五章、乞巧奠



 十五、


「膳は?」
「いつもきれいに平らげて返されますよ」
「客人なのか罪人なのか……」
「扱いづらくて困る」
「玉津様も測りかねておられるのでは?」
「いっそ三年前のように蔵籠めにすればよかろうに」
「都察院嵯峨殿の許可が下りぬのよ。証が足らぬと」
「罪科など、卿の力をもってすればどうにでもなろう」
「南海領主が拘束は不当だと騒ぎ立てている。無理に事を進めれば、領主らの不興を買おう」
「玉津様は?」
「今日も帝の御側へ」
「あの容態では、譲位もありうるやもしれん……」


 こと、と雪瀬は揃えた箸を膳の上に置いた。
 名目は呪殺未遂の疑いをかけられたまま、調べという形で雪瀬は玉津邸に留め置かれている。五日が経ったが、玉津卿が現れたのは初日のみ。襖越しに聞こえる下女たちの会話から察するに、老帝の容態は依然思わしくなく、皇太子四季への譲位が早々に行われるかもしれないとのことだった。
 皇祇を匿ったのが月詠であり、その手足を雪瀬だとする玉津の推論に基づけば、月詠が病床につき、雪瀬を邸宅に閉じ込めた時点で、憂いは断ったと言えよう。処遇については、四季皇子即位のあとに考えればよい。
 ――漱たちは無事真砂と接触し、榊にたどりつけただろうか。
 それが気がかりだった。
 
「よろしいですか」

 襖の外から声をかけられ、雪瀬は顔を上げた。
 入ってきたのは菜子という、まだ少女といってよい年頃の下女である。言葉を交わさぬようにと主からきつく言われているのか、いつも不自然に俯き、給仕をしているので覚えてしまった。少し危うげな少女の手つきを何とはなしに眺めていると、はじめて菜子のほうから口を開いた。

「いつも残さず食されるのですね」
「……ああ」

 もったいないからね、と答えて、運ばれた茶を啜る。まだ熱のこもったそれに息を吹きかける雪瀬を菜子は不可解そうに見つめた。子どもが目の前のものをひとかあやかしか探っているような露骨な視線だった。

「ひとつ聞いてよろしいですか」
「何?」
「東の辺地では、ひとの耳を狩るのですか」

 向けられた眼差しの厳しさに、冷や水をかけられた気分になる。それは憎悪と非難に満ちていた。

「玉津さまはよい御主人様です」

 答えないでいると、熱を帯びた口調で菜子が言った。

「早くに親を亡くし、行くあてを失った私を拾い上げ、鬱金さまにお仕えさせてくださった。一度、私が大きな失敗をしてしまったときも、お許しになり、こうして今もお仕え続けさせてくださっている。情深き方です。なのに、御主人様の左耳を奪ったのはあなただって、鬱金さまから聞きました。東の者は皆蛮族だからって。そうなのですか。あなたはとても礼儀正しいひとだけれど、そうなのですか」

 返答によってはゆるさぬ、という顔を菜子はしている。
 雪瀬は意外にも、そこに数年前の自分を重ね見た。つまり、兄を侮辱する玉津を見上げた自分であり、月詠を見上げた自分である。ああ本当にゆるさぬ、という顔をしているな、と呆れ混じりに思った。

「鬱金さまとやらの言ったことに嘘はない。ただ、東にそういう風習はないよ」

 話をしまいにするつもりで空にした茶碗を返すと、菜子はかっと頬を紅潮させて急須の中の湯を吹っかけた。とっさによけたが、腕のあたりにはかかってしまう。熱さに顔をしかめると、菜子は自分のしたことに驚いた風な顔をして、逃げるようにきびすを返した。遠のく足音を聞きながら、湯のかかった袖をまくると、幸い火傷には至らないようだった。息をついて、雪瀬は静かに時を待つ。






 榊、という商人を捕まえるには少々骨が折れた。
 漱たちにはもとより縁の薄い土地である。その上、あまり自由に動けない身の上ときたため途方に暮れたが、結局は雪瀬が食客に迎えていた珍妙な両人が捕まえてきた。

「湊で船を探していたところを捕まえました。危なかったですよ」

 捕まえるとき、ちょっとした乱闘になったらしい。榊という商人の目元には大きな青痣ができていた。縛られた男を引き立てる少女はしかし、どこを怪我したという風でもなく、肩に垂れた銀のおさげを煩わしげに払いやる。

