五章、乞巧奠



 十二、 


 文を書き終える頃には、夜半はとうに過ぎていた。
 明くる朝小姓を琵琶師邸へ遣いに出すことにして、雪瀬は筆を置く。三年前の助命嘆願に先日の乞巧奠と借りばかりが増えてゆくのはよろしくないが、一方であの好々爺であれば必ずやよいように取り計らってくれる、そんな妙な信頼がある。すでに漱は下がっていたので、ひとりで硯を片付け、墨の乾いた文を竹筒に入れた。
 懸念がひとつある。ほかならぬ玉津卿であった。
 玉津卿子飼いの者どもが乞巧奠のあと、屋敷のそばに張り付いていることを雪瀬もまた元隠密の少女を使ってつかんでいた。大方、箏弾き姫の一件が知れたのだろう。

「いかがいたしますか」

 毒を塗り込めた針を襦袢の内側に縫い付けながら問うた千鳥に、放っておけ、と雪瀬は投げやりに言った。裏で体よく蹴散らすこともできる少女である。しかれども、玉津方がこちらを見張ったつもりで構えているならば、都合がよい。いくらかの人間を動かし、早々に手を回しておかねばならぬことが雪瀬にはあった。
 ぱさりと、外で微かな羽ばたきの音がしたのは、ちょうど文机の脇に積まれた山を崩していたさなかだ。気付いた雪瀬が障子戸を引き開けると、白い影が一息に懐へ飛び込んでくる。

「おかえり。早かったね」
「ああ、三日三晩飛び続けたせいで、へとへとだ」

 白い肢体を震わせ、扇は潮のにおいのくゆる翼を閉じた。南海の五條薫衣へこの白鷺を遣いに出したのは、都について間もない先日のことである。ねぎらいに水差しを差し出せば、嘴を突っ込んで咽喉を潤した。

「あちらはどうだった?」
「あいつらしくしたたかにやっているよ。面倒事を持ち込むな、との言伝だ」
「ふふ。元気そうで安心した」

 しかめ面を作って肩をすくめる彼女の横顔が頭によぎり、雪瀬は苦笑する。
 表向きには未だ行方知れずとされる皇祇皇子の御身を預かった際に、その預け主である朱鷺皇子についても方々に手を回して、素性やあらまし、醜聞や噂などよいも悪いもこだわらずかき集めた。半ば巻き込まれるようにして関わることになった一件である。皇祇はもちろんのこと、朱鷺皇子の腹のうちを見定めておく必要が雪瀬にはあった。
 朱鷺皇子は、亡き皇后杜姫の長子にあたり、もとは次の帝として育てられた皇太子である。しかし四年前の南海遠征において、もとより薄弱であった身体をさらに悪くさせ、それを理由に廃嫡が決まって以来は閑職である文樹林に一席を置くのみにとどまっている。四季皇子が立太子したのは直後であり、遠征から廃嫡にかけての一連の流れの裏には外祖父玉津卿の画策があったと当時から噂された。その朱鷺皇子であるが、遠征の際、南海の網代あせびのもとでしばし休養を取っている。ちょうど都では橘颯音の処刑後、捕まった雪瀬たちの詮議が進められており、あせびと淡夫妻は帝の召喚に応じて南海を発ったため、皇子の世話は古参の使用人たちがしていた。あせびの娘、妃(キサ)などはしばしば皇子に遊び相手になってもらっていたという。妃曰く、一度だけ、ついていた手毬が転がり、皇子が逗留する館の奥に迷い込んでしまったことがあった。気配の途絶えた庭。冬ゆえ、さざめく棕櫚の樹すらそぞろ寒い。小さな庵がひとつあり、何ゆえか障子戸が細く開いていたので、中をのぞいてみた。すれば、探していた手毬をぬっと手の上に差し出される。障子戸の奥は薄闇に沈んでおり、そこに立つひとの顔かたちすら定かでないが、ひとつ。毬を差し出したその手は小指が欠けていた。
 小指が欠けていたという。
 雪瀬は扇の報告を聞き終えた。

