五章、乞巧奠



 十六、


 はじめにしたのは、地鳴りとまごう振動だった。
 畳越しに微かに伝わったそれに、雪瀬は褥のうちにて閉じていた眸を開いた。臥したまましばらく耳を澄ませていると、次第に、擦れ合う具足の金属音や濡れた地を踏む足音などが聞こえてくる。近づいているようだった。
 戸を激しく叩く音のあと、外で乱闘の声が上がるに至り、雪瀬は身を起こした。障子戸を細く引き開けると、築地塀の向こうで松明の明かりがちろちろと揺れているのが見える。寝入っていた家人らも、ようやく異変に気付いたようだ。庇をせわしなくひとが行き来し、騒ぐ声が聞こえる。門は破られたらしい。

「雪瀬様! ご無事ですか」
「千鳥」

 雪瀬の軟禁されている部屋には、幾許かの見張りがつけられていたはずだが、それらはすでに打ち倒されたあとだった。茂みからひゅるりと現れた少女――千鳥が雪瀬を認めて、携えていた刀を寄越す。『白雨』である。すでに手になじんだそれを受け取り、雪瀬は千鳥からひとまずの状況を聞き出した。

「都察院嵯峨卿による捕縛令です」

 厚紙に包まれた書状を取り出して渡し、千鳥は昏倒させた見張りを慣れた手つきで縛った。月にかざして見やれば、中にはあの几帳面な男らしい水茎で予想通りの内容が記されている。――皇太子四季の長きに渡る監禁及び不適切な治療、さらには阿芙蓉の密輸。これらすべては疑いなきものであり、国を乱すことはなはだしい。ゆえに中務卿玉津及びこれに連なる者らを即効捕縛せよ、匿えば、玉津に与する者と見なす、との旨であった。都察院の役人を警護する名目で葛ヶ原の兵は動いた。

「どうされますか」
「……玉津卿はまだ?」

 尋ねると、千鳥が首を振ったので、どうやら見つかっていないらしい。卿の寝所は母屋にあるが、そこはすでに暴かれているはずであるから、どこか別所に逃げ込んだのか。しかし、出入口は隙なく兵たちが囲んでいる。
 何気なくめぐらせた視線が一点で留まった。
 
「雪瀬様」

 千鳥に促されるまでもなく、雪瀬もまた、こちらへ向かってくるふたつの影に気付いた。下女の菜子に先導され、衣を被いた女性が心許なげに続く。察するに、玉津卿の奥方鬱金姫だろう。

「この騒ぎはおまえですか!」

 雪瀬と千鳥の姿を見つけた菜子が叫んだ。眸が燃え盛る炎のようであった。雪瀬は答えなかったが、見張りについた男たちは昏倒させられており、雪瀬の手には刀がある。知らぬ、では済まないだろう。菜子の右手にきつく握られていた白刃が光った。がむしゃらに突き出されたそれは雪瀬にしてみれば、畏れるほどのものではない。湯呑み茶碗から身をかわすよりずっと身軽によけてしまうと、歯噛みした菜子がさらに刀を振り回そうとした。それを、千鳥の手刀が遮った。細く呻き、力を失った菜子の膝が崩れる。雪瀬は鞘を払った。千鳥がさらに刀を閃かせたからである。菜子の頸を掻き切ろうとした刃は、間に差し入った刀鞘を噛んで阻まれた。

「何故とめるのですか」
「時間がない」

 答えた雪瀬は端的だった。千鳥はあからさまに不服そうな顔をしたが、争うことはやめて刀をしまう。雪瀬は腕の中にもたれた少女を、壁際で震えながら始終を見つめていた鬱金姫へ差し出した。

「怪我をされたくないのなら」

 声をひそめて切り出す。

「部屋の中でおとなしくされていますように。そのうち、役人が来ます」

 脇を過ぎるとき、被いた衣の下の女と確かに目が合う。青白い顔の菜子を腕に抱えながら、「どうか史殿だけは」と鬱金姫は震える声で言った。史(ふみ)、とは玉津卿の名である。

「この身がどうなろうと構いません。けれど、あの方だけは……あの方のお命だけはどうか……」
「――捕縛後のことは、都察院の裁量になりましょう」

 身を賭して縋ろうとした女を千鳥が退ける。それでもなお額づく鬱金へ雪瀬は一瞥をやったが、口を閉ざすとあとはもう振り返らなかった。
 贅を尽くされた屋敷うちは見るも無残に蹂躙されている。たいていは家人どもであるので、これらはまとめて縄で縛られた。兵はうまく昏倒させた者は捕まったが、少なからず死者も出ていた。刀と刀の討ちあいである。殺さず生け捕るほうが難しい。母屋のほうへ出ると、臭気はむっと強くなる。雪瀬は庇に転がる死体なのか負傷者なのかわからぬものを跨いで、庭に降りた。それでも注意深く、刀のたぐいは奪っておく。柄のほうまで血の染み付いた刀は鉄錆くさく、雪瀬はそれを池に捨てた。

「いないですね」
「そうだね」
 
 千鳥は雪瀬のそばから、ちらとも離れない。玉津方の兵はすでに大半が動けなくなっており、また雪瀬も未だ乱闘をしている場所は避け、人気のない裏門付近へ向かっているのだが、千鳥の警戒が緩むことはなかった。

「真砂は見つけられた?」
「ええ。奇特なおひとですね、子飼いの目をかいくぐり、いらっしゃいましたよ。いただいた売帳を手がかりに商人の榊を捕えたのち、漱様が朱鷺皇子に働きかけ、最後は朱鷺皇子自ら動いて、帝に捕縛令を出させたようです」
「皇祇のほうは?」
「扇が探していますが、まだ。死体は上がっていませんが……」
「――いたぞぉおおおおおお!!」

 そのとき前方から上がった声に、雪瀬と千鳥は言葉を切った。裾を裁いて向かうと、すでにあたりをいくつかの松明が取り囲んでおり、肥溜めより引きずり出されている玉津卿の膨れた腹が見えた。兵のひとりが炎を顔元に向ける。玉津卿そのひとであった。きらびやかな衣は糞尿にまみれ、引きずりだされる際に暴れたせいか、たるんだ腹があらわになっている。さらに暴れようとしたので、兵のひとりが背を打ち据えた。「ぎゃっ!」と悲鳴が上がり、それきり動かなくなる。力ない腕を背に回し、兵が縄で縛った。
 雪瀬は首を垂れた男の前に立った。

「玉津様で相違ありませんか」
「たちばな、きよせぇぇええええ」

 獣の唸りにも似た声であった。
 玉津は糞尿にまみれた面を青黒く歪めて、雪瀬を見据えた。

「かようなことをして、許されると、ゆるされると……」
「帝から宣旨が発せられましたので」

 雪瀬は先ほど千鳥から受け取った書状を玉津の前で開く。

「皇太子四季殿下の長きに渡る監禁及び不適切な治療、さらには阿芙蓉の密輸。これらすべて疑いなきものであり、国を乱すことはなはだしい。ゆえに、中務卿玉津及びこれに連なる者を即効捕えよとの仰せ。ちょうどわたしはこの屋敷内におりましたので、お役人方の警護を請け負ったまでのことです」
「ありえぬ! ありえぬ!! その書状は、贋じゃ!」
「……都察院の方をお呼びしましょう」

 喚き立てる玉津へ告げ、雪瀬は書状をしまった。贋じゃ、贋じゃ、と駄々をこねるように繰り返し、玉津はかぶりを振ろうとしてよろめく。雪瀬はとっさに手を出した。

「触れるでない!!!」

 玉津が吼えた。

「おまえのごとき下賤な者が私を捕えると? 身の程をわきまえい! おまえにはおまえの兄と同じ蛮族の血が流れておる。この失われた片耳がその証拠じゃ! けがらわしい!けがらわしい!!けがらわしい!!!」

 一瞬の隙だった。
 意図せず雪瀬は玉津の腕に添えかけた手をのいた。その一瞬の間隙で、玉津は唸った。ぶるんと大きく身を震わせ、兵に体当たりをするようにして後ろ手に縛られたまま、走り出す。糞尿にまみれた五十過ぎの男とは思えぬ俊敏さだった。驚く一同が反応を遅らせる間に、玉津は裏門を目指して走る。走る。その顔に不意に歓喜の色が広がった。

「アカツキ……!」

 門の前にうっそりと黒い影が立っていた。
 奇妙な影だった。黒装束を纏い、貌すらも面で隠している。おそらくは玉津子飼いの者なのあろう。雪瀬は痺れたように虚空でとまっていた手で刀の柄をつかんだ。

「アカツキ! よう来てくれた! よう――」

 玉津がすがりつくように男のもとへ駆ける。しかし、声は半ばで途切れた。肉のたるんだ胴体がどう、と斃れる。切り離され宙を飛んだ首は、断末魔ひとつ上げることなく、雪瀬の足元へと落ちた。その口元は歓喜に綻んだままであった。雪瀬は呆然と未だ血を吹き流す胴、そして裏門を開く黒装束の男を見やる。
 
「――っ待て!」

 松明の明かりから外れれば、男の姿は夜闇に沈んで見えなくなる。雪瀬は裏門を飛び出た。得も知れない焦燥に駆られていた。雪瀬は、おそらくこの場で唯一雪瀬だけははっきりと、男の太刀筋を見ていた。鮮やかだった。鮮やかであり、速かった。苛烈であるのに、冷ややかだった。

「待って、くれ」

 息を喘がせながら、暗闇の一点を見据えて乞う。足音が止まる。月明かりでははっきりとは見通せなかったが、男は確かに雪瀬を見た。雪瀬は刀を抜いた。でなければ、この男とは対峙できない、そんな気がした。

「あかつきが、おまえの名か」

 別段珍しい名ではない。
 同じ名なら、何度も耳にしたことがある。
 けれど、雪瀬は問わずにはいられなかった。あるいは声を聞けば。すべてはあきらかになるだろう確信があった。

「こたえ、――っ!?」

 直後、脳髄を揺さぶる衝撃があり、視界が暗転した。ふつりと意識が途切れる。最後にごめんね、と囁く幼馴染の声を聞いた気がした。





 男の身体をひょいと受け止めると、蕪木透一は、まっすぐ突き付けられた刀を認めて、苦笑した。きみの御主人様に手出しはしないよ、と説いて、刀を握る少女のほうへ男を渡す。千鳥の眸は揺れていた。受け取るべきか、刀を向け続けるべきか、悩んでいる風だった。それで、雪瀬の身体から手を離してしまうと、仕方なく刀を下ろして両腕を伸ばした。問いたいことは山ほどあるのだろう。開きかけた唇に、そっと手をあてる。ごめんね、と囁き、透一もまた夜闇の向こうへ消えた。