五章、乞巧奠



 八、


 ひとびとの集まっている席を、重たい衣装を引きずって歩くのはひどく骨が折れる。それでもなんとか外に出て、夏のさやかな空気を胸いっぱいに吸うと、酒のにおいで凝っていた肺腑に風が吹き込む心地がした。桜は衣をからげ、簀子縁を渡る。表から離れたとたん、白昼のごとくあたりを照らしていた灯台の数は減り、ひっそりとした静寂に包まれた。
 階の高欄に手を置き、桜は篝火が燃える舞台のほうを仰ぐ。
 玉津卿が何かを仕掛けてくる気配はまだない。もしかしたら、このまま何事もなく宴は終わるのではないか。浅はかな考えだと理解しながらも、そうであったらいいと祈ってしまう。

「ひゃっ」

 気もそぞろに階を下ろうとした足がずるりと滑った。常とは異なる裾丈にとっさ動きが鈍り、重い衣装をまとった身体が宙を傾ぐ。――おちる。目を瞑った瞬間、ふわりと大きな腕に腰を引き寄せられた。傾いだ桜の身体を数多の絹ごと抱え、階の上に戻してくれる。宴の席にふさわしからぬ灰墨の色合いの袖がまず目についた。

「ゴメンナサイ、わたし」
「……いえ、」

 言葉少なに身を離される。
 釣燈篭の下、改めて相対した男の姿はたいそう面妖だった。灰墨の上下に、同じ色の頭巾で顔の半分以上を覆っている。だが、桜が目を瞠ったのはそればかりが理由ではなかった。

「透一」

 身を翻しかけた男の袖端を無為のうちにつかむ。
 桜は覚えていた。葛ヶ原に連れてこられたばかりの、まだ物慣れなかった頃、ことあるごとに自分を気にかけ、ときにあちこちへ誘い、年下の妹にするように頭を撫でてくれた少年の手のひらを、指先を、声の調子を。覚えていた。頭巾一枚きりで隠せようはずもない。

「透一でしょう? どうしてここにいるの?」

 袖内の手のひらを探って握り締めると、やはりそうだ、と確信した。
 けれど、青年は首肯するでも手を振り払うでもなく、灰の眸に凪いだ水面のごとき色を浮かべ、沈黙を守っている。前にこの場所で会ったとき、彼は玉津卿の隠密とともに行動をしていた。いったいどんな思惑があってのことかはわからない。ただ、この青年が雪瀬を裏切ることだけはないように桜には思えるのだった。

「透一」

 答えの返らない沈黙が悲しくなってきて目を落とし、それから桜はふと思いついて己の髪に挿していた花枝を引き抜いた。花ではなく、常緑の葉のほうを一枚ちぎって差し出す。

「この葉の名前を」

 桜は言った。

「おぼえている?」

 それは、謎かけだった。そういったものが不得手な桜が仕掛けた、精一杯の、もしかしたら生まれて初めてかもしれない謎かけだった。青年の指先が葉の柄をつまむ。くるりと手の中で回し、そうして彼は緩やかな笑みを口元に載せた。


 月が西山へ傾く。時は宵口から夜の盛りへと移ろうとしていた。
 桜は舞台袖にて、絵島の姫君が筝を運ぶのを待つ。桜の居すあたりは篝火からも遠く、ちょうど暗がりになっていた。足元すらろくに見えない闇の中で、桜は脳裏に何度も筝の形や柱を置く場所を思い描く。調弦の仕方は琵琶師と蝶に教わった。曲目によって柱の位置は決まっているし、耳のよい桜には覚えこんだ音に柱を合わせるのはそう難しい作業ではない。――そう難しくはないはずなのに、かつて丞相邸にて開かれた宴で雪瀬にお酒を注ぐとき失敗してしまったのは、桜の心の弱さゆえだ。次いで思い出された男の面影を、桜はつとめて意識の外に追いやった。しゅるしゅると衣擦れの音をさせて、筝を置いた絵島の姫君が戻ってくる。腹を据えて、桜は唐衣を持ち上げた。
 考えない、と念じる。余計なことは考えない。
 前だけを見る。前だけを見て歩く。
 両脇に焚かれた篝火が濃い陰影を蠢かせる舞台の上で、桜は流水紋を描く敷布に置かれた一艘の筝を見た。膝を折って座し、すいと顔を上げる。不意にそのとき、今までどこを探しても見当たらなかった男を衆人の中に見つけた。
 男の眸に、常のような柔らかな色合いはなかった。記憶にあるような、桜を見守る庇護の色も。彼の眸は冷ややかに眇められ、桜を見ていた。ああ、と急に霧が晴れるかのごとく理解する。桜が戦っていたのは、玉津卿ではなく。月詠や紫陽花ですらなく。常にこの男だった。
 橘雪瀬、そのひとであったのだと。
 だから、桜は男を見据える。臆することなく、緋の眸に身を切らんばかりの激情を湛え。ほんの数瞬交し合った視線は、すぐに離れた。桜は筝へと目を戻す。ぴんと張られた絃を持ち上げ、柱をひとつ立てた。軽く爪で弾いて音を合わせ、他の十二の絃も同じようにする。ひとたび始めると、桜の意識は音のほうへ集中していって、周りに気を取られることはなかった。すべての柱を立てると、十三絃をひとつひとつ弾いていって、音の調和をはかる。
 滞ることなく、調弦は終わった。長い衣裾に足を引っ掛けないよう注意して腰を上げ、するすると袖へ戻る。篝火から離れた暗がりに背をもたせると、詰めていた息がこぼれ落ちた。