「……こちらの皆にもよろしくだとよ。そういや、無名の奴がいないな」
「ああ、無名なら今別件で動いてもらってる」

 扇の呟きに、雪瀬は伏していた顔を上げた。

「外の見張りの数が一向に減らない。やぁな予感がするんだよ」
「なら、なおさらあいつを出してしまってよかったのか?」
「自分の身ひとつなら、どうにかいたしますよ」

 無名という男は本来、雪瀬の護衛の任にあたっている。かたわらに立てかけた刀を目で示し、雪瀬は白鷺の首元のあたりを撫でた。つられて灰色の瞼を下ろした白鷺に、「でも心配だから、あちらの様子を見に行ってくれる?」とささめく。ぱちりと目を開いた白鷺は思ったとおり不服げだ。

「おまえな、少しは休ませろ。まったく、どれだけ人使いの荒い……」
「そうだね、やさしいなあ扇さんは」
「こき使いやがって。おい、いいから、おまえはさっさと休め。どうせまた夜を明かすつもりだったんだろう、褥の上で横になって目を瞑らんと、俺はゆかんからな」

 嘴で雪瀬の袖を引き、千鳥が用意したきりになっている褥のほうを盛んに示す。常日頃、文机にかじりついているうちに夜を明かしてしまう雪瀬をいちばん口うるさく諌めるのがそういえばこの白鷺であった。本意ではないものの、しぶしぶ相手の言に従って雪瀬は蜜蝋を消した。それでも離れずかたわらで見張っているので、横たわって目を瞑り、「これでいいの?」と尋ねる。ふふんと満足げな声がした。次に目を開けたとき、白鷺はすでにそこにはおらず、障子越しに微かな羽ばたきの音だけが聞こえた。
 ――おせっかいめ。
 苦いものの混じった悪態をつき、雪瀬は寝返りを打つ。一度横になると、泥濘のごとき睡魔が押し寄せ、身を起こすのも容易でなくなってしまう。諦めて、うとうとと眠りの浅瀬を漂い、雪瀬はふと。風のささめきに呼ばれた気がして、目を開いた。

「あおぎ?」

 今度ははっきり、障子戸の外に何かの気配を感じた。しかし、かの白鷺とは様子が異なる。刀を引き寄せ、雪瀬は障子を隔てた先を眇め見た。
 きしりと湿気でたわんだ床板が軋む。漱や扇、使用人のたぐいならこんな風にわざわざ気配を消して近づいたりはしない。――刹那、切れるような殺気を嗅ぎ取った肩が跳ねるのと、障子戸が蹴り開かれるのは同時だった。雪瀬は鞘を、抜かずに薙いだ。ずん、と重い衝撃が左腕にかかる。片頬を歪めた雪瀬の鞘を弾いて足裏でねじ伏せた侵入者は、仕込んだ小刀を喉元に突き付け、ひひっと笑った。

「領主様の首級を取りましたぜ。この屋敷も存外あっけないねぇ」
「……それはどうかな」

 刀の代わりに男の首元に突き付けたこぶしを開く。握り込んでいたのは、先ほど千鳥が護身用に仕込んだ毒針だった。

「千鳥、よいよ」

 襖越しに声をやれば、無言の抗いが返る。

「千鳥」

 さらに重ねると、鍔鳴りの音とともにようやく気配が去った。ちらりとそちらに目をくれた男も大方を悟ったのか、舌打ちとともに杖をおさめる。細く射す月光を受けてたたずむのは、濃茶の髪に濃茶の眸、そして覚えのある胡散臭い笑みを醸した男であった。

「真砂」
「お久しゅうございますね、雪の字君。いんや? 葛ヶ原領主並びに橘宗家当主サマとでもいうべきか。橘真砂が謹んでお祝い申し上げますよ。ああ、ナンなら今この場で叩頭致しましょうか。熨斗つけてお祝いを献上したほうがよい?」

 わざとらしくのたもうた男に、雪瀬は顔をしかめた。
 四年前、行方知らずとなった男だ。南海に渡った薫衣からすでに、生きているとは聞いていた。聞いていたが、もう会うことはないだろうと、そう思っていた男だった。橘真砂。不在の分家の当主である。

「その様子だと、幽霊じゃないらしい。今さら何をしにきたの?」
「このとおり、足なら生えてますぜ。一本しかねえけど」

 己の下肢をこつんとこぶしで叩き、真砂はわらった。足。深草の袴から伸びたそれは確かにひとの肌とは似ても似つかぬ無骨な木の棒であった。暫時己を忘れて、雪瀬は瞬きをする。

「そんな呆けた顔しなさんなよ。なに、雪瀬クンは俺に死んでてほしかった?」
「……それ、四年前の?」
「たいした話じゃない。雪瀬、俺をね、助けてくれたのは南海のあせびおじさんだから。感謝しといておくんなませ、あのひといいひとなんよほんと。南海にいたのはそれから三年くらいだったっけなぁ、餓鬼の頃に憧れてたでかい船にも乗ったぜ。気が遠くなるくらい果ての海も見た。――まあいいや、そんなこたどうだって。俺は四季皇子の話をしにここに来たんよ、『領主様』」
「四季皇子?」

 少し前、四季皇子と白浪殿を調べろとの投げ文があったことを思い出す。どんな悪戯かと思い、捨てようとすらした文は、そういえば差出人が橘真砂だった。
 
「あの文、本当におまえだったの?」
「裏に、橘真砂って書いたっしょ。頭から疑ってかかるんはおまえの悪い癖だぁね。四季殿下はさ、数年前から花病を患っていたんよ。知ってのとおり、花病は少しずつ身体が腐れていく不治の病だ。昼夜悶え苦しむ皇子を案じた玉津卿が異国から阿芙蓉を密かに取り寄せ与えていたが、あれは痛みはなくなるものの、身体の中身のほうをもっとぼろぼろにする毒でもあるわけ。四季皇子はいまや衰弱しきり、表に姿を現すことはおろか身を起こすこともできなくなった。皇子を帝に立てたい玉津としては、譲位まで是が非でも生き長らえさせたいにちがいなく、一切の口外を禁じた上で隔離した白浪殿に隠して治療をさせていたようだけど、それを桜サンがたまたま見つけてしまったんが、今回の事のはじまり」
「たまたま?」

 雪瀬は眸を眇める。ああ、と真砂は苦笑した。

「違うかもね。四季皇子があすこにいらっしゃるのを、皇子つきの女官をだまくらかして突き止めたのはこの俺。俺の目論みではあとはキミに探ってもらう予定だったのだけど、紫陽花の気まぐれで桜サンが巻き込まれてしまった。四季皇子のお姿を見て、案じた桜サンはすぐに取って返し、キミたちに医者を求める。おまえは驚いただろう。けれど、玉津卿からしたらもっとぶったまげたにちがいない。何せ、自分がひた隠しにしていた秘事を丞相の妾に暴かれそうになったんだから。かくして玉津卿は一計を講じる。それが乞巧奠だ。卿としては箏絃に塗った毒であわよくば桜サンの口を封じ、丞相にも牽制をかけるおつもりだったようだけど、ここで邪魔がまた入る。キミやね。まぁ、最終的には藍ちゃんが倒れてしまう番狂わせがあったせいで、桜サンはぶざまな姿をさらし、さらに帝まで倒れてああいう顛末になってしまったわけだけど」

 そこまで話して、真砂はつとこちらを振り返った。

「時に、雪瀬。ここに、玉津卿が阿芙蓉を取引していた榊という商人の売帳がある。どーお? 買わねえ?」
「売帳?」
「中が白紙ってことはねぇよ。使うも捨てるもすべてはキミ次第。一商人ごときで足がつくほど卿も馬鹿でないと思うけど、そこはキミの腕の見せどころですよ」

 男が冊子を紐解けば、中にはそれらしき売掛が事細かに綴られている。雪瀬は文机に頬杖をつくいつもの姿勢で、差し出された売帳を眺めた。

「ちなみに玉津卿はおまえがあのとき動いたんは月詠サマの指示だと思っているぜ。三年前、丞相月詠に大恩のできたおまえが丞相の犬をやっていると。おわかりだよね、雪瀬。玉津卿は、月詠を排斥したいんよ」
「いくら?」

