五章、乞巧奠



九、


「藍」

 天河を描く二藍の唐衣と淡青の単にうずもれるようにして倒れ伏していたのは、今宵の箏弾き姫であった。まとわりつく衣をかきわけ、桜は女の頬と、それから首の脈とに触れた。倒れている者をむやみに動かしてはならないことは知っている。とっさに首筋に手を這わせたが、血の気の失せた肌の冷たさばかりが気にかかり、うまく脈をはかることができない。
 もう一度、今度は女の細い手首を取ってそこに指をあてがった。しばらくそうしていると、とくとくと、皮膚の下で確かに脈打つ気配が感じられ、ひとまず息をつく。

「藍。あい」

 耳元で幾度か囁けば、硬く閉じ入っていた瞼が微かに震えた。ゆるりと開かれた眸が茫洋と桜を映す。女の眸は深くのぞきこめば、漆黒ではなく、ほのかに青みがかって見えた。藍という名前は眸の色からつけられたのだろうかと別のことを考える。

「とおさま……?」

 童女めいた舌足らずな声がこぼれ、焦点の合っていなかった眸に不意にはっきりと理知の色が灯った。一緒に、深い絶望のような、諦めにも似た昏さが眸に紗をかける。それに胸の端がちりりと痛むのを感じながら、「おきれる?」と桜は問うた。微かに顎が引かれたようだったので、身を起こすのを手伝ってやる。

「……乞巧奠は?」
「調弦は終わった。次は藍の出番」
「ああ、いつまでたっても現れない筝弾き姫に痺れを切らして、おまえが迎えに来てくれたというわけ」

 毒づくが、その声は思うほどには張りがなく、ざらざらとかすれている。

「藍」
「さわらないで、」
「あい!」

 髪をかきやろうとしたはずみに崩折れかかった女の身体へ、とっさ桜は腕を伸ばす。夏の盛りであるのに、芯まで冷え切った薄い身体。乱れ髪のかかったうなじは病めいて痩せ、腕を回した背中もまた頼りない。白い手が微かに抗いのそぶりを見せたが、それも桜の衿元に少し爪を立てただけで剥がれ落ちる。
 老蝶、と桜は思った。
 女の姿は、季節外れの蝶が破れかぶれの翅を震わせるかのようだ。

「筝はやめよう、藍。私、そう言ってくる」
「正気? おまえはつくづく、馬鹿なおんなね」

 桜の腕を払い、藍は青く血管の浮き出た手のひらをおもむろに下腹部へあてがった。ひととき何かを守るかのようにそこをさすった手のひらは一転、荒々しく衣の下へと爪を立てる。くすくすと、髪を乱して俯く女の喉奥から甘く爛れた嗤いが漏れた。

「月の障りが来ていないのよ、もう三月近くも」
「つきのさわり?」
「身ごもったと言っているの。めでたいわね、桜。私が打ち明けたのはおまえが初めてよ」

 桜は息をのんだ。自然女の手のあてがわれた胎のほうへと目が吸い寄せられるが、そこに孕み女らしい膨らみはまだなく、妙な生々しさだけが耳に残った。

「だれの、子?」
「わからない?」

 哄笑は徐々に高くなる。咽喉を裂かんばかりにわらい女の眦にはうっすらと涙すら滲み始めているようだった。昏い眼窩をすぅと眇め、藍は己の胎を握り潰した。

「老帝よ。老帝の子どもがここにいるの」




 筝弾き姫が姿を現さない。
 調弦を終えた筝一艘を残してがらんどうになってしまった舞台に痺れを切らしたか、観覧席がにわかにざわめき始める。
 次は奏者である氷の君の出番ではなかったか。
 一向に姿を見せないとはなんたること。
 これであるから、礼節を知らぬ『外』の者は。
 養い親たる丞相の目を盗みささめく公卿らと対の席では、招かれた領主やその侍従らもいぶかしげに首を捻り合っている。

