五章、乞巧奠
十八、
「玉津の残党か……」
雪瀬は腕を組んだ。
無名が襲われ、皇祇も未だ行方知れずの状況である。
扇曰く、無名を襲ったのは玉津卿の子飼いの者たちではないかとのことだった。捕縛の宣旨が出されたのが半日ほど前。彼らは未だ宣旨や玉津卿が捕まったことは知らずに野に放たれたままになっている。無名が襲われたということはやはり、子飼いのうちの幾名かは皇祇の命を狙っているのだ。
「皇祇皇子の足取りは?」
医者の朧と小姓の竹は無名のもとへ向かわせてある。皇祇の捜索についても、手を打たねばならなかった。襲撃者は無名がしとめたと聞くが、皇祇はひとりでは刀もろくに扱えない童子同然である。見つかれば、たやすく命を奪われよう。
「俺は衣川を中心に追ってみる。あの足では、まだ都は出ていないはずだ」
さっと翼を広げて、扇が身を翻す。しかし、扇だけではもしものときに心もとない。雪瀬は衣川沿いに先んじて兵を向かわせ、朱鷺宛の早馬を出した。皇子の抱える私兵を動かすためである。さらに、南海領主網代あせびにも内々に使いを出して、万一「白い髪の少年」を見つけた場合は屋敷のうちへ保護するよう求める。唐突な使いだったにもかかわらず、あせびは快くこれを受け入れ、検察史を兼任したつてをたどり、信頼のある領主に言って聞かせた。
あせびの使いを返した雪瀬はようやく茵に座した。
すでに玉津邸は都察院の者に引き渡し、屋敷のほうへ戻ってきている。久方ぶりの屋敷を懐かしむ間もなく、床に開いた紫苑の地図を見つめた。
「いいんですか?」
よいしょ、と同様に腰を下ろした漱が尋ねる。どこか冷やかすような口調だった。面倒そうに雪瀬は視線だけを上げる。
「出て行かれなくて。そわそわとしていらっしゃる」
「それで見張りにきたって?」
「まさか」
雪瀬のかたわらに置かれた愛刀を見やって、漱は苦笑した。
「そんなに暇じゃありませんよ。紫陽花がひそかに柊たちを刀斎さまから借り受けて動かしました。こちらは櫛笥川を中心にあたらせています」
「櫛笥川?」
「都で、大きな川といえば衣川と櫛笥川でしょう。こういうことは万一のことまで考えておかないと、雪瀬さま。あなたやわたしならともかく、殿下に川の区別がつくとも限らない」
「……ああ」
確かに、皇祇は世情や地理に疎い。しかもこの夜闇である。最初に見つけた川のほうを衣川と思い込んで、無名を待っていることもありえた。
「殿下は見つかるでしょうかね」
「もし見つからなかったら――」
言いさし、雪瀬は口を閉ざした。夜明けまでに見つからなければ、皇祇が無事とは言い難い。きりきりと疼き続けるこめかみを押して、脇息を引き寄せる。黙り込んだ雪瀬に代わり、漱が千鳥の運んできた白湯を受け取った。それを雪瀬の前へ置く。
「どうにかなりますよ。きみはたいてい、最後の最後でツイてるじゃない」
慰めにもならない、と雪瀬は思った。
*
「まったく暇ですわー……」
うーん、と大きく伸びをすると、沙羅は青楼の窓辺から、盃を片手に空を仰いだ。商人の榊を見つけ出した褒美に、沙羅は漱から少なからずの報奨金を得ていた。たかりですよ、と漱は嘆いたが、沙羅は涼しい顔である。
得た金を使い、櫛笥川沿いの旅籠に泊まった。並べられた料理に舌鼓を打ち、冷やした酒をちびちびと舐める。悦であった。
「楽しそうだな、沙羅」
「もちろんですよ、空蝉さま。空蝉さまもどうぞ目で見て楽しんでくださいませ」
にっこり笑うと、「……そうか、目でな……」と空蝉は寂寞と呟いたが、見なかったことにして酒を注ぐ。
