五章、乞巧奠



 七、


 衣装は定められたものを着るが、結い上げた髪に挿す花挿(かざし)は気に入りのものを選んでよいことになっている。それゆえ、早百合や薔薇など美しい花々はそこかしこで切り取られて、花首がなくなってしまっていた。乞巧奠当日は今上帝をはじめとし、百官に名だたる貴族、水無月会議のために呼び寄せられた地方領主たちとその侍従、彼ら客人をもてなす数多の女官が一所に集う。皆、早くから己の花に目をつけていたにちがいない。
 しかれども、桜が探しているのはそのどれでもなかった。重たい衣裾をからげ、庭に生えた樹の一本一本を見ていき、やがて、暗がりのほうにひっそり生えた緑の樹を見つける。白く小さな花は緑の葉に隠れるようにぽつりぽつりと開いていた。花期はすでに終わりに近く、地味で、花弁も端から萎みかけている。水気の失せた花びらをなぞると、傷つけないよう気を払って一枝を手折った。名を、橘。自分にこれ以上にそぐう花もないだろう。
 
「ではな、桜。蝶は席のほうから見守っておるからの」
「うん」

 縞のはからいで、はぐれてしまった式事の女官とは会うことができた。励ましの言葉をかけてくれる蝶や縞たちとも別れ、桜は筝弾き姫たちが集う控え間へ案内される。緊張でとくとくと早くなってくる心臓の上に手を置き、小さく息を吐いた。外からは見えないよう腕に巻いた組紐を握り締める。
 逃げない。もう逃げたりなんかしない。すっと覚悟を決めると、桜は仕切りに置かれた屏風からそっと顔を出す。筝弾き姫のほかに、女官たちもすでに多く集まっているらしい。中は思ったより混み入っていた。

「まぁ、丞相殿の飼われている“姫君”がいらっしゃいましたわよ」

 目ざとく桜に気付いた女官が声を張り上げ、とても好ましいとは言えない視線が四方より桜を貫く。

「さすが今はときめく丞相殿の寵愛のお方。遅いお出ましですこと」
「椿様ったら。飼われているだなんて失礼だわ、犬猫に言うみたい」
「そうかしら? けれど、夜伽は犬猫のように檻に入れられ、買われていくのだそうよ」
「ねえさま、あたし、ここにいたくない。犬猫はたくさん病を持っているっていうじゃない。うつってしまったらどうしよう」
 
 扇に隠された口元から囁かれ合う嘲りに、桜はただ木偶のように立ち尽くすことしかできない。夜伽が忌まれていることは、市井でもそうであるから知っていたけれど、こんな風にあからさまに上げ連ねられるのははじめてだった。毅然と、していなければならないと思った。こんなこと露にも介さぬそぶりで、毅然と顔を上げていなければ。けれども、桜は傷ついて、眸を揺らがせて、目を伏せてしまった。こみ上げそうになった涙を、眉根を寄せてこらえる。

「遅れてしまって、ごめんなさい。でも私は、ビョウキなんて持ってない」

 それでも必死にぽつぽつと弁解の言葉を紡ぐと、にわかに沈黙が落ちたあと、かしましい笑い声が炸裂した。

「やだ、病など持ってないですって!」
「そうでしょうとも。病床の御身であるなら、殿方のそれを毎晩くわえこんだりできませんもの」
「舐めたり啜ったり毎晩お忙しくていらっしゃる」
 
 頬にさっと朱が走る。すでにその意味の察しがつかぬ桜ではない。
 ぱん、と閉じた扇で床を叩かれる音がしたのは刹那だった。

「静かにしてくださらない? 外の殿方が眉をひそめておいでよ」

 しずやかであるのに、不思議と通る女の声に女官たちは一様に口を閉じ、ばつの悪そうな顔をする。今年の奏者――氷鏡藍であった。一段と美貌を深めた女は、氷面のごとき眸でこちらを一瞥すると、淡然と手元の譜に目を戻す。
 さりとて分は藍のほうにあった。ひそひそと文句を言い合いながら出て行く女官たちを背に、桜は長袴を引きずって、藍のそば近くに座った。華奢でありながらも背の高い藍とはちがって、桜は座ると大量の衣と絹とに埋もれてしまいそうになる。

「いま。ありがとう」
「別に、あのひとたちがうるさかっただけよ」

 藍は頬にかかったほつれ髪を耳にかけながら、投げやりに言った。
 久方ぶりに顔を合わせた女は、顔色が悪い。熱にかかって臥せっていたと伊南から聞いていたが、顎がほっそり尖って、頬も肉付きがなく、重ねた衣袖から垣間見えた手首には蒼い血管が浮き出ていた。

「熱はもうへいき?」
「さぁ、どうかしら」
「薄荷水なら、持ってる。いる?」

 懐から先ほど蝶に持たされた薄荷水の入った竹筒と握り飯の包まれた笹とを取り出す。筒の蓋に薄荷水を注いで差し出すと、藍は黙したまま、蓋を手に取った。それを口元に持っていき、緩やかに手のひらを返す。逆さまにされた蓋から薄荷水がこぼれ落ちて、床に小さな水たまりを作った。