「おわった……」

 呟くや、それまで肩に張っていた力ががくんと抜けた。
 終わった。ちゃんとできた。間違えないで、最後まで成し遂げられた。安堵と歓喜が胸を突きあがってきて、桜はほろりと相好を崩す。

「ちょっとお前!」
 
 そのとき、かしましい足音をさせて絵島の姫君がこちらへ向かってきた。目を瞬かせた桜に、「氷鏡藍を見た?」と柳眉をひそめて詰問する。

「藍?」
「そうよ。もう舞台袖にいないといけないのに、ちっとも現れないの。まったくどこに行ってしまったのかしら、あのひと!」
「私、控えのほうを見てくる」

 脳裏に先ほどの狂乱じみた女の笑い声がよぎった。ほっそりと痩せた首筋や、焦点の合わない眸。まさか、まさか、とは思うけれど。不吉な予感に駆られて、桜はひらりと衣を翻した。ひとが所狭しと詰めている観覧席を謝りながらかき分け、控えの間のある別棟のほうへと走る。

「っ」

 途中、足の指までを覆う長袴を踏ん付けて、受身も取れずに床に転がった。幸い、幾重にも重ねた衣のせいで痛くはなかったが、重い衣装ではうまく走りづらい。桜は肩にかかっていた幾枚かをその場に捨てると、紐を引いて袴とついでに足袋も脱ぎ捨ててしまった。襦袢に単を重ねただけの薄着になれば、さすがに身軽になった。高欄からひょいと庭に飛び降りると、破れた垣根をくぐって近道をする。簀子縁から中へ上がりこんで、釣燈篭がひとつか細く揺れるばかりの暗闇を見回す。薄絹の几帳や屏風で仕切られた部屋に、ひとはいない。藍、と小さく呼びかけてみるが、返事もなかった。
 やがて奥のほうにちろちろと灯った明かりを見つけて、桜は眉を寄せた。か細く夜風に絹布を揺らす几帳からそっと顔を出す。

「……藍」

 果たして、見つけた女の姿に桜は息を呑む。





 筝弾き姫が現れない。
 にわかにざわめき始めた衆人の中、ひとり席を立った男がいた。がらんどうの舞台に皆の目が向いているのをよいことに観覧席から離れた男はしばらく歩き、簀子縁に残されていた衣の抜け殻を見つけた。衣は点々と残されて、途切れたあたりからは庭に足跡がついている。これでは自分でどこに行ったか教えているようなものだ。男は喉奥で嗤うと、夜闇に向けて閉じた扇をかざし、「ユキ」と子飼いの青年を呼んだ。不測の事態が起こったが、これはこれで悪くない、と扇の下でほくそ笑む。
 ぎしりと背後で床板が鳴った。あらわれた、と思い、振り返った男はしかしふくよかな頬を微かに引き攣らせた。

「……百川殿」
「月の明るい、よい夜でございますね。玉津さま」

 如才なく挨拶をしてみせた男は、百川漱。三年前の領地追放ののち何を思ったか、葛ヶ原領主の下についた男であった。

「供の者も連れず、かような場所で何をしておいでで? もうすぐ乞巧奠のいちばんの盛り上がりどころだってのに」
「おぬしこそ」

 玉津は笑みを顔に貼り付け、どうにか言って返す。

「まだ物慣れぬ領主殿を置き去りにせねばならぬ急用でもあられたか」
「ふふ、わたしはあなたさまに御用があったんです」

 微笑み、百川漱は背後の大柄な男に抱えさせていた包みを玉津の前へ差し出した。およそひとの背丈ほどはあろう、長い包みだ。まるで見当がつかぬという顔をして中のものを確認し、玉津は胸のうちで舌打ちをした。
 筝の絃が十三本。包みの中にあったのはそれだったからだ。

