五章、乞巧奠


 
 十一、


 頭を足で踏まれた。泥のついた草鞋が頬に食い込み、口内に血の味がこみ上げる。うつ伏した地面は己の吐いた血反吐と涎とで、すでにしとど湿っていた。

「それで?」
 
 男は少しやりづらそうにかがむと、力なく横たわる彼の頤にやわい毛先をあてがった。瞼の端を切ったらしい。目に入る血に顔をしかめながら眇め見た男の表情は、いびつな残照が射してか不釣り合いに優しい。
 橘真砂は、引き寄せた杖に顎を載せてのんびりと問うた。

「いい加減全部ぶちまけちまえば? 葛ヶ原から逃げてきたアナタを拾い、かくまった御主人様はどこのどいつなんでしょう」
「そのような者などいないと……」

 口にした端から嘔吐き、暁は血混じりの痰を吐き出した。対する真砂のほうは涼しい顔をして筆をいじっている。能面。男の横顔に情はない。

「玉津卿」

 思いついたように、男が呟いた。

「平栄二年の秋頃から、中務卿玉津はふたりの東の風体の男を飼っている。屋敷の下女いわく、名をアカツキとユキ。直後に、第十九皇子皇祇が失踪。賊に襲われ、衣川に落ちて死んだとされる。計画に携わっていたのは、おそらく今の両名。――ふふん、暁。おまえ、とち狂って今度は皇子様の暗殺にまで手を貸すようになっちゃったん?」
「私は、玉津などという男は知りません」
「ほーう。なら、皇祇は?」
「すめらぎ」
「第十九皇子皇祇。彼のことはご存じ?」
「……知りませんよ」

 この男に皇祇と己の関係を話す気はなかった。
 そもそも、関係などと言えたほどのものでもない。打ち捨てられ死にかけていた男を暇をもてあました皇子が拾った。戯れだ。もう会うこともないだろう。

「なるほど?」

 くっと喉を鳴らして、真砂は筆を離した。この一見気狂いのようでいて、鋭い洞察力と直感とを備えた男が今の短い会話からいったいどこまでを悟ったか、暁にはわからない。男の物言いは常に何かを確認するようで、その実大方を知悉しているのやもしれぬ。
 真砂はしばらく何かを考え込む風に遠方を睨んでいたが、やがて倒していた杖を引き寄せて腰を上げた。

「お待ちください!」

 その背に如何ともしがたい焦燥を覚えた。
 
「待て、と言っている……!」

 振り返らず、どころか足を擦って歩き出してしまう男に歯噛みして、暁は袴裾から伸びる足に縋り付いた。それでようよう足が止まる。ナニ、と一瞥を投げる男の目はしかし、あからさまな苛立ちを浮かべている。
 
「あなたさまこそ、どこへゆかれるおつもりですか」
「ああ?」
「この三年余、いったいどこで何をしていたのです。雪瀬さまや……柚葉さまを葛ヶ原へ置いて」
「俺がどこで何をしてようがアナタにはなーんの関係もございませんでしょうに。お前こそどの口がそれを言うんだよ暁」

 男の手のひらが暁の顎をつかみ取る。容赦のない力に眉を寄せつつも、口からは下卑た笑いがこぼれた。

「そう、ですよ」

 可笑しい。
 不意にすべてがおかしくてたまらなくなった。確かに自分はひどく矛盾したことを言っている。

「ええ、そうですとも。颯音さまを死なせ、葛ヶ原を荒らし、あのおふたりを深く傷つけ、あなたを撃ったのは私だ。それがかように生きながらえて……あなたは私を探していたと仰いましたね。何故始末しない?」

 低い呻きにも似た問いに、男の濃茶の眸は一瞬だけ軽く見開かれた。けれどそれはすぐに眇まり、裾を握りしめる暁の手ごと身体を振り払われる。何かが著しくこの男の気を害したのだとわかった。