「誰彼構わず浅ましく尻尾を振るのは相変わらずね、橘雪瀬に捨てられてしまったかわいそうな夜伽さん。いったいどんな悲壮な顔をしているかと思ったら存外元気そうで何よりだわ」

 さっきの女官たちよりも。否、比べるべくもない、あからさまな敵意に桜は口をつぐんだ。「だけど、よかった」と藍は爛れ落ちた果実のごとくに微笑む。

「その顔であの子の隣なんかにいたら、私きっと、あなたもあの子もころしていたわ」

 つ、と桜の左胸に筝爪を立て、藍はおもむろに笑い出した。か細く嗄れた声でありながらも、それは常軌を逸したかしましさを持って響く。桜はしばし言葉を失った。焦点を失くし澱んだ眸は、正体をなくした者のそれだった。――こんなひとを、前にも見たことがある。老帝だ。この国の老い狂った帝だ。帝も、女も、身のうちにがらんどうの虚無を巣食わせている。
 おかしくて、おかしくて、おかしくてたまらないといった風に額に手をあてがい、髪を振り乱して笑い続ける女を、桜は呆然と、声を発することもできずに見つめていた。





 宵の刻。日が落ちて、空が淡い紫に染まり出した頃、乞巧奠は始まった。
 幕開けを飾るのは、楽人たちの演奏である。幕の垂れ込めた舞台で、鼓を打つ高らかな音が暁天を木霊する。祭儀をおもに執り行う翡翠院の白砂の上には、火籠に打松を入れ燃された篝火が並び、風が吹くたび楽人たちの綾衣をぬらりと艶やかに照らし出した。翡翠院の中にもまた所狭しと高灯台が据えられており、中を白昼のごとくに明るくしている。筝弾き姫の儀は、式のいちばん最後に執り行われる。それまでは丞相の隣に座って、並んだ箱膳に置かれた真桑瓜、梨や茄子に味噌を載せたものをもくもくと食べた。

「お前は本当によくものを食うな」

 冷やした酒を口に含んでいた月詠は、箸を握る桜のほうを見やって苦笑混じりに呟いた。月詠の前の膳は申し訳程度に箸がつけられただけで、どれもそのまま残されている。

「だって、食べないと力が出ない」
「それは結構」
「月詠は食べないの?」
「いらぬよ。お前と違って筝を合わせる必要もないゆえな」

 桜の口端についた味噌を指ですくって舐め取ると、「甘い」とごちて、月詠は自分の膳の小皿と桜のものとを取り替えてしまった。

「なに?」
「残したと気付かれると女官どもがうるさい。よいではないか。ふたりぶん食べれば、ふたりぶんの力も出よう」
「へ理屈」
「梨は嫌いか?」
「スキ」

 顔をしかめつつ、桜は梨をしゃくりと齧った。何気なくあたりを見回すと、左に玉津卿をはじめとした公家たち、その後方に、網代あせびや百川刀斎などの各地の領主の姿、そして舞のいちばん見えやすい場所に、今上帝や皇族たち。御簾で隠れて中までは見通せないが、時折女官に何かを指示している縞の横顔がうかがえた。
 雪瀬の姿は見当たらなかった。百川漱や紫陽花の姿はあったので、おそらくそのあたりに座っているのだろうと思うのだけど、濃茶の髪の青年はどこを探しても影ひとつ見つけることができない。代わりに、ちょうど柱のあたりで武官に混じって立っている伊南の姿に目を留めて、桜は小さく微笑んだ。その微笑もひとときのちには、やわく剥がれ落ちる。

「月詠」
「なんだ」
「藍は、ビョウキなの?」

 不調を理由にぎりぎりまで控えの間にいると告げた女の横顔がよぎる。何よりも、心のほうがひどく不安定になっている気がした。

「さてな」

 藍とは縁浅からぬ関係であろうに、月詠の声はどこまでも淡白だ。銀を纏う睫毛を伏せがちに、朱塗りの盃を運ぶ男をしばし見つめ、桜はほとと息をついた。

「乞巧奠が終わったら、藍をお医者さんにみせてあげて」
「ふふ、よくよくお前は心根がヤサシイな。藍が厭うのもよくわかる」
「……月詠」
「医者ならいらんよ。あれがいちばんよくわかっている。罹る必要などないことを」
「どうして」
「さぁ、どうしてだろうな」

 盃を膳に置いて、男は戯れに桜の頤をすくった。抗うが、たやすく端正な指先で持ち上げられる。

「桜。お前、月の障りは?」
「ツキノサワリ?」
「まぁ、ないのだろうな。人形とはそういうものであるから。子を孕めぬ。お前はいつまでたっても生娘のように痛がるものな」

 宴の席にふさわしくない生々しい言葉を使われて、桜は閉口した。そも、藍の体調と月の障りというものに何の関係があるのかもわからない。適当に話をