五章、乞巧奠



 十七、


 風はひとのたましい、と誰かが言っていた。
 それは母なのかもしれなかった。兄なのかもしれなかった。
 少し果敢なげな微笑い方をする、幼馴染の少年かもしれなかった。
 たましい。たましいの残滓。
 風術師はたましいと生きる。
 だから、だからね。うしなったように見えたものたちもほんとうは、きみのそばにあるんだ。そばに、いるんだよ。雪瀬。





「……せ…さま、お目覚めですか。雪瀬様」

 声は最初、遠方よりした。
 蜜蝋のまぶしさに一時目を眇めてから、「ちどり?」と雪瀬はかすれた声で呟いた。千鳥をはじめ、周囲で息を詰めてうかがっていた者たちが、一様にほっとした顔つきになる。

「……どこ、ここ」
「玉津卿屋敷の離れです。どこか痛むところはありますか」

 半身を起こそうとすると、千鳥が背に腕を回して手伝ってくれる。はずみに首の後ろのあたりが鋭く疼いて、イテ、と雪瀬は顔をしかめた。触れると、打ち身のあとのような疼痛がある。

「面の男は?」
「消えました」

 時間はあれからさほどは進んでいないらしい。白湯を持ってくるよう、兵のひとりが言う。入れ違いに入ってきた別の足音に気付いて顔を上げると、几帳の帷から漱が顔を出した。

「おや、雪瀬さま。意外とお目覚め、早かったですね」
「卿は?」
「首はおさめました。経緯を話した上で今、都察院の役人が検分をしているところです。……首、大丈夫ですか?」
「すごく痛い」
「ご愁傷様です。でも、まあよかった。よもや、きみの首まで並べて検分してもらわなくちゃいけないかと思いましたから」

 からかうように嘯いた漱に、雪瀬は苦いものを含んだ顔つきになって閉口した。雪瀬の記憶は、屋敷の裏門でアカツキなる男に呼びかけたところで途切れている。おそらく近くに仲間がひそんでいたのだろう。首を打たれるまで、ちらとも気付かなかった。これで振り下ろされていたのが刀であったのなら、漱の言うとおり、雪瀬は玉津の隣に仲良く首を並べていただろう。

「卿の首を斬ったのは、アカツキという面の男だった。卿の口ぶりだと、子飼いの刺客か何かに見えたんだけども」
「ちょっと待ってください。卿子飼いの者が何故主を斬るんです? あなたは玉津卿を追ってらしたんでしょ。普通、逆じゃないですか」
「俺も、変だとは思った」

 もっともな言い分に、雪瀬もうなずく。確かに、不可解である。あのとき、少なくとも玉津卿は助けが来たと本気で信じ込んでいるようだった。証拠に、刎ねられた首が最期に湛えていたのは安堵の笑みだ。

「見間違ったんじゃあ、ないですか」

 視線をそらして、漱が言った。

「松明がひとつあるくらいの暗がりだったのでしょう。切羽詰まっていた卿が、子飼いの刺客と間違えたんですよ。卿に恨みを抱いていた者は数を上げればキリがない。混乱に乗じて、始末したんじゃないですか」
「捕縛令が出たのは、今日なのに? よその人間にしても、早すぎる」
「……あの、雪瀬様。そのことについてですが」

 話していると、思わぬところから声が上がった。千鳥である。何やら思い詰めた風な顔つきで、じっと手元を見つめている。「千鳥?」と雪瀬がのぞきこむと、やっと頑なに引き結ばれていた唇が綻んだ。