「“何故”」

 杖をかたわらにつき、「何故だと思うんよおまえは」笑いをおさめた暁へ畳みかけるように真砂は問うた。

「俺が心優しいから。とりわけ徳が高いから。かわいそうなおまえのことを許してやったから。ほらどれだと思うんよ答えてみれば」
「それは」
「死んじまえ」

 突如浴びせかけられた言葉に、目を剥く。
 男は、わらっていなかった。水のような無表情で、ただ彼を見つめていた。

「俺はね、雪瀬の馬鹿みたいにおやさしくねぇので、おまえがそこの衣川に飛び込んで死んだって少しも胸が痛まんよ。すれば。あるいはそこでずっと、鼻水垂らして我が身を嘆いてりゃあいい。どいつもこいつもこの国には馬鹿しかいないんかね、知るかよ。どうぞ勝手に、かわいそうな暁くそったれ」

 そこまで一息に言って、真砂は何故かばつの悪そうな表情をした。この男にしては珍しく感情任せな物言いをしたことに、暁が驚いたからかもしれなかった。

「以上! 勝手にしやがれっての」

 腹いせまじりか、少々荒々しく杖を取って、足を返す。
 男の歩調は、左右で一定しない。右足が膝のあたりでなくなってみすぼらしい棒切れに変わってしまっているからだった。裾のほどけた手を握り、暁はひとり群青と淡紫に染まり始めた宵空を見上げた。







 老帝は三日三晩生死の境を彷徨った。
 当初、あの老体では死の呼び声に屈するだろうとの見方が強かったが、それでも四日目の朝、ぱっちりと目を開いたのは、長らく玉座に座り続けた男の意地といってよかった。駆けつけた玉津は涙ながらに帝の目覚めを喜んだが、それは安堵といったほうがよかった。死ぬのは構わないが、こちらの準備にあわせてもらわないと困る。卿の見立てとしては、病床の老帝が自ら四季皇子を呼び寄せて、「次の帝は四季である」と玉声をもって告げた上で、即位という形が望ましい。四季皇子は立太子こそしていたものの、未だ後継として不満を抱く者が多かったからだ。
 このような思惑から、玉津は帝のかたわらに常に侍り、四季皇子をお呼びなさいませ、と囁くのだが、帝は、つぐみ、つぐみ、とうわ言のように呟いているだけで一向に皇子を呼び寄せぬ。鶫。忌まわしいことにそれは、かつて白雨の領主に嫁いで死んだ、帝の妹姫の名であった。つぐみ、つぐみがやってきた。小康を見計らい氷鏡藍が見舞いに訪れると、口元をだらしなく綻ばせて童のように女の胸に顔を押し付ける。その様は長く老帝に仕えた女官らをもってしても、薄気味悪いものであった。


「――だそうですよ」

 葛ヶ原では今、秋の台風に備えた治水工事が進んでいる。持ち込んだ治水図に目を通しながら漱の報告を聞いていた雪瀬は、そこでつと頤をそらした。

「つまり、もうすぐ譲位があるということ?」
「さぁ、どうでしょう。帝がご回復あそばされれば、流れることもありますし……、だけど今後も玉津卿が権勢を守れるかは、次代に四季皇子をつけられるかにかかっているでしょうね」
「皇子が病で斃れても?」
「四季殿下には、玉津卿の姫との間におひとり御子がいらっしゃいます。まだ年端のゆかぬ若君ですが、皇子が形だけでも即位なされば、その子である若宮に譲位しやすい。玉津卿の狙いはそれでしょう」
「帝ねぇ……」

 成り行き家督を継いだ雪瀬にはこういった理屈がいまひとつ解せぬ。そんなことを呟くと、きみはまだ若いから、と漱は知った風な顔をして苦笑した。

「奥さんをもって、子どもができると少しわかりますよ。いろいろ言うけど、結局うちの子だけは世の辛酸なんてなんにも知らない場所で生きて欲しいんですよ。そのための道を整えてやりたいとも思う。たとえば、葛ヶ原で牛馬のように働くわたしのごとしですよ」
「それはすいませんね。弓は漱おとうさん似の賢い子だから、大丈夫でしょ」
「まぁ年頃になったら、よい見合い相手を見繕ってやってくださいよ。あの子しっかり者過ぎて今から心配なんですよ」