 男の相変わらずの長口上にはすんとも言わず、雪瀬は売帳の端を摘まんだ。
 真砂は口端を上げる。

「金子なんてつまんねぇもんはいらんよ。路銀くれるイイヒトならいくらでもいるもん俺。だからたとえば、俺が今から訊くことに雪瀬さまが正直に答えてくれるなんてどーお? よい案じゃね?」
「いくつ?」
「じゃあ、ふたつ。おまえにとっても悪くないはなしだと思うんだけども」

 されど、相手は橘真砂である。雪瀬が次頁をめくろうとすると、真砂は薄く笑ってその上に肘をついた。今掲げた条件以外で渡す気はないらしい。中身にそれほどの価値があるのか、あるいはないのか。男の真意もまた定かではなく、いつものようにただの気まぐれを起こしたとも限らない。昔からそうだ。この男は己の手の内を最後まで明かさない。
 ふいに雪瀬はどうとでもよくなって、「それで?」と賽の目を転がしてみた。

「何が訊きたい?」
「さすが我らが領主様。話が早くて助かりますよ」

 白々しく言って、真砂は売帳に載せた肘をのけた。

「さぁて何にしようかね。いざ訊かれると、迷うなぁ。どちらにしようか、ああでもアレも捨てがたいし、ソレももったいないしなぁ」
「何もないのなら、そこの紙だけいただくけれど」
「そう急ぎなさんなよ、せっかちだと禿げますぜ。うーんそうやねえ……」

 彷徨いがちに移ろうた眼差しが、雪瀬を捉える。翳りを帯びた琥珀は爛ときらめくかのようだ。

「決めた。じゃあ、まずはキミが二年前桜サンにお手紙を返さなかった理由を聞かせてもらおうか」

 雪瀬は眉根を寄せた。
 もちろん、と真砂は口を挟む隙を与えず続ける。

「届かなかったとは言わせない。そんなことはありえない。桜サンが字のお勉強をしてはじめて綴ったキミ宛の文は、まごうことなくキミのもとに届いた。キミはたぶんそれを読んで、捨てられないで、今もどこかにしまってあるけれど、紙の一枚も返してはいない。ひとりぼっちで都に置き去りにされた女の子が何かを手繰るように綴った文をさ。わかってて返さない最低なキミの了見をわかりやすく説明してみぃよ」
「……そんなもの」
「覚えてもないって? なら別のことでもいいぜ。おまえ、玉津卿にぶたれそうになった桜サンを庇って、代わりに土下座して詫びたそうじゃねえの。何故? 箏弾き姫を務めるあの子を裏に手回してまで助けたのは、どうしてなんでしょ。ねえ、なんでそれで、おまえあの子に一度も会いに行ってやらんの? ぜんぶ俺にもわかるように、説明してみぃよ『領主様』」

 ぱしん、と売帳を投げ出し、真砂は言った。男の双眸を雪瀬はひどく冷めた面持ちで見やる。うんざりしていた。
 
「あの娘に会う義理が、俺にはない」
「へえ。キミが今そこで領主様やっていられるのは誰のおかげだと思っているん。彼女が」
「彼女が月詠に嘆願したからとでも? 南海に青海、黒海、白海、並びに毬町自治衆、そして琵琶師、彼らが俺の助命をはからったことには感謝しているよ。それで、こうして領主様をやらせてもらっているんだから。けれど、他については俺の与り知らないことだ。彼女が何をして、その結果、どういう目にあったんだとしても。葛ヶ原から逃がしたとき、俺はあの娘に、戻ってくるなとそう言ったんだよ」
「答えになってねぇな」
「以上だよ。次の質問は?」
「ほーう、逃げるわけ。おまえときたら、いっつもそれですな」

 耳たぶをかいて、真砂はかゆらぐ炎へ目をやった。

「彼女は、今もおまえに手を伸ばしている」

 やめろ。

「知ってる? おまえが都にやってきたその日も、水無月会議のさなかも、紫陽花がおまえの横で許嫁をやってるそのときさえも、あの娘はおまえを見つめていたんよ。打ちのめされて、傷ついて、泣きたくてたまらないけどそれもしないで、ずぅっと伸ばすたび振り払われるだけの手を今も差し出してんの」

