五章、乞巧奠



 十、


 桜は、目を瞠った。
 玉津卿の言葉のあまりの残酷さにではなく、その裏に隠された意図を半ば天啓のごとく悟ったからだ。百五十年余前の判例に本当にそのような裁きがあったのかは知れないが、玉津卿は桜の目を潰し、舌を抜いて、四季皇子の病を秘匿せんとしている。

「我が采配を、お認めくださいますな?」

 待って、と身じろぎかけた桜の肩を警護役の男が押さえる。敷布にうつ伏せ、桜は唇を噛んだ。
 帝の声は、余人が耳にすることはできない。ゆえに耳役を担う女官が言葉を帝に届け、玉声を携えて戻るが常である。されど、卿の言葉をもって御簾内に姿を消したきり耳役が帰らない。そよともなびかぬ竹籤に一瞥をやり、玉津卿が側付きの小姓に開いた扇づてに何かを耳打ちする。
 刹那、悲鳴のごとき糾合が御簾内より上がった。竹籤が捲し上げられ、先ほどの耳役が這い出づる。乞巧奠をなぞらえて天河を描く深藍の唐衣をかけた胸元を、赤黒い染みがしとど濡らしていた。誰ぞ、と耳役は乱れた衣から白い腕があらわになるのも構わず、控えの女官の衣裾をぞろりと引く。

「殿医を! はよう殿医を連れて参れ!」

 ――のちに、その晩の出来事は『乞巧奠の厄』として後世にまで語り継がれる。曰く、老帝、乞巧奠の宴にて喀血し倒れり。床に臥す。
 長きに渡る治天に、暗雲が立ち込め始めていた。


 よもや耳役の糾合が届いて棚機姫が涙を流したではあるまいが、あれほど晴れていた空はみるみる雲に覆われ、あっという間に弱い霧雨が降り出した。しとど血を吐き倒れた老帝は、駆けつけた御殿医たちによって運ばれ、さっそく治療と称した祈祷の準備がなされた。肝心の帝が承諾前に倒れてしまっては、裁きなどあったものではない。そも、声高に桜を糾弾していた玉津卿が涙ながらに帝に付き添いその場を辞去してしまったのだから、余計だった。
 沙汰は追って、と締まりのない言葉を玉津配下の絵島なる男から申し渡され、警護役も外された。肩の力が抜けてしまって、桜はその場にへたりこむ。めまぐるしい状況の変化に何が何やらわからないが、ひとまずは難を逃れたらしい。
 帝が不在とあれば、宴を続けるわけにもゆくまい。雨を避け、前庭に飾られていた筝や捧げものの類は女官たちによって片付けられ、集まっていた者たちも惑いがちに腰を上げた。

「伊南!」

 人波の中に、頭ひとつぶん抜き出た男を見つけ、桜はもみくちゃにされながら声を上げた。押し流されそうになったのを引き上げてくれた男に、控えの間に置いてきた藍のことを話す。憔悴しきった女をあのまま放っておくことはできない。伊南は眉根を少し寄せただけできびすを返すと、桜には「白藤を呼んでこい」と言った。なんでもあの少女はその手の医術にも心得があるらしい。
 翡翠院に戻ったときすでにひとは捌けて、がらんどうの舞台を雨音だけが湿らせていた。余った水菓子を詰め込んでいた白藤を先に行かせて、水や杯といったものを探す。からの器に水を傾けていた桜は、ふと降りしきる霧雨の中にたたずむ影を見つけた。

「……月詠?」

 ほとりと首を傾げ、男を呼ぶ。こちらに背を向けて、暗雲の垂れ込めた天を仰いでいる男は微動だにしない。白く尖った喉をさらし、降りしきる雨を一心に受ける男はこの世の者ではないような、ぞっとする気配を纏わせていた。こんなとき、男の漆黒衣はがらんどうの洞のように見える。

「つまらんな」

 おもむろに、月詠は言った。

「俺の望みを天は叶える気か。阻みもせずに」

 くつくつと擦るようにして喉を鳴らす男に、弱い咳が混じる。桜は抱えていた水差しを置くと、廂から地面に降りて、男の濡れて纏わりついた袖端をつかんだ。そうすると月詠は存外抗いもせず、軒下へと戻る。

「すわって」

 人気のない簀子縁を示して桜は言う。きざはしに男が腰を下ろしたのを見て取ると、乾いた手巾を取って、雫の滴る髪や頬を拭き、濡れた首筋にあてがい、衣を剥がして中の身体を拭いた。知らない身体ではないはずなのに、男のそれは桜のような非力な娘でもたやすく壊せそうくらいあばらが浮き出ていて、果たしてこんなに痩せていただろうかと不思議になった。しばらく無言のまま拭くのに任せていた男は、桜の手が肩のほうへ回るに至って、おもむろに手首をつかんだ。吐息が触れ合いそうなほどそば近くで視線がかち合う。