 弓というのは漱のひとり娘である。これがなかなかに利発な女童で、葛ヶ原に戻ればこの娘が雪瀬の世話のほとんどをこなす。肩をすくめて、「弓さんにふさわしい男が葛ヶ原にいるかなぁ」と雪瀬は生返事した。

「ああ、そういえば雪瀬さま。葛ヶ原行の船がやっと取れそうですよ」
「いつ発?」
「五日後に霧井湊です。早朝の出航なので、前日にはここを発たないといけませんね。ただ、問題はアレなんですけど」
「あーアレねぇ、どうしようか」

 先の帝の一件で当初の予定を延ばしてとどまっていたが、いったん病状が落ち着いたという報が入り、他の領主たちも家人をいくらか残して帰り支度を始めつつある。薫風吹き渡る皐月末に葛ヶ原を発ち、すでにふた月余。葛ヶ原では柚葉が采配を取っているが、残してきた仕事は日ごと膨らむばかりである。雪瀬も一度、葛ヶ原に戻っておきたい。ただ、アレをのぞいてはである。
 漱が視線で促した先の部屋を見やり、雪瀬は息を吐いた。

「朱鷺皇子にはまだ連絡取れんの。皇子様のお預かりは水無月会議が終わるまでって約束だったはすなんだけど」

 何の因果か、預かってしまった皇祇皇子の処遇である。
 約定をしたあの晩、朱鷺皇子は確かに水無月会議が終わるまでの十日間とのたもうたはずであるのに、二十日が過ぎた今となっても迎えは来ない。結果、皇子の身柄は未だ雪瀬により預かられているのだった。

「内々に連絡を取ろうとしてはいるんですよ。ただ、あちらも忙しくしてらっしゃるのか一向に捕まらない。文樹林にもさっぱりいらしてないらしいですしね。かといって用向きが用向きだけに、表沙汰にするのもまずいじゃないですか」
「でも、このままなのもよくないでしょ。葛ヶ原に連れ帰るのもさすがに」
「そう思われるならあなたももう少し、何か考えてくださいよ」

 せっつかれ、雪瀬は痛んできたこめかみのあたりを揉んだ。
 さりとて、もとより手駒の少ない雪瀬である。良策などそうそう浮かぶはずもない。

「蝶姫様なら、何かよい手立てをお持ちやもしれませんけどねぇ。何せ、朱鷺殿下の血の繋がったひとりきりの妹姫でおられる」

 呟き、漱はちらりと紅鳶の眸を雪瀬のほうへ向けた。
 無論、老帝の姫皇女である蝶姫に、辺地の領主に過ぎぬ雪瀬が何のつてもなく拝謁を申し込むことなどできない。何の、つてもなければ。漱の意図を暗に読み取って、雪瀬は機嫌を悪くした。

「いいじゃないですか。蝶姫と『彼女』は親しい間柄だと聞く。君のお願いなら、きっと『彼女』も聞いてくれますよ。悪の片棒を担がせるわけでもなし。乞巧奠で助けて差し上げた貸しを返してもらえばいい」
「別に、たすけてなんか。玉津の思い通りになると俺が両耳と目と鼻を差し出さなきゃいけなかったからだよそれだけ」

 背を向けて苛々と呟けば、「ああ、そういう理由にしたんですか?」と背後から笑い声が降る。苦い物を飲み下したような顔をして、雪瀬はだんまりを決め込むしかない。

「――……あ」

 ふと別のことを思いつき、雪瀬は頬杖を離した。

「漱、アレ。ええと紙ある? 文用の」
「はい? ありますけど、何に使うんです?」
「思いついた。琵琶師様に文を出す。蝶姫は確か、琵琶師様の屋敷を仮住まいにしてるんでしょ」

 紙に埋もれていた硯と筆を取り上げ、雪瀬は口端を上げた。