える。少し歩けば、領主たちの屋敷の門前にともる紋付の提灯明かりも見えてこよう。橘の領主は、桜が訪ねたときは不在だった。雪瀬は無事、玉津卿の拘束をかいくぐれたのだろうか。扇は問題ないと言っていたけれど――。考えながら皇祇の胸に頭を預けて、桜は目を伏せた。

「それと、蝶は未だに白馬の皇子様を信じておる馬鹿でなー……」

 話していた皇祇がふと口をつぐむ。触れた肩を通して伝わっていた微かな振動も止まり、桜は閉じかけていた眸を開いた。

「第十九皇子皇祇であるな」

 闇夜より投げられた声は、知らぬものである。あとずさった皇祇の肩越しに背後を振り仰ぐと、そちらもまた別の男たちによって塞がれた。おろして、と先ほどとは違う声で言うと、このときばかりは皇祇は素直に従った。
 
「どけ、女。さもなければ、ぶったぎるぞ」
「皇祇に何もしないと約束できるなら」
「それはできない約束だ」
「なら、私もどくことはできない」

 頭領らしい正面の男を見据えながら、あたりの気配を探る。前に三人、背後にはふたり。左は荷運び用の船が出入りする幅広の水路が続き、右にはなまこ壁が並んでいる。朝夕は荷揚げで賑わう船着き場だが、今は人気がまるでない。ひらけているのは水路の側であるものの、足のつく深さではないだろうし、皇祇を引きずって泳ぎきれる自信はなかった。
 男の腰に佩かれた刀を見つめ、あれに斬られたときのことを考える。くろがねの切っ先が肉を破ったときの痛みや熱が桜にはありありと思い起こせた。思い起こせる程度には、刀と対峙した記憶があった。いつも、紙一重をくぐり抜けてきた。それでもやっぱり、いざ刀を目の前にすると怖い。いつだって、とても怖い。怖いけれど、どうしようもなくて、それしかないから立ち向かうのだ。
 詰めていた息を桜は吐き出した。
 蝶のところへ皇祇は連れていく。
 かならず。

「すめらぎ」

 後ろ髪に挿した簪を握り締めて、抜く。はしって、と背後の少年に囁き、背を塞いでいた男に向けてそれを投げ打った。桜に、玄人の心得はない。眉間を狙った先端は男の頬をかすめただけであったが、よけたせいで大きく道が開いた。皇祇が駆ける。あと、ひとり。刀が鞘走るのを感じて、桜は前へ飛び出した。普通なら、退くところである。よもや一直線に向かってくるとは思わなかったらしい、意図せず間合いを取ろうとした男の脇をそのまま走り抜けようとする。何かを考えていたわけじゃない。ただ前に出れば、男の注意は皇祇からじぶんに向かうと思った。それだけしか考えていなかった。ぎゅっと目を瞑って走る。はしる。もう一歩、抜ける前に、後頭部にがつん、と衝撃が走った。視界がぶれる。踏みとどまろうとすらできず、気付けば地面にぶつかっていた。倒れるというよりは正しくぶつかった。胃の腑とはちがう、頭のほうからくる強烈な吐き気に喘ぐ。どこかを殴られたらしい、というのはあとでわかった。
 
「丞相の妾だ。あとにしろ」

 混濁しかけた視界で皇祇を探そうとすると、肩を踏まれた。歯を食いしばる。皇祇を見つけられないのが怖かった。踏みしだかれたまま砂をかいてもがくと、頭上で舌打ちがして、刀が鳴った。斬られる。知らず強張った頬を、さわりと、絹のようにやわらかな風が撫でた気がした。一瞬だった。押し殺した叫び声が上がったかと思うと、何かが倒れた。

「柊! こっちだ!」

 扇の声で、銀刃が閃く。桜のかたわらに見慣れた鳥影が舞い降りた。
 かち合った刀が擦って、いったん離れる。徐々に視界がかたちを取り戻し、さっき簪を投げ打った男が少し離れた場所に倒れているのに気付いた。今ひとりは刀を抜き放っており、それと相対する位置で、年若い青年がやはり刀を構えている。

「おまえは誰だ」
「百川式ノ家、柊と申します。あるじ紫陽花より、橘の当主をお助けせよとの命を受け、馳せ参じました。お聞きなさい。玉津卿は捕縛令によりすでに討たれました。皇祇様を襲ってももはや意味がない」
「世迷いごとを」
「それでもなお、刀を向けるとあらばお相手しましょう」

 男が顎を引けば、なまこ壁の影からさらに何人かの男が歩み出た。対する柊の兵は十人程度。号を待たずに、男の足が地を蹴った。
 双方の刀が闇に煌く。





「これは、まずいな……」

 あたりを眇め見た扇が呟く。
 両陣営はすぐに混戦へなだれこんだ。
 皇祇が柊側の兵に守られているのを見つけて、桜はほっと息を吐き出す。柄頭で殴られたらしい。鋭く疼く後頭部に手をやって、扇に半ば引きずられるようにして打ち合いから離れた。

「兵は衣川沿いに多く集められているんだ。柊たちじゃ数が少ない」

 しかも、その少ない兵数のうち半分が皇祇を守るために割かれているため、数の上での分が悪い。対等に打ち合っているように見えたが、そのうち押される、と扇は断じた。

「俺は橘へ戻って味方を連れてくる」
「雪瀬は、」
「玉津のほうもいい加減始末がついたろ。おまえはこいつらから離れるなよ」
「――おい、鳥がいったぞ!」

 羽を翻した扇に、柊と鍔迫り合いをしていたひとりが気付いて、声を上げた。直後男は肩から腹にかけて血を吹き上げ倒れたが、別の男が腰に挿した短刀を抜き、空へ投げ打った。放たれた短刀が白鷺の胸の中央を貫く。

「あおぎ!」

 上空にあった肢体が羽ばたきを止め、短刀の重みで落下した。飛び出したが、間に合わない。地面に叩きつけられた身体は一度跳ねて、水路に転がり、小さな水飛沫を立てた。

「あおぎ、あおぎ」

 くじいた足のせいで転げそうになりながら、桜は水路の澱んだ流れに手を入れ、白鷺を引き上げる。ふるりと身体を震わせ、扇は折り鶴に戻った。こうなってしまうと、雪瀬が来るまで扇は動くことができない。折り鶴を胸に抱いて、桜は途方に暮れた。
 そのすぐかたわらで、水音が上がる。
 柊の兵が上半身を水に浸して倒れていた。胸に斬り傷があり、溢れ出した血液が水路に赤い帯を作る。訳もわからず抱き起こすが、絶命していた。見れば、玉津卿の子飼いの男たちも、柊側の兵たちも、ひとりふたりと倒れて動けなくなっている。そのうち押される、と呟いた扇の言葉が脳裏によぎった。立ち上がろうとするが、膝が震えて転ぶ。また地面に顔からぶつかって倒れると、泣きそうな気持ちになって、桜は目を瞑りこんだ。瞼裏からこみ上げた涙がぽろぽろと砂で汚れた顔を濡らす。ついに泣き出してしまったじぶんが情けなかった。こんなことをしていたって何も変わらないのに。何も。
 
 ――そなたはほんに幼いの、人形の君。

 焦燥は、まったく別の記憶をよみがえらせた。
 対面に座した紫陽花が呆れた風に息をついている。橘の屋敷でやり込められたときのあの表情と言葉だった。

 ――箏弾姫はどこにある!

 これは、乞巧奠で藍のいない舞台に立たされたときの。
 桜はいつも、無力だった。
 愚かで、浅はかで、無力な自分を。立ち向かうたび、突きつけられた。それでもどうにかしたいと、わたしにもできることがあるんじゃないかって、顔を上げるたび何度も繰り返し。わたしはいつも、愚かで、浅はかで、無力で、もがくのに、あがくのに、結局なんにもできやしない。そんな自分が情けなくて、傷つくことにも疲れてしまって、もうぜんぶやめてしまいたいと嘆く。
 諦めてしまえたら。立ち止まってしまえたら、どんなにか。
 けれど、だけど、だけども。

「さくら!?」

 声を上げた皇祇をよそに、桜はぱっと身を起こした。斬り合う男たちから離れ、逆の方向へ走る。くじいた足のことは構っていられなかった。幾度も転びかけながら小路を抜け、そびえたつ時告塔の梯子へ手をかける。腐りかけた梯子は踏むと、揺れて少し怖い。それでも上りきって、桜は鐘つき場に転がり込んだ。頭上には大きな鐘と打ち木がある。手を伸ばして打ち木を取ると、弾みをつけ、鐘に勢いよくぶつけた。
 腹の底を震わせる音が打ち鳴る。
 夜の静謐を破るように、それは鳴った。





 突如天を貫いた鐘音に、雪瀬は地図のほうへ伏せていた眸を上げた。
 東にたたずむ時告塔である。それが急に打ち鳴ったのだ。

「火事ですかね」
「――いや」

 濡れ縁に出て鐘の方角を仰いだ雪瀬は、眸を眇めて風のにおいを嗅いだ。確かに有事の際に鐘が鳴らされることはあったが、あちらの天は赤く染まっておらず、火事特有の焦げ付いたにおいもしない。しばらくそちらを見つめていた雪瀬は不意に閃いた顔つきできびすを返した。

「兵はまだいくらか残ってる?」
「ええ。衣川捜索から報告に戻ってきた一隊と控えで二隊」
「そのふたつをすぐに集めて、漱」
「……御意に」

 のちに、神がかった勘のよさであった、と言われる。
 どうあれ、橘雪瀬の運命はひとつの鐘音により、変わった。この日を境に、先代の名に隠れていた十代目葛ヶ原領主の存在は都に知れ渡る。