「ずいぶんと長い話だったじゃない」

 よそに遣わせていた男が戻ったことに気付き、雪瀬は舞台のほうへやっていた視線を手元の酒盃に落とした。月がひとつ、半ばほどに減った酒杯にかゆらいでいる。

「――卿は?」
「ご指図されたとおりのものを返して参りましたよ。ふふ、あの顔は見物だったなぁ。弟くんにも見せて差し上げたかったね」

 忍び笑い、漱は軽く腰を浮かせてこちらをうかがった。

「控えのほうをそれとなく見て参りましょうか。抜け出すのは得意ですよ」
「……いや」

 最中に、舞台に現れた人影をみとめて、雪瀬は口を閉ざす。舞台へ架かる橋廊をぺたぺたと歩いてくるのは、先ほど調弦役を全うしたはずの少女であった。いささか頼りなく見えたのは、あのとき煌びやかに彼女の身を飾っていた衣の大半がなくなってしまっていたのもあるだろう。髪だけは花挿で結い上げたままだったが、衣装は襦袢に単を一枚重ねただけのもので、そうすると少女らしい華奢な肩ばかりが目に付いた。
 別種のざわめきが起こる。
 いったいあの娘はなんだ、氷鏡藍はどうしたのだ。
 好意的とは到底言いがたい観覧席の視線を小さな身に受け、桜は顔を上げた。




 顔を上げた瞬間、そこらじゅうから注がれる敵意にも似た視線に身体が震えた。
 ――先刻。無理にでも舞台に向かおうとした藍を引き止めたのは桜である。
 藍が帝の子を孕んでいる。
 そのことに動揺していないといったら嘘になるけれど、桜にしてみれば、今目の前でか細い息を繰り返している藍自身のほうがよっぽど心配だった。女の憔悴ぶりは激しく、このまま無理に歩かせれば、露が葉から滑り落ちるように儚くなってしまう気すらする。少々手荒に褥に戻すと、桜は都の長めに仕立てられている単を翻して、舞台のある翡翠院へ引き返した。
 藍の出番を遅らせるか、もしくは代役を立てて欲しい。
 式の進行役を担っていた女官を捕まえ、そう願い出てみたものの、開いた檜扇越しに向けられたのは弓なりに歪む冷ややかな双眸だった。

『帝の御前で代役とはおこがましい。本来ならば、這ってでも舞台に上がるのが筝弾き姫たる者のつとめです』

 でも、と言い募ろうとした桜に、女官はうっそりと微笑む。

『どうしても代役を立てたいとあらば、ぴったりの方がいらっしゃるではありませんか。筝弾き姫の代わりは筝弾き姫が務めるもの。氷鏡藍に代わってそなたが天に一曲捧げればよろしい』

 桜に筝の嗜みがないのはこの女官も知っているはずだ。
 いまひとりの箏弾き姫――箏を運んだ絵島卿の姫君を探せば、扇をひらめかせてふわりと笑い、縁者である玉津卿のかたわらに素知らぬそぶりで寄り添う。口元を隠した檜扇越しの視線は、やはり愉しげだ。
 
『ほぅら、帝がご気分を害し始めましたよ』

 垂れ込めた御簾へ一瞥をやり、女官は檜扇を閉じた。
 その場にひとり残されてしまい、桜は途方に暮れる。女官の最後の言ばかりは真だったようで、先ほどから帝のそばに侍る女官たちがせわしげに御簾内を行ったり来たりしている。
 箏をつつがなく天に捧げられれば褒美をもらえるというけれど、もしも失敗してしまったときにはいったいどうなってしまうのだろう。桜のような頭でも、それは空恐ろしい想像のように思えた。
 ――浅はかだったのだろうか、わたしは。
 やめろと、役目を引き受けた直後真砂に引き留められた。あの、他人に干渉しないひとが珍しく言葉を連ねて反対をした。気をつけよ、と蝶にも言われた。それらすべてを振り切って桜はこの場に立ち、今窮地に陥っている。
 あさはかだった。
 痛いくらいに思い知らされてしまう。桜はあさはかだった。ひとりで切り抜けられる力なんてないのに、後先を考えずに突き走った。その結果が、これだ。面を伏せ、桜は固く唇を引き結ぶ。