「甲斐甲斐しい真似をする」

 淡く吐息し、男は桜の咽喉をつかんだ。

「戦うと言ったのは、確かお前だったな。ぬるい情に流されたか、桜?」

 冷ややかに、男は桜の胸のうちを言い当てる。桜が自分でもいちばん深く嫌悪して、ずっと見ないふりをしてきた感情を言い当てる。そう、なまぬるいとたとえるにふさわしい。親愛などでは決してなく。あるいは、かの男に向けるようなくるおしく胸を潰す恋慕でもなく。これは友愛ですらない。年月の澱が作ったなまぬるい情だ。

「お前を手元に置いたのは、やはり間違いであったな」

 呟くと、月詠はまるで放り出すように桜を簀子縁に押さえつけた。背をしたたか打って小さく呻く。首を深くつかまれた。締め上げられ、五指を食い込まされた喉が息を求めて鳴る。それは、殺意だった。暴力でも、いたぶりでもなんでもない、洞のごとき殺意であった。ころされる。背中がぞっと冷たくなって、桜はいやだ、いやだ、いや、と力の限りに暴れる。けれど、押さえつけられた膝も、引き剥がそうと男の腕に絡めた指も、びくとも動かない。ついに、息がなくなった。白濁する視界に、黒と紫を見る。ないている、と桜は何故か思った。
 首を固く締めていた手が外れた。
 急激に肺腑に入り込んだ空気にむせ、腰を折って咳を繰り返す。丸めた背へ再び伸ばされた手のひらに、肩を跳ね上げさせたが、それは戯れだった。おそらくは痣の刻まれただろう首筋をなぞり、転がして乱れた単の衿を引く。

「お前を最後に抱いたのは、毬町の汚い旅籠だったな」
 
 追憶する声を聞きながら、桜は手折られるのを待つ花のように無力だった。

「あのときのように、助けてと泣き叫ぶか? 今度はともしたら届くかもしれない。お前の望みどおりに、お前の望む男が現れるやもしれぬ」

 男は常に、桜を指で犯す。口付けられたことは、ただの一度もない。まるでこの世でいちばん厭わしいものに触れるかのように、指で嬲る。そのとおり、確かに男は桜をころしたいのかもしれなかった。そして桜もまた、この男をあいすることはない。
 桜はすぅっと眸を眇めた。

「そうしたいのなら、そうすればいい」

 無為に見下ろしていた男の眸がふと細まる。やがてこぼれたのは果敢ない苦笑であった。

「そうすればいい、という声をしておらぬ。つくづく嘘が下手な娘だな」
「……のぞみ、といった」
「ああ」
「あなたののぞみは、なに?」
 
 さ迷いがちだった視線がまっすぐに合う。銀の睫毛が揺らめき、「ひとつ、夜伽をしてやろう」と月詠は耳朶にかかる黒髪をのけながら言った。

「はるか北の里に三人の兄妹がいた。長兄を槊(さく)、次兄を黎(れい)、妹を鵺(ぬえ)という。三人は仲睦まじく暮らしていたが、ある日上の兄が外で出会った女を追って、里を出てしまった。残された兄妹は悲しんだが、妹は上の兄のように外へは行けぬ身ゆえ、ふたり仲睦まじく暮らし続けた。やがて兄は妹をあいするようになり、妹もまた兄をあいするようになった。兄は妹を欲し、妹もまた兄を欲した。こうして妹の胎には子が宿り、兄はいとしいわが子の誕生を待ちわびた。兄妹の父はその頃亡くなり、兄はその地を継ぐことが決まっていた。幼く、浅慮であった兄は、己がすべてを手に入れたと見誤った。領主となったあかつきに、兄は妹を娶るつもりでいた。しかし、これを許さぬ者がいた。兄妹の母親だ。母親は、帝の血筋を引く姫で、幼少のみぎりより共に育った帝を頼って、兄の不正を詳らかにし、かの地から追放せんとした。だが、ここで母親にも思いも寄らぬことが起きる。帝は母の言を無視し、兵を数千と率いて里に攻め入ってきた。奇襲ゆえ、ろくな兵も食料もなかった北の地はあっけないほどすぐに陥落した。そのさなか、兄は傷を負い、妹は都の兵に陵辱されそうになったのを胎の子ごと刃を突き立てて死んだ。母も絶望して喉を切り裂いて死んだ。兄は生き残った。あとになって知った。兄妹の母親は、帝と母を同じくする妹姫であった。帝は妹への執着著しく、兵を差し向け、妹を取り返そうとはかったわけだ。桜。お前に帝があれほど執着をしたのは、つまりこういうわけだ。鵺は俺の母によく似ていた」

 互い違いの双眸を弓なりに細め、月詠は花のようにあえかに微笑んだ

「さて、お前に問おう。桜。生き残った兄が憎んだのは、いったい何であったのだろうか」