「明日は東市でもひやかしましょうかね。珊瑚の簪に、このあたりなら柘植櫛などもいいですわねえ。都の職人はやはり、風情がちとちがうといいますか……、あとはまぁ、ひとり居残っている橘の妹にも菓子のひとつくらい買ってあげますかね。空蝉さま、何がよいと思います?」
「俺は酒が飲みてぇなぁ」
「うふふ、あなたのお話はしてませんよ?」
小首を傾げると、空蝉は表情のない面をおそらくは強張らせて口をつぐんだ。
「……あら?」
高欄に乗せていた腕をもたげ、沙羅は少し身を乗り出す。「なんだ?」と腕をよじ登ってきた空蝉に、しぃと言って眸を眇めた。青楼の外に出された提灯がまだらに照らす小路を、子猫のように駆ける影がある。少年に見えた。連子格子の前を横切ったとき、頭巾に隠れた白銀の髪がこぼれて、ひときわきらめく。その少しあとをうっそりとつける黒装束の男を見つけて、沙羅は眉を寄せた。男の纏う気配は鍛え上げたくろがねのようで、市井の者のそれとは異なる。
「ともしたら、私たちの出番やもしれませんよ、空蝉さま」
「ってぇと?」
「つまり、こういうことです」
男の手が腰に佩いた刀へ伸びたのを察し、沙羅は高欄から突き出した徳利の口を離した。みる間に夜闇へ吸い込まれていったそれはしかし、黒装束の眉間を打つ前に割れる。直前で刀の柄が徳利の側面を叩いたためだ。破片が飛び散り、音を聞きつけた下男が店の中から顔を出す。刀を戻し、まっすぐこちらを仰いだ黒装束に、「ごめんあそばせ?」と沙羅は高欄に腕をもたせて微笑んだ。
*
「ふぁっ」
「うぎゃっ」
犬の背を追って走っていた桜は角から駆けてきた人影と正面からぶつかって、たたらを踏んだ。相手のほうは、勢いを殺しきれず転げてしまっている。だいじょうぶですか、と腰をさする人影のもとへかがんだ桜は思わず声を上げた。
「すめらぎ……!」
「……またおまえか」
桜の顔を認めて、皇祇も息をつく。櫛笥川に近い青楼が立ち並ぶ小路である。連子格子から漏れた明かりに照らされた皇祇は泥まみれではあったが、負傷している様子はない。それでも念のため、額や首、腹のあたりに触れていくと、「なにするんだ!」と皇祇は頬を紅潮させて飛びすさった。
「よかった。なんともない?」
「……なんとも、ない……」
視線をそらしながら呟いた皇祇を引き立たせて、「無名はへいきだよ」と桜はまず伝えた。とたん、汗と泥にまみれた皇祇の顔がくしゃりと歪む。
「たすかったのか? おまえがたすけたのか?」
「ううん。橘のお屋敷まで無名がじぶんで来たの。今はお医者さんがみているから、大丈夫」
「そうか……」
伏せられた翠の眸にみるみる透明な水膜が張ったので、桜は目を瞬かせた。寄るでない、と呻くと、桜に背を向け、こぶしで乱雑に涙を拭う。それでもこらえきれずしゃくり上げ始めた皇祇の背中に、桜はそろりと指を伸ばした。皇祇は身をよじったが、根気よくさすっていると、やがておとなしくなった。
「ついてきて。扇がひとを呼ぶって言ってた。橘のお屋敷に戻れば、どうにかしてくれると思う」
「だが、衣川で待てと無名が」
「ここは櫛笥川だよ」
首を傾げて桜が言うと、皇祇はえっ、という顔をして左右を見回した。
ついてきて、ともう一度言って、皇祇の腕を引き、歩き出す。櫛笥川から分流した水路をのぼれば、橘の屋敷近くへたどりつけるはずだった。
「おまえ、道がわかるのか」
「このあたりはあまり来たことがないけれど、水路をたどればへいき。無名に少しはなしを聞いた。衣川に回るなら、橘のお屋敷のほうが近いとおもう」
「まさかおまえ、おれを探しに来たのか?」
「そうだよ」
うなずくと、皇祇は何やら難しげな顔をして桜を見つめた。
「わからぬ。無名を手当したときもそうだが、おまえは人助けが好きなのか? おれはおまえなぞよく知らんのに、何故助ける」
言われてみれば、もっともな問いなのかもしれなかった。
皇祇を振り返り、桜はすこし微笑った。
「私も皇祇のことはよく知らない。でも、蝶は私の大事なひとだから、今は皇祇も大事」
小路を抜けると、均されていない道はぬかるみ、狭くなる。河原へ下りられるきざはしを見つけ、桜は犬を先に走らせ、皇祇の手を引いた。ひとつ、大きく段差ができているところがあったため、まず自分が下りて、皇祇へ手を差し出す。頬に降りかかった髪房が邪魔で、俯きがちだったかむりを上げたのは偶然だった。
「すめらぎ!」
背の高い夏草にまぎれ、皇祇の背後に滑り出る影があった。とっさにそばにあった手首をつかみ寄せるが、支えきれず、足を滑らせる。身体がかしぎ、河原のふちに立つ男の姿があきらかになった。どん、と大きな音がして、一瞬目の前が暗転する。
「っうぅ……」
それなりの段差を転がり落ちたせいで、身体のあちこちを打った。意識が切れたのはほんの一瞬だったが、男が下りてくるには十分である。
「黒髪に緋色の眸。丞相の妾だな」
半身を起こした桜へ、男は刀の切っ先を向けた。あたりをうかがうと男がひとりではないことに気付く。ぜんぶで三人。取り囲まれている。
「それから皇子皇祇。主の命によりお命頂戴する」
そのとき、足元にふわりとすり寄るものがあり、桜は小さく微笑んだ。ちゃんと、戻ってきた。やっぱり賢くて、情の深い子だ。
「犬!」
音もなく近づいた老犬が一番前にいた男の足首に噛み付く。悲鳴が上がった。その隙にすばやく身を起こし、桜は呆けた皇祇の腕を引っ張った。足に鋭い痛みが走るが、こらえてきざはしをのぼる。しかし老犬を振り払い、男が態勢を立て直すのも早かった。
「待て、女!」
桜の背に向け、刀が走る。
それを、分け入った懐刀が阻んだ。刀と刀が打ち合って、火花が散る。
「ここは私に任せて、おゆきなさい! 桜」
「……沙羅?」
翻ったおさげを信じられない思いで見つめた。
三年半前、毬街の湊で別れたきりの沙羅たちだ。どうして、ここに。惑うた桜に、「もらった報酬ついでです」と沙羅はかむりを振って、男の腹を蹴り付けた。男がよろけ、打ち合った刀がいったん離れる。
「沙羅がうまくまいてあげますから、今のうちにはやく! 大路の東に向かいなさい、橘の領主なら、必ずあなたを助けます!」
「沙羅、」
問答をしているには、時間がなかった。ありがとう、とだけ告げると、桜は沙羅に背を向け、皇祇の手をつかんで走り出す。後ろで犬に噛みつかれた男たちが罵声を上げているのが聞こえた。心配になったが、要領のいいあの子のことだから大丈夫、と自分に言い聞かせた。
櫛笥川の昏い水面を雲間から見え隠れする月が照らしている。
今にも途切れそうな、かぼそい光だ。それを頼りに、かつてひとりで走った。もう何年前のことだろう。縫を失い、行き先もわからないまま、たったひとりで都の外を目指した。今は、繋いだ手のひらがあり、それは桜の守るべきものだ。きっと、あのときより難しい。慎重に考えて、ふたりでたどりつける道を探さなくてはいけない。けれど、だから。
翳りゆく天を見据えて、桜は告げる。
かならずたどりつくから、と。
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