「あのとき、面の男ともに消えたのは――」
「雪瀬! いるか!」

 もしもこのとき、雪瀬が千鳥の話を皆まで聞けていたなら、直前に耳にした声が蕪木透一のものであったと確信を得られていただろう。けれど、それは叶わなかった。

「扇」

 中へ飛び込んできた白鷺が、雪瀬の差し出した腕へ降りる。扇は無名と皇祇を探しにやっていたはずだ。

「ご苦労様。どうだった?」
「まずいんだ」

 雪瀬の言を遮り、扇が呻く。
 直後、続けられた言葉に、雪瀬は痛んできたこめかみを押さえた。





 時間は少々遡る。
 紫陽花を訪ねて橘邸に赴いた桜は、待ちぼうけを食らっていた。
 何でも、にわかに発せられた宣旨により、紫陽花と漱、その他家人や兵たちは皆出払ってしまったのだという。留守居の門衛が桜の顔を覚えていたため、門前で追い払われこそしなかったものの、「紫陽花様が今日のうちにお帰りになるかはわかりませんよ」と釘を刺された。
 しかし、今の桜に他の手立てはない。紫陽花でなくとも、せめて漱。皇祇の件を知っている者に伝えなくては意味がない。紫陽花が戻るまで待っている旨を告げると、見かねた門衛が客間へ通してくれた。
 紫苑は今、夏の盛りである。気を利かせた下働きの少女が半分ほど開け放した障子から風が抜け、三畳ばかりの狭い庭が見える。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない、夏草の繁茂した庭には、伸びた蔦にまぎれて夕顔がぽつりぽつりと開き始めていた。ましろの花姿はどこか果敢ない。つかの間、縁に膝を崩して座した少年が無為に書物を繰る姿がうたかたのように瞼裏によぎり、桜は目を伏せた。
 その庭に、鳥影が落ちた。濡れ縁から仰ぎやれば、むくむくと赤黒い雲を膨らませた茜空に、鳥が弧を描いているのが見える。

「あおぎ?」

 桜の声は決して大きいとは言えなかったが、届いたらしい。まっすぐ伸ばしていた首をふいと下げて、翼を翻した。

「桜、か?」
「扇!」

 腕を差し伸べ、降りてきた白鷺を抱き止める。
 なつかしい、なつかしい姿だった。何しろ、扇とは三年半前に別れたきりである。腕の中のあたたかな羽毛を抱き寄せて頬擦りすると、「離せ、くすぐったい」と昔と変わらない口調で扇が喚いた。

「いったいどうした。こんなところでお前」
「扇こそ、何していたの?」
「俺は無名の奴を探して……なんだ?」

 きょと、と桜が呆けたので、扇は言葉を切った。

「探しているって、無名と皇祇のこと?」
「……そうだが。何故おまえが皇祇のことを知っている?」
「ふたりなら、丞相邸にいるよ。そのことを、私は紫陽花に伝えに来たの」
「なんだって?」
「無名は怪我をしてしまっていて、あまり動けない。追われているって、無名から聞いた。今は納屋に隠しているけれど、このままにしておくのは心配。皇祇を外に出すわけにもいかないから、私が来たの」

 説明する間、扇は沈黙していたが、やがて嘴を開いた。

「傷の具合は?」
「たぶん、よくない。しばらく動けないとおもう」
「そうか」

 心無し沈んだ声をする扇に、「皇祇は無事だよ」と桜は笑んだ。

「無名もだいじょうぶ。手当はしたから」
「済まなかったな。……話はわかった。俺はこのことをまず雪瀬に伝える。丞相邸だったな? 今晩中には医者と兵を寄越すからおまえはあちらで待っていろ」
「でも雪瀬は」

 玉津卿に拘束されている、と無名から聞いた。眉根を寄せた桜にふっと笑い、「問題ない。今晩中には片付くはずだ」と扇は確信じみた声で言った。

「だから頼んだぞ、桜」
「わかった」

 門をくぐると、すでに外には松明が焚かれていた。橘邸が小路に面していることもあって、薄暮の往来にひとは少ない。よくしてくれた門衛にお礼を言ってきびすを返した桜は、しかし、幾許もいかずに足を止めた。細めた眸をはっと瞠らせる。