「ああ、あんまり不用意に触られないほうがよいと思いますよ。あなたが大丈夫だって仰るなら、構いませんが」
「……意味を図りかねるが?」
「わたしたち百川はね、毒にはいたく詳しいんです。幼少のみぎりに一時領地を追われ、力のないぶん小賢しくひとを陥れながら生きてまいりましたから。あなたと同じだ」
「何が言いたい」
「おや、失礼。わたしとしたことが、口が過ぎてしまったかな」

 いかにもわざとらしく、百川漱は首をすくめた。

「ナンなら、その十三本の絃がどこに張られていたかを帝に奏上してもいいのですけど。わたしと似ているあなたなら、こういうときに使う替え玉ひとりくらいきちんと用意しておりますよね。それともそこまで折込済みだったのかな」
「なんのことやら」
「わからぬと仰るなら結構。百川から追放された男の戯言とでも。ですけれどね、玉津さま。今年の筝弾き姫にはこれ以上手出ししないでいただきたい」

 冷ややかに閃いた紅鳶の眸を一瞥し、「はて、なんのことやら」と玉津は空とぼけて繰り返した。とっさにユキの名を呼ばなかったのは、百川漱の背後に控える巨漢の男が明らかに武人のなりをしていたからである。帝のそばちかくで人傷沙汰を起こすのはうまくない。かような東の下賎な輩には臆せぬ自負もあった。
 あくまでしらを切るこちらにそれ以上追及する気が失せたのか、「行きましょう、無名さん」と漱は男に言った。

「百川殿」

 知らず帯に挿した檜扇を引き寄せつつ、玉津は男を呼び止める。
 ひとつだけ、どうしてもこの男に確かめておきたいことがあった。

「三年前、何故橘颯音の処刑を瓦町で断行した」
「……ずいぶんと古い話をなさる」
「手柄を立てたいというならば、生きたまま都に護送し、朝廷の処断を仰ぐほうが賢い。否、それを思いつかぬおぬしではないはず。だが、おぬしは橘颯音を処刑し、結果、首を護送中に奪われるという失態を犯した。ひと月半後、戻ってきた首は顔の判別すらまともにできない状態で……」

 言っていて、気付いた。
 これは、あまりにも。
 あまりにも、できすぎている。橘颯音の死にまつわる一連の出来事は。
 すぐに気付くことができなかったのは、ちょうど橘颯音の首が奪われたと騒がれていた頃、都では虜囚となった橘雪瀬の詮議が進められていたからだ。玉津をはじめとした皆の意識が自然そちらに――葛ヶ原に絡んだ己の損益のほうへと向いていた。結果として、ひと月後に首が戻ってきたときもさほど違和感を抱かなかったのだ。一連の出来事の裏で百川漱が果たした役割にも。

「百川殿。橘颯音は――」
「生きている、とでも? やだなぁ、玉津さまらしくもない」

 漱は、一笑に付した。

「首の検分は、実弟である橘雪瀬がやったんですよ。そして、あの子があなたがた朝廷の方に言ったんじゃないですか、『これは兄の首である』と。あの子は、あの子のすべてと引き換えに首を葛ヶ原へ持って帰りました。高台にこしらえたお墓には紫藤という名の墓守が置かれましてね、これが名うての老兵で、たとえ葛ヶ原の者であろうと墓に近づくことはできない。おわかりでしょう? 仮に、たとえば、この先、その墓について何らか疑義が生じたとして、領主の許しなくして何人たりとも暴くことはできないんですよ。玉津さま。だって、あの地は今、橘雪瀬のものだから」

 ――ひとつ、頼みがある。
 領主として立つ前に、橘雪瀬は丞相月詠と都察院長官嵯峨にこう請うたのだという。検分を終えた兄の首を我が元へ返して欲しいと。両名はこれを許し、話を聞いた者らはどうということはない兄を慕う弟の情であるとして片付けた。都に流布する橘雪瀬の評は、峻烈な兄に比すれば、取り立てて述懐すべきことのない、ただの不運な少年であった。
 されど、果たしてあれは。それだけの少年であったのか。
 己を踏みつけ、醜態をさらさせ、片耳を奪ったあの憎きけだものは。

「ああ、筝弾き姫がいらっしゃったみたいですね」

 舞台のほうへと目を戻し、漱はふと呟いた。

「それでは、わたしは先に戻ります玉津さま。今宵は空が澄んで、筝の音が天まで届きそうだ」

 軽やかに礼をして無名とともにきびすを返す。にこやかな面を貼り付けたままふたりの男の姿が消えていくのを見送り、やがて玉津はその表情をぐしゃりと崩した。包みごと、絃をかたわらに流れている小川に捨てる。そうして荒々しく縁を歩く男の背後で、小川の澄んだ水は泡を立て、中を泳いでいた蛙はしばらく足を動かしたのち、ふぅっと浮いて、真っ白な腹を天へと見せた。