五章、乞巧奠



 十三、


「承服しかねますね」

 沈黙を初めに破ったのは漱であった。

「捕縛や調べといったものは本来、都察院のみに許された権限のはず。失礼ですが、都察院長官嵯峨卿の許しは得てのことですか」

 あからさまな疑いの眼差しを向けて尋ねる。古き律令にのっとれば、この国で私人間の制裁は禁じられており、唯一、都察院長官の命をもってのみ捕縛や拘束といったことが許される。玉津卿の命は越権行為にあたらないのかと漱は指摘したのだ。

「そもそも、呪殺の疑いとはなんです? それにうちの領主が関わっていると言った者がいるんですか。あるいは何か確固たる証拠があるとでも?」
「貴殿はどうやら思い違いをされているらしい。帝はこのことについて葛ヶ原領主から話を聞きたいとのみ仰せじゃ。ご自身は病床の御身ゆえ、中務卿である玉津様に代わりを命じたまでのこと」
「捕縛と申されたのは、わたしの聞き違いでしたか?」
「よいか、これは帝の命じゃ」

 髭面の官人は繰り返した。

「やましきことなくば、応じるが身のためであろう。それとも、領主殿。貴殿には何か人目に触れてはならぬものでもございますかな」
「そのような」

 答えながら、雪瀬はふと別のことに思い至った。
 皇祇である。朱鷺殿下から密かに預かった皇子は、未だ表では失踪の扱いになっている。呪殺はさておき、この屋敷から見つかって言い訳に困るのは、むしろ皇祇のほうだろう。よもや嗅ぎつけられたか。官人の横面に一瞥をやり、雪瀬は眸を眇めた。

「隠し立てするところなどございませんが、お疑いならどうぞ。屋敷をお調べになっていただいて、構いません」
「雪瀬様」
「おまえたちも突っ立っていないで、お客人を案内するんだ」

 何がしか挟みかける漱らを制して、雪瀬は言った。

「わたしは着替えて参りましょう。卿の御前に、このような姿でおうかがいするわけにもゆかないし」

 紫陽花、と雪瀬は許嫁である女を呼び寄せる。髭面の官人は口出しこそしなかったが、連れてきた兵に屋敷内をあらためるよう言い、こちらにも見張りを幾許かつけてきた。まるで罪人のような扱いである。
 足音をことさら大きく響かせて、雪瀬は自室の襖を開いた。
 中にすでに真砂の姿はない。売帳も見当たらなかった。すばやくそれらを確認し、紫陽花に衣一式を持ってくるように言う。雪瀬の都での身の回りの世話をしているのは千鳥であったが、紫陽花はさして手間取る様子でもなく衣と上着を持ってきた。兵が退く気配はない。夜着の紐を解いて、雪瀬は替えの単に袖を通した。袴の着付けを手伝っていた紫陽花へ視線を投げると、ひとつ目配せをしたのち、肩にかかる亜麻の髪房を引きやる。淡い微笑を唇に載せた。

「そう不安そうな顔をなさいますな」
「……不安にもなりましょう」

 紫の眸に涙を湛えて訴えた許嫁へ困った風に息をつき、雪瀬は腕の中へと彼女を招いた。「すぐに疑いも晴れて、戻れるだろうから」と亜麻の髪の降りかかった背を引き寄せ、耳朶に唇を寄せる。

「――――、戻ったら、俺の奥さんになってくれるんだものね」
「ええ、必ず」

 という答えに満足して、雪瀬は紫陽花を離した。居心地が悪そうに視線をそらしていた兵どもを振り返り、「さて、参りましょうか」と晴れやかな表情をして促す。



 侍従はひとり、小姓だけが伴うことを許されたが、脇は玉津卿の私兵によって固められた。無論、刀を佩くこともできない。玉津卿の私邸に運ばれた雪瀬は、紙燭を持った家人に案内され、客間らしき一室へ通された。
 部屋の上座には脇息と茵だけが置いてあり、ひとはいない。
 雪瀬は下座に腰を下ろした。しばし待つように言って家人が襖を閉める。静寂に占められた室内で、雪瀬はかつてもこのようにかどわかされるようにして玉津卿の前に連れてこられたことがあったなと苦く笑った。あのとき自分の両手首は縛られ、目の前には刀を持った男が三人いた。仮にも官人を遣わせてきた以上、よもや同じように襲われるとまでは思わないが、すんなり帰してくれるわけでもなさそうだ。
 襖の開かれる音に、雪瀬は背を正して叩頭した。

