五章、乞巧奠



 十四、


「おまえが、桜か?」

 ましろの出で立ちの中で翠の眸とともに唯一の色彩といってよい花色の唇が微かに動く。桜とそう歳も変わらぬ少年だ。声にはまだ子どもらしいいとけなさがあり、余計、かの皇女を彷彿とさせる。

「蝶……?」
「違う。おれは皇祇だ」

 その名には覚えがあった。
 第十九皇子皇祇。蝶の探している失踪した双子の弟皇子だ。辛くも難を逃れ、朱鷺殿下により保護された皇祇は、水無月会議の始まる前、葛ヶ原領主橘雪瀬に預けられた。その場には桜も立ち会っていたが、あのときは夜で、提灯の明かりにほのかに浮かび上がる皇子を垣間見ただけであったから、面影はあまり定かでない。皇祇もそれは同じだろう。

「それで、おまえは桜なのか。ちがうのか?」
「ちがわない」

 答えると、とたんに皇祇は顔色を変えた。それまで必死に抑えていたものがこぼれ出したようなそんな顔だった。

「丞相邸の桜なら、こいつを助けてくれるって聞いた。怪我してるんだ、血もたくさん出てる。ぜんぶ、おれのせいなんだ。なんでもするから、こいつを助けて」

 涙ながらの懇願に気圧され、桜は皇祇が必死に支えている男の腕に触れる。
 無名であった。呼気は荒く、目は虚ろで焦点が合っているかもおぼろげだ。それでも頑なに刀の柄に添えられた手には、乾いた血が付着している。怪我をしているのか。確かめるように触れた腕がぴくりと動く。今にも抜刀しかねない様子の無名の腕をさすって、「だいじょうぶ」と桜は言った。

「わたしだから。わかる? 力を抜いて」

 そうしてさするのを繰り返すと、徐々に鋭い殺気が消えた。一緒に意識の糸も切れてしまったらしい、男の身体が崩れかかり、桜と皇祇で苦心して支える。
 屋敷内には、病身とはいえ月詠が眠っている。梅婆の目もあり、中へ運ぶのは得策でないように思えた。ひとまず、普段使われることのない納屋に移して、湯を沸かす。布をかき集め、消毒用の酒や血止めの薬といったものを運んだ。医術の心得など、無論桜にはなかったが、かつて瀬々木医師の後ろについて、手伝いをしたことならあった。桜は邪魔な袖をくくると、男の血で張り付いた衣を剥がす。肉をのぞかせた刀傷。ああ、と泣き出しそうな気分になる。とても、手伝いをしたことがあるだけの人間が処置できる傷には見えなかった。

「桜。大丈夫だよな? こいつ死なないよな?」

 思わず手を止めた桜に皇祇が尋ねる。

「死なない」

 いろんなものを振り切る気持ちで、桜は言った。
 医者を呼ばなければならない。けれど、まずは止血が必要だった。血の未だ流れる箇所に布を押し当てる。みるみる赤く染まっていくそれに眉間を寄せつつ、桜は心当たりの医者を探った。何かと生傷の絶えない十人衆のおかげで、すぐにひとつふたつの顔が思い浮かんだが、彼らの口がどれほど固いかははかりかねた。

「……サクラ?」

 背後から微かに立った音に、桜は肩を跳ね上げる。
 納屋の引き戸に手をかけ、不思議そうに目を眇めている少女は月詠配下十人衆の、白藤(しらふじ)である。中の惨状にもおかっぱの髪を揺らして小首を傾げただけで、「ハラ、ヘッタ。サクラ」と別のことを訴えた。

「しらふじ」
「ナニ?」

 尋ねた少女の腕をつかむ。はたり、と瞬きをした白藤に、「手当の仕方を教えてほしいの」と桜は乞うた。白藤や伊南には、少なからず医術の心得がある。軽度の傷なら、自身で処置しているのを幾度か目にしてきた。
 白藤は首を傾げ、横たわる無名のほうを無為に見つめた。

「そのオトコをたすけたいの?」
「うん」
「でも、月詠様にイイと言われていないことは、白藤はデキナイ」
「何もしなくていい。ただ私に、教えてほしいの」

 おねがい、と言い募ると、白藤はしばらくこちらをうかがった末、「サワラナイデ」といつの間にか片腕を握り締めていた皇祇に向かって言った。皇祇が答える前にすばやく腕を振りほどいて、無名のかたわらにかがむ。白藤の透け入るような白い指先が無名の汗ばんだ首筋や口腔、胸といったところに触れた。それから「サクラ」と、感情を宿さない紫紺の眸が桜を呼ぶ。





 出血こそ多かったものの、内臓のたぐいは傷ついていなかったらしい。
 ――死ぬことはないと思う。
 ざっと無名の容態を確認した白藤は端的な口調でそう言った。
 ところどころ助けられながら傷口を処置し、包帯を結んだところで緊張の糸が途切れた。ほんの一寸、眠っていたらしい。再び目を開いたときにはすでに白藤はいなくなっていた。きょとりとあたりを見回すと、かたわらでは皇祇が膝を抱えて眠っている。無名の顔色に血の気が戻っていることに安堵し、額にそっと触れた。熱はまだ完全には引いていないようだ。
 水売りから氷をひとかけ買おうと考え、納屋の外に出る。一度雨が降ったのか、足元は濡れ、軒先にはにわかに水溜りができていた。
 汚れた水を捨てるついでに、井戸端で身体を洗い、血と汗とを吸った小袖を着替える。月詠はまだ眠っているようだ。細く開いた障子越しに確認すると、玄関の水甕から幾許かの銭を取り、それから思い直して、再び裏庭のほうへ回った。皇祇と無名がやってきた裏木戸のあたりを注意深く見つめる。幸いにも雨が降り、血と臭気とは洗い流されたらしい。足にじゃれついてきた老犬の首を撫で、納屋のあたりを守るように言った。

 夕の市が引き上げられる前に、物々を買い込む。昨晩の汁物の残りに米と卵、庭から摘んだ菜っ葉を投げ込んで雑炊を作ると、三つぶんの椀を持って納屋に向かった。

「桜! どこへ行っていたおまえ!」

 鍵を開けるや、怒声が飛んだ。飛びついてきた皇祇の頬が紅潮し、翠の目にうっすら涙が滲んでいるのに気付いて、桜は瞬きをする。

「ごめん。眠っていたから」
「なぜ鍵をかけるんだ」
「梅婆に見つかるとこまる」
「うめばあ?」
「うん。おなかすいた?」

 言われてはじめて、桜が抱えた盆に載っている椀に目を留めたらしい。
 
「すいた!」

 大きく首を振って、いいのか、食べてよいのか、とお預けを食らった子犬のような目で見つめてくる。笑みが綻んでしまい、持っていた椀を渡すと、否や中身をかきこみ始めた。しげしげと見つめる桜を、口端に米粒をくっつけた皇祇が睨む。

「……なんだよ」
「ううん」
「――コレ、おいしい。おかわり」

 返された椀によそってやる雑炊は用意してなかったが、あまりの食べっぷりが微笑ましく、桜は自分のぶんも渡してやった。再び一心に頬張る皇祇のかたわらに蜜蝋を置き、火を灯す。男の額に触れると、それまで閉じられていた瞼が微かに震えた。

「さくら……か?」
「うん。無名。へいき?」

 尋ねるそばから身を起こそうとするので、「まだ動かないで」と桜は男の肩を押し返した。

「この包帯、お前か」
「痛む? ごはんは食べれる?」
「ここ、どこだ?」
「納屋だよ。丞相邸の」
「丞相だと?」

 無名はあからさまに顔を歪めて、舌打ちした。押さえていた桜の手を払って身を起こす。

「面倒をかけて悪かったな。皇祇、発つぞ」
「なっ、待てよ! おまえが言ったんだろ、どこへ逃げればいいって訊いたら、桜って。道だっておまえが言ったんだろうが」
「うわ言だ。いちいち真に受けやがって。丞相など信用できるか」
「おまえをここまで連れて来てやったのはこのおれ様だぞ!」
「うるせぇ。餓鬼は黙ってろ」
「無名」

 寝乱れた小袖を結んでいる腕を桜はつかんだ。衣越しに触れた男の膚はまだ熱い。止血はしたが、数日は安静にさせておかねばすぐにまた破れて次は取り返しのつかないことになると白藤に言われたばかりだ。待って、と取りすがるものの、無名は乱暴にそれを払い、皇祇に刀を持ってくるよう言う。桜は後ろ手に納屋の引き戸をつかんだ。見下ろす無名の目がとたん、剣呑さを帯びる。

「そこを通せ。桜」
「通さない」
「桜」
「何があったのかを教えて。まだ、熱も引いていない。ここを通すわけにはゆかない」
「聞いたところで、お前に何ができる?」
「わからない。だから、それを考えるために教えてほしいの」

 殺気立つ男はまるで手負いの獣だ。けれど、桜だって引くわけにはいかない。容赦ない視線を寄越す男を、唇を固く引き結んで睥睨すると、ふと男の纏った空気が緩んだ。皇祇、と呆れた様子で呼ぶ。男に言われて刀を取りに行ったはずの皇祇は、重そうなそれを両腕に抱え、桜の隣に立っていた。

「だって、こいつの言うとおりだ! おまえ、また倒れるつもりか。おれ様を守れなくなるだろう大迷惑だ!」
 
 びしり、と音が鳴りそうな勢いで男の鼻先に刀鞘を突き付けると、皇祇は桜を振り返った。

「言っただろう、おれのせいだって。こいつは、おれを守ろうとして刀を受けた。そのときに返り討ちにはしたから、相手はたぶん死んだ。だけど、まだ追われている。たぶん市松の仲間だ」
「いちまつ?」

 確か皇祇の失踪時、衣川で死体が上がった元護衛がその名だった。首を傾げた桜に小さく息をつき、

「市松は玉津の送り込んだ刺客だ」

 無名は納屋に積まれた藁の上に腰を下ろして言った。
 どうやら話をする気になったらしい。

「理由は端折る。玉津はそこの皇祇を野盗に襲われたと見せかけて消すために市松一派を送り、だが、これを予見した朱鷺配下の者によって逆に市松一派が斬られた。あとはお前も知ってのとおり。皇祇の身はしばらく橘に預けられていたが、事態が変わった。雪瀬が帝呪詛の疑ありとして、玉津に拘束されたためだ」
「拘束?」

 それは桜も初めて聞く話だった。
 眉をひそめると、「仔細は俺もわからん」と無名は首を振った。

「ここへたどりつくさなかに聞いたはなしだ。雪瀬は、屋敷周りに玉津方の子飼いが増えていることを警戒していた。見張りの隙をついて、俺たちを屋敷から出したのは万一を考えてだろう。都を出て、霧井湊のあたりでしばらく様子を見るつもりだったが……、関門にすでに玉津方が先回りしていた。追っ手は消したが、このざまだ。戻ろうにも、今度は当の雪瀬が捕まったときている」

 自嘲気味に口端を上げ、無名は息をついた。話を順々に整理する。つまり、玉津方に阻まれ、無名と皇祇は都を出られず、彼らを庇護するはずの雪瀬もまた玉津方に拘束されたということらしい。

「紫陽花は?」

 あの頭のよいひとが黙って見ているようには思えない。尋ねると、「次の策を講じているはずだ」と無名は顎を引いた。

「身をひそめていれば、必ずあちらからの遣いが寄越されるはずだ」
「わかった」

 桜はうなずき、無名のかたわらにかがんだ。

「私が明日、紫陽花のところに行く」
「……おまえが?」
「私が“遣い”になるよ。だいじょうぶ。紫陽花と私は、“なかよし”なだけ。友だちを心配して、訪ねるなら変じゃない」

 実際は仲良しでもなんでもなかったが、そうしておいたほうが都合がよいだろう。だから、と桜は運んできた椀を取り上げて無名の膝元に載せた。

「無名はごはん食べて。それから、休んで」

 有無を言わさぬつもりで睨めつけると、男は根負けした様子で「わかった」と小さく息を吐いた。



 空になった椀を片付けると、見張りを老犬に任せ、桜は別のひとつに雑炊をよそった。白藤が戻ってきたときのために余りは多く残しておく。煎じ薬と白湯、それから切り分けた桃。障子戸を引くと、この屋敷のあるじである男は先ほどうかがい見たときと寸分たがわぬ姿で眠っていた。熱を籠もらせているはずの身体は寝乱れひとつない。
 額のぬるんだ手巾を取り去り、首筋に指を這わせた。指先に小さな脈動を感じて、ああ、死んではいないのだな、と安堵ともつかぬ心地に駆られる。
 死んでしまえ、と思わない自分が不思議でもあった。
 水盥で手巾をさらい、固く絞ったそれを額に置く。はずみにさらりと肩から落ちた髪房を、思わぬ手が引いた。

「血の香がするな」

 睫毛を震わせ、目を落とせば、薄く開いた双眸が桜を見つめていた。

「月の穢れには、ついぞ縁のなかろうお前が。納屋の鼠か」

 ――何故。納屋とまで言い当てられたことに動揺が走る。
 起きていたのか。あるいは梅婆か、白藤が話したのか。
 こぼれそうになる吐息をひそめて、桜は男を見つめ返した。
 悟られるわけにはゆかなかった。何もかも。感づかせるわけにはゆかなかった。無名は恩人だ。そして、皇祇は大事なともだちの弟だ。どちらも、奪われるわけにはゆかない。
 人形めいた冷ややかさを宿した眸がふいに、緩む。髪房をとらえていた指先が頬に触れ、こめかみに挿し入り。やわやわと。髪に触れた。

「泣き出しそうな顔をしている。俺のせいか」

 その声は優しかった。この上なく大事なものを慈しむかのような言い方だった。ちがうのだと気付く。男は桜にこのように触れたりしない。このような声で話したりなどしない。この男が視ているのは、鵺だ。まちがえている。混濁している。けれど。けれど、それなのに、何故。
 わたしが、なきそうだなんてわかるの。
 
「れい」

 甘えたい。すべて吐き出してゆだねてしまいたい。
 それは嵐のような誘惑だった。
 わたしはとても浅ましいおんななのだと桜は思った。

「……気のせいだとおもう」

 だから途方に暮れ、泡雪のように苦微笑った。