『箏弾き姫はどこにある!』

 観覧席に座する誰がしかが声を上げた。
 
『いかほどに待たせるというのだ。無粋にもほどがある』
『まだか』
『いつ現れる』
『箏弾き姫はどこにいる』

『――ここに』

 その声はふっと雪解けるように喉を滑り出た。
 それまでの迷いやためらいといったものが消え去り、桜はふわりと睫毛を揺らして、観覧席のほうを見据えた。

『ここに、いる』

 襦袢に単を重ねただけの衣を引きずり、再び舞台に上がる。紺青の敷布に、さやかなる月に艶めく箏が一艘。余人はいない。箏の前に座し、桜は飛び交う野次を受けながら顔を上げた。
 幾千の眼差しがじぶんを見つめていた。公卿たちは、氷の君はどうしたのだ、とささめき合い、そのかたわらに座する女官たちも皆一様に扇を口元にあてがって愉悦に歪んだ眸をこちらに向けている。喉が弱く鳴った。こわい。押し込めていた不安が頭をもたげ、せり上がってくる。こわい。こわいよ。だれか、たすけて。だれか。蝶。――雪瀬。ふつと胸によぎった男の名前を、奥歯を噛んで飲み下し、桜はそろりと姿勢を正した。瞼裏にひとつの情景を思い描く。たおやかな水茎のごとき流麗な所作。艶めいてすらある、美しいあの。
 己を庇った男がしたのと同じように背を折り、桜は敷布の上に額づいた。

「もうしわけ、ございません」

 発した声は野次にかき消され、どこにも届かなかったに違いない。
 もうしわけございません、とだから桜はもう一度言った。

「ここで今、箏を捧げることはできない」

 不意にひとびとの声がひそまる。
 身を刻まんばかりの静寂の中、箏の前で手を揃え、桜はひとり額づき続けた。一瞬鼻白んだ気配があったあと、「しかれば、いかがすると?」と公卿たちの間から進み出た男が尋ねた。玉津卿である。

「そも、何故今年の箏の奏者の代わりに調弦役のそなたがいるのだ。よもや手柄を独り占めしたいなどと卑しきことを考えたわけではあるまいな?」
「ちがう」

 これに対してはきっぱり首を振って、桜は顔を上げた。

「藍は、身体の具合が悪かった。だから、代わりに私がここに来た」
「嘘をつくでない!」
「私は嘘をつかない」
「夜伽の分際でなんと生意気な……」
 
 白粉の塗りたくられた頬がみるみる紅潮する。常に携えている扇を手慰みに開いては閉じ、玉津卿はやにわ、不穏なきらめきを落ち窪んだ目に載せた。

「さりとて……そなたの申し開きに偽りなくとも、格式高き乞巧奠の儀をいたずらに乱した責めは受けねばなるまい。――さて、どう考える、丞相殿」

 玉津卿が矛先を向ければ、玻璃杯を片手に事態を静観していた黒衣の男のほうへとその場の視線が集う。桜は、この黒衣の丞相の妾である。いったいどのような采配をくだすのかと皆の興味を一身に受けた丞相は、しかしほのりと首を傾げただけで、「しかりだな」と白い顎を引いた。

「して、中務卿はいかような処罰が妥当であると考えられる」
「丞相殿を差し置き、わたくしめが口を出すことなど」
「ほう。中務卿は慎み深くあらせられる。しかれども、今宵の筝弾き姫は我が屋敷で飼い慣らしたる夜伽。なにぶん情の深い愛玩物ゆえ、公正な判断がくだせるようには思えぬ」

 肩をすくめ、月詠は玻璃杯に口をつけた。よもやこの男が取り計らいをしようなどとは思いもしなかったが、あまりのにべのなさに桜は唇を噛む。

「丞相殿がそう仰るとあらば、仕方あるまい。わたしごとき若輩では判断もつかぬゆえ、百五十年余前の判例を使わせていただこう」

 口元を扇で隠し、玉津はいかにも悲壮たっぷりに息を吐いた。

「乞巧奠を乱した筝弾き姫は、舌を引き抜き、ものを喋れなくさせ、目を潰し、二度とものを見ることのなきように。さあれば、慈悲深き棚機姫が涙を流し、罪科をさっぱり雨と流してくれようぞ」