「面を上げられよ。かような夜分に呼び立てして済まなかったの。もう早い時分といったほうがよいやもしれんが」

 外は確かに、朝ぼらけの乳白色に染まりつつある。雪瀬は薄くわらい、「いいえ」と上座に腰を据えた玉津卿を仰いだ。左耳をすっぽり覆う例の頭巾に、夏らしい黄菊の狩衣を纏っている。公の礼装ではない、あくまでもくつろいだ私服といった具合だ。間を見計らい、卿の小姓らしき少年が茶碗を前に置いた。

「ごゆるりとなされよ。兵らは領主殿に無礼を働かなかったかの」
「ええ、それは丁重にしていただきました」

 玉津が茶碗を開いたので、雪瀬もまた膝を崩してそれを引き寄せた。さてどのように振る舞おう、たとえば相手の虚をつき仕掛けてみるかとも考えたが、引っ張ってこられたからには一度卿に従ってみるかと思い直して、茶を啜る。案の定、一向に言い立てぬこちらに痺れを切らしたか、玉津のほうが先に口を開いた。

「驚いただろう。だが、そう畏れずともよい。そなたが帝の呪殺を企てたと進言する不埒者がおったゆえ、確かめよと帝に仰せつかったまでのことじゃ」
「とんでもないことをのたまう方がいらっしゃる」

 雪瀬はせいぜい神妙そうに言った。

「よもや、わたしの帝への忠義をお疑いですか。卿をはじめとした皆様のご助力があり、こうして生きながらえているものと心得、毎朝西方への三礼を欠かさぬわたしでありますのに、いったいどこのどなたが申されたのでしょう」
「そなたの兄をはじめ最長老を処したは帝であるゆえな。無論致し方なかったことじゃ。だが、それらを取り上げてそなたの二心を疑う輩もおる。そのような者らがこう申すのよ」

 玉津卿は唇を舐め、垂れた顎を揺らして笑った。

「葛ヶ原領主は、先の乞巧奠にても何やら不可解な動きがあったご様子。よもやかの丞相に何事か吹き込まれたのではあるまいかと」
「と申しますと?」
「かの丞相は、あやかしよ」

 開いた檜扇を口元にあて、卿は嘯いた。

「何の出自も持たぬ身の上にありながら、占術師を名乗って帝のそばにはべり、甘言を弄して挙句丞相の地位を手に入れた。おぬしの兄を殺め、右手を傷つけたのまた、丞相であろ?」
「かもしれませんね」
「丞相につくは、身の破滅ぞ領主殿」

 雪瀬は瞬きをして、玉津卿に先を促した。
 気をよくしたのか、卿は檜扇越しに忍び笑いを寄越す。

「私であるなら、そなたにかかった嫌疑を晴らし、さらには褒美を幾許かやらんでもない」
「……何をすればよいのですか?」
「何のことはない、ただちぃと聞かせてくれればよいのだ。そなた、丞相から何やら預かり物をしておるのではあるまいか。のう?」
「預かりもの、といいますと」
「月石の懐刀の行方を、そなた知っておろう」
 
 成程、と雪瀬はようやく得心した。
 失踪した皇子皇祇の行方。半年に及ぶ捜索の末、見つかったものといえば皇子が腰に差していた月石の懐刀の鞘のみ。何者かが玉津卿方の襲撃を察知し、隠したと考えるのもおかしくはない。雪瀬にあたりをつけた玉津卿の情報網には正直舌を巻いたが、決定的に違えているのは依頼主である。
 玉津卿は朱鷺皇子ではなく、月詠が皇祇皇子を雪瀬に預けたと考えている。理由は政敵である玉津卿を追い落とすため。玉津は四季皇太子を次期帝に据えるつもりであると聞くから、月詠が皇祇皇子を帝に推すと考えているのかもしれなかった。
 そこまで考えて、急に笑いがこみ上げてきた。
 朱鷺殿下に葛ヶ原領主橘雪瀬へ皇祇を預けるよう進言した者へ手放しの賞賛を送りたくなる。確かに、これは誰にも気づかれまい。たとえ、皇祇の件が露見したとしても。雪瀬と関わりのまるでない朱鷺殿下に累が及ぶことはない。