 あたまが、いたい。
 咽喉が詰まって、息をすることすら満足にはできず、ああ逃げ出したいと。

「欲しいなら、握り返してやればいい」

 逃げ出したくて、逃げ出したくて、たまらないと。

「たやすいことでないの、雪瀬。それでおまえの迷子ちゃんはおしまいだよ」

 やめろ、と。ようよう咽喉からひねり出せたのはその一言きりだった。
 きっと嘲笑っているにちがいない。この男はぶざまな己を見て、いつもの、追いつめた虫をいたぶるような顔をしてにやにやとわらっているにちがいない。そう思って視線を上げたのに、見つめ返す男の眼差しは不思議な静謐を湛えており。雪瀬は。雪瀬は、まるでどこかへ迷い込んだ幼子のようにくしゃりと顔を歪めて、逃げ出したくなる。こわかった。だれかにおもわれているだとか、いのられているだとかに、気付いてしまうことがとても。
 そのようなもの、じぶんにはふさわしくない。
 だって、俺はあのむすめをおかしてすてたのだ。

「さっきのやつさ、代わりにあててやろうか雪瀬」
「……うるさい」
「おまえはね、彼女をあいしていて。あいしていて、あいしていて、くるおしいくらいにあいしすぎていて。怯えている。向き合うことができないでいる。卑怯な臆病者なん――」
「うるさい!」
 
 風が爆ぜ、障子戸が大仰に揺れた。荒く息をつく。息を継いで、整えようとして、そうであるのにどうにもならなくて、とまらなくなる。なんで。なぜ。この男に、わかるわけがない。わかるわけがない、なにひとつ。わかるわけがないんだ。幼子が駄々こねるみたいに、ちりぢりの繰り言を連ねて、雪瀬は歯噛みする。

「ふうん?」

 ついと一瞥をやり、男はせせら笑った。
 
「相変わらず、成長しないねえおまえ」

 肩をすくめ、取り上げた売帳で文机を打つ。

「じゃあ、次にゆきましょうかね。もう一個は簡単。三年前おまえ、颯音兄さまの首を検分したんだって?」
「……それが?」
「それってさ、本当におまえの兄だったの?」

 雪瀬は真砂を仰いだ。
 あのときの感触は今でも容易に思い出すことができる。ぷんとくゆる保存用の酒に溶けた腐敗の悪臭。抱き上げたときに頬肉に手が沈む感覚。褪せた茶の髪。この先も、忘れることはないだろう。

「――兄だった。俺が間違えるわけがない」

 そのように答えると、そう、と短く呟いたきり、真砂は口を閉ざした。それ以上を男が続けることはなく、雪瀬もまた明かりの落ちた室内で細々と月光の射す庭を睨んでいたのだが、にわかに表のほうが騒がしくなった。
 
「雪瀬さま! よろしいですか」

 ひとの言い争う声や物音のあと、慌ただしい足音が近づいてくる。声からすると、いったん離れていた千鳥だ。雪瀬は真砂を一瞥したのち、自ら襖を開いて外に出た。橘とはいえ、何年も行方知れずであった男が見つかるのも面倒である。

「どうしたの?」
「それが……」

 説明しかけた少女がはっと何かに気付いた風に、雪瀬を背に庇う。少女を追うようにして中に踏み入ってきたのは、橙色の官服に身を包んだ男たちであった。ご丁寧に、刀を携えた兵を連れている。

「葛ヶ原領主橘雪瀬であるな」

 こちらは丸腰の上、夜着姿であるのに、あちらは今にも鞘走る勢いだ。きつく睨み据える千鳥の腕を引き、雪瀬はこの一群を追うかたちで漱や紫陽花、使用人たちが続くのを確かめた。橙の官服といえば、都では一種に限られる。

「そちらは中務の方とお見受けしますが、この夜更けにどのような用向きで? よもや戦でも始まりました?」
「帝より、中務卿づてにそなたに捕縛令が出た」
「は?」

 さしもの葛ヶ原方にとっても予期せぬ言葉であった。眉をひそめた雪瀬に、男は手ぶりひとつで兵を動かして周囲を囲った。

「帝のご病気。兄橘颯音の遺恨に駆られ、帝の呪殺を企てたそなたに拠るものだとの疑いが出ておる。卿自らお調べになるゆえ、まかりこせとの命じゃ」