「無名!」

 桜の声に、扇も止まった。築地塀に手をついているのは、丞相邸に置いてきたはずの無名である。足元のあたりには寄り添うように、老犬が鼻面を押し付けている。

「無明、無名」

 駆け寄って、桜は男の肩を支えた。手当てした傷はどういうわけか開いて、血を滲ませている。すぐそばの塀に舞い降りた白鷺を見やって、「扇か」と無名が呟く。

「ああ。その姿、どうしたんだお前。皇祇は」
「逃がした。あちらにも鼻が利くのがいたらしい。夕闇にまぎれて急襲をかけてきた。その場は俺が引き受けてあいつだけ逃がしたんだが、思ったより時間がかかっちまってな。見失った」
「捕縛の宣旨は、もう出ているはずなんだがな。おそらく奴らにはまだ伝わっていない。まずいな」
「もしものときは衣川の河川敷んところで落ちあうように言ってたんだ。だが、いねえ。長屋のあたりは道が入り組んでいたし、迷っているのかもしれん」
「わかった。桜」

 時折喘息の混じる男の背をさすっていると、扇がこちらを見つめた。

「状況が変わった。葛ヶ原の人員は今、雪瀬のほうにすべて集められてしまっている。皇祇の捜索に割くだけの人数を呼び戻せるかどうか。俺は雪瀬のところへ行く。お前はこいつを中に運び込んでやってくれ」
「扇」
「今、皇祇を奪われるわけにはゆかん」

 扇は翼を広げた。みるみる小さくなる鳥影を見届けてから、「あるける?」と桜は無名に訊いた。足取りの危うい男の肩を支え、桜は歩き出した。


 朧(おぼろ)と名乗る医者が遣わされたとき、東の空には遅い月が昇りはじめていた。無名のそばで額の汗を拭っていた桜は軽く瞠目する。襖を引いた青年の上着がすでに血で汚れていたためだ。

「あなたが桜さん?」
「無名はへいきですか」

 あわあわと荷を解いている竹を見かねて手伝いつつ、桜は朧に問う。医者というわりに、まだ年若い男だった。朧は「どうでしょう」とけろりと肩をすくめ、袖をまくった。

「でも、なにぶんしぶとい男なんで、平気じゃないですか。おかげさまで。礼を言います」

 片目を瞑り、謝辞を示した男に、桜は首を振った。上着に散った血の染みに今一度、何気なく視線を向けると、「『あちら』でも怪我人がたくさん出ましてねえ」と衿のあたりを引っ張って朧が肩をすくめた。

「でも最後まで眠りこけていたひとも目を覚ましましたし、残りは任せてきました。扇もこのひとのこと、心配しておりましたしね」
 
 朧は竹のほかにも数人手伝いの者を連れてきていた。こうなってしまえば、桜は用済みであろう。無名の汗を拭いていた手巾を洗うと、桜は竹に声をかけて橘邸を出た。急襲を受けたらしい丞相邸が気にかかり、ひとまずそちらへ足を向ける。橘邸から丞相邸は、都をふたつに分ける大路を跨いで東から西へ向かわねばならず、それなりに離れている。夜のきざはしに立った道は暗く、衣川沿いに立ち並ぶ青楼から漏れるわずかな提灯の明かりを頼りに、桜はぬかるんだ小道を歩いた。
 丞相邸は、納屋の戸がひとつ外れている以外は別段変わりなかった。
 中を確かめてみると、月詠がいない。十人衆も今日は寄りついていないようだった。足に身を擦り寄せてきた老犬を撫で、「無名のこと、ありがとう」と汲んだ水を椀に湛えて、前に置いた。しばらく桜に甘えていた犬は背を押してやると、ぴちゃぴちゃと水を舐め始めた。その隣にかがんで、桜は暗がり始めた空を仰ぐ。
 わたしは何をすべきだろうか。
 考えたとき、桜の脳裏に浮かんだのは不思議と雪瀬ではなく、馬鹿じゃなあ、と肩をそびやかしてわらう友人の横顔だった。
 
『出歩きの理由。蝶は弟を探しておるのじゃ』
『私も手伝う。手伝いたい。……だめ?』

 あのときの約束は、思いもよらぬほうへ転がってしまったけれど。
 桜はずっと懐にひそめていた組紐を手繰り寄せた。

「犬」

 呼べば、水を舐め終えた老犬が鼻面を上げる。

「あとすこしだけ。犬はがんばれる?」

 納屋を開くと、皇祇が使っていた衣を引っ張り出し、桜は微かにひくつかせた犬の鼻面にあてた。