「それで報酬はいくらくらいもらえるんですかね。百川」
「沙羅さん」

 報酬も何もこの一年ほどあなた方の食費、旅費、滞在費、その他もろもろをお支払したのはこちらなのですけど、と言いたいのをこらえて、「雪瀬さまが戻られたら聞いておきます」と漱は答えた。半ば行き倒れの体で、葛ヶ原に流れ着いた沙羅と空蝉を拾ったのは雪瀬である。漱はじめ、周囲の者はあのような不審な者を、とさんざん止めたはずだが、いつの間にか屋敷に招き入れていた。もう知りません、勝手にしてください、と漱は思っている。

「湊は西輪でしたっけ?」
「ええ。最初は霧井のほうへ行ったのですけど、絵島……玉津配下の役人がそこらじゅうを張っていましてね。それで、西輪のほうまで足を伸ばしたら、この男がいたんです」

 都から出るならば、霧井がもっとも近く、また船も多く出ている。そこを玉津卿が押さえているらしいという話は初耳だったが、沙羅が作り話をする必要もないからそうなのだろう。西輪は、山岳地帯からの木材を都へ運ぶことが主の小さな船着場であった。

「何故、西輪へ?」

 漱の母筋の親戚邸だった。橘の屋敷周りは玉津卿が未だに押さえているため、沙羅にその旨を伝え、親戚邸まで赴いた。
 注意深く榊を見定めながら、漱は縁にかがみこむ。榊はもともと材木の買い付けをしていたのを、玉津卿の支援で大商人にまで成り上がったと聞く。近頃は異国の品も扱っており、そのひとつが件の阿芙蓉だ。

「霧井を避けたということは、玉津卿と仲たがいでもされたんでしょうか?」
「貴様には関係ない。俺をどうする気だ」

 睨み返す榊の視線には凄みがある。なるほど、成り上がりだけあって肝は据わっているらしい。漱は微笑み、「いくつか確認したいことがあるだけですよ」と懐にしまっていた売帳を取り出した。



 翌日、漱たち葛ヶ原一行は琵琶師のもとへ向かった。
 表向きは、葛ヶ原領主にかけられた疑いを晴らす術はないかとの相談である。琵琶師はかつて助命嘆願に一筆添えた縁もあり、葛ヶ原と親しい。これくらいは玉津派にも予想の範疇だったらしく、さしたる反応は見られなかった。

「文の件じゃな」

 漱らを迎えるなり、琵琶師は神妙な面持ちをして言った。
 ええ、とうなずけば、奥へ通される。最奥の間の前で止まり、琵琶師が中へうかがいを立てた。すでに客人は着いているらしい。微かな返事が返る。そっと襖を引きやれば、夕風の通る室内に灯台の明かりがひとつ灯っていた。御簾は架けられていない。一段高くなった畳に足を崩して座し、琵琶を爪弾いていた男を認め、漱は人知れず詰めていた息を吐いた。無論、この人物こそが琵琶師づてに取次ぎを頼んだ客人であるのだが、実際に目の前にすると、漱などの小心者は嫌な汗が伝ってきてしまう。

「久しいな。百川漱」
「殿下も、お変わりなきようで何よりです」

 顎を引く気配があったので、顔を上げる。側付きの稲城と、ちょうど琵琶師に琵琶を取り上げた皇子が残念そうに肩をすくめているところだった。朱鷺皇子そのひとである。

「して? この琵琶師づてに文をもらったぞ。おれに何用かな?」
「……話をしても?」

 問うて、暗に人払いの確認をする。漱は朱鷺に皇祇の処遇をうかがうつもりである。琵琶師を同席させてよいかは、預け主である朱鷺の判じるところであろう。

「よい」

 なんでもないことのように朱鷺はうなずいた。
 射し入る残照を受けて蜜色に染まる髪は、今は深緑の組紐で緩やかに束ねられている。皇祇もそうであったが、本当に色素というものがない髪色である。神々しい、とたとえる人間もいるだろう。確かに、目の前に座す漱とそう歳も変わらぬ男には、どこか浮世を離れた気配があった。

「橘雪瀬が玉津卿に拘束されたのはご存じですね」
「らしいな。呪殺がどうのと聞いたが」
「結論から申し上げましょう。そのために、あなたさまに本来お返しするべきものがお返しできなくなっている。わたしは、そのことをお伝えしに参ったのです」
「皇祇か?」
「ええ」

 さりげなく琵琶師のほうを探ると、もともと丸い目をさらに丸くしていた。皇祇の件はこの老爺もあずかり知らないことだったらしい。

「もとより、お約束の期限を目処に迎えが寄越されるものとお待ちしておりましたが、殿下におかれましては何やら不測の事態が生じたご様子。一向に音沙汰のないことを案じながらも、引き続きお預かりしておりましたが、ここに至り橘の屋敷周りに不穏な動きありとの情報を得ました。いち早く察知した橘雪瀬が皇子に腕利きの護衛をつけて逃がし、玉津卿の追及は免れましたが、今、その正確な行方をつかんでいるのは遣い鳥である扇だけです。そして扇は橘雪瀬以外の人間とは口を利きません」

 ――嘘っぱちだ。扇は口うるさいくらいに喋る鳥である。
 ちなみに皇祇もまだ、見つかっていない。今都でもっとも危ない綱渡りをしているのはある意味橘雪瀬だろう。

「つまり、皇祇を取り戻すには葛ヶ原領主が必要であると」
「ええ。この難題をどう解決すればよいやら、朱鷺殿下のご意見をうかがいたく馳せ参じた次第です」
「ふうむ」

 一言漏らしたきり、朱鷺は口を閉ざした。
 隣に座す稲城がちらちらと皇子の横顔をうかがっている。

「おまえの言に従えば、おれは葛ヶ原領主を助けねばならぬということになるな」
「従うなどと。滅相もありません」
「ふふん。おれが否といえば、皇祇は帰らんのだろう。それは困る、ということも見越しておる。皇子を脅すとは、不遜な輩め」
「殿下の仰られる意味がよく」
「それで? 皇祇は、見つかりそうか」

 不意に向けられた問いに、冷や汗が伝う。見抜かれていた。

「……遅かれ早かれ、今のままでは玉津卿の子飼いの者が先に殿下を見つけます。それはなんとしても阻止しなくてはなりません」
「そなたならばそれができると?」
「いいえ。橘雪瀬なら、できます」
「兄のような胆力が弟にもあるものかな」
「あなたさまに彼を勧めた者ならば、ご存じじゃあないですか?」

 漱の言に稲城は驚いたような顔をしたが、朱鷺は顔色ひとつ変えなかった。ただ翠の眸をほんのり眇めて、漱を見つめ返しただけだ。

「皇祇の迎えが遅くなったことは謝ろう。言い訳をするわけでもないが、おれにもあれこれと迷いごとが多かったのだ。ついでと言ってはなんだが、葛ヶ原領主にはいまひとつ、面倒ごとを頼みたい」
「面倒ごとですか?」
「うむ。――時に百川漱。そなた、見舞いには普段、どんなものを持ってゆく?」
「はい?」
 
 この皇子、脈絡なくものを言うのが癖らしい。どこからどう繋がってそのような話になったのかと漱は考えあぐねたが、朱鷺のほうは年端のゆかぬ幼子のような顔をして返事を待っている。

「……この時期なら、瓜でしょうか」
「瓜か。なるほど、それにしよう。百川。おまえ、この一件が済んだらおれのもとで働かんか。金子は弾むぞ」

 それこそ瓜を買うような気安さで朱鷺は持ちかけた。目を見れば、わりに真剣である。肩をすくめ、「お戯れを」と漱は一笑した。



 明けて翌朝。朱鷺は幾人かの側近を連れ、突如として白浪殿の四季を見舞った。その際玉津卿は屋敷に戻っており不在だったが、厳しく人払いをしていた四季の寝所に朱鷺が現れたとあって、玉津配下の官人らは慌てに慌てた。何とか朱鷺を押しとどめようと駆けつけたが、時すでに遅し。寝所から出てきた朱鷺が側付きの男に命じ、御殿医を呼ばせているところだった。
 さらにその足で皇子は帝を見舞った。
 帝の寝所に侍る御殿医らを外に出し、側近だけを置いて、また入口に関しては自身の兵で固める。朱鷺が寝所にいた時間はそう長くはなかった。何事ぞ、と他の者らが集まる頃には、やはりまた寝所より出て、帝よりの命であるとして、一言告げた。これを受けた皇子の小姓が都察院へと早馬を駆る。渡された文を開いて、都察院長官嵯峨は細い眉間をにわかに寄せると、何かを書きつけた。それを控えていた百川漱が受け取り、すでに集った葛ヶ原の武人らに掲げて、是、と言った。
 玉津卿捕縛の宣旨は、かくして平栄四年文月末に発せられた。