『皇祇を匿い、これから水無月会議の終わるまでの十日間守り抜いて欲しい』
『報酬は、そなたが望むものを望むだけ』

 なら、お守りしましょう。誠心誠意、命を賭けて。
 ――こんなところで足すくわれているわけにはゆかないんだよ。

「月石の懐刀の行方ですか」
「そうじゃ。覚えがあろ?」
「さて――」

 こと、と雪瀬は空の茶碗を置いた。

「なんのことやら。俺にはさっぱりわからないな」

 上座を見据えれば、針のごとく細まった双眸と視線が絡む。
 ほどけるようにわらい、雪瀬はそのまま一笑に付した。

『橘真砂を探して』
『ええ、必ず』
 
 耳朶にそっとささめいて、離れた。
 紫陽花は雪瀬の意図を正しく汲んで、動くはずである。







 ――さて、お前に問おう桜。生き残った兄が憎んだのはいったい何であったのだろうか。

 低く囁く声が未だに耳奥に残っている。
 丞相邸であった。まるで共倒れでもするように藍と時同じくして褥に臥してしまった男を看病するのは、不承不承桜の役割となった。藍のほうは伊南や白藤が看ていて、手が離せなかったからだ。
 とはいえ、月詠という男はまるで死人のように眠り続けるだけで、うわ言ひとつ立てはしない。頬は冷たかったが、額はぎくりとするほど熱く、それだけが不思議と男を人間らしく見せていた。水を浸した手ぬぐいを額に載せ、砕いた氷の粒を男に食べさせる。粥すらも受け付けぬ男に業を煮やして、しゃくしゃくと噛み砕いた水果などを飲み込ませてやりもした。
 付き切りの看病は桜をひどく疲弊させた。拾われたばかりの頃、そういえば雪瀬もときどき疲れた風に桜のかたわらで眠っていた、と思い出す。あの注意深いひとはそれでも決して、桜の前で深く眠り込んだりはしなかったのだろうけれど。
 ぎゅっと温めた水を浸した手ぬぐいを絞ると、桜は男の夜着を剥いでうっすら汗の滲んだ肌を拭いていく。腕や肩のあたりは確かに武人らしく引き締まった筋を持っていたけれど、それ以外はずいぶんと痩せていた。夏に入ってからろくにものを食べてなかったのだから当然であるが。
 首筋のあたりや脇下を丁寧に拭いていき、袖をくつろげて、肩のあたりも拭く。そのとき、手ぬぐいが滑ったはずみに焼き潰された腕とは別のところに、小さな古い痣のようなものを見つけて、桜は目を瞬かせた。それはちょうど、自分が持っているものと対を成すような位置に刻まれている。古くなって色褪せた痣にはたった一字が記されていた。今の桜にはたやすく読むことができる。その文字は――

「つ、き」
「わん!」

 衣裾を老犬に強く引かれ、桜は我に返った。何があったのか、いつになく必死なそぶりで桜の衣裾を咥えてどこぞやへ引っ張っていこうとする。待って、犬待って、と首を撫でて落ち着かせると、男の肌を冷やさないように夜着を重ね麻の涼しい夜具をかけた。すでに走り出してしまった老犬の背を追う。
 向かったのは表玄関ではなく、庭にある木戸口のほうだった。朝のしらじらしたさやかな空気を吸い込み、単だけの身を少し震わせた桜は木戸口にもたれかかるようにしてたたずむ長身の影を見つけた。どこか怪我でもしているのか呼吸は荒く、それを小さな少年が支えている。からりと下駄を鳴らす音に気付いた少年が警戒を浮かべた視線を寄越す。真正面からかち合った視線に、桜は目を瞠った。
 ましろの少年。
 それは桜のいっとう大事な友人である皇女と瓜二つの容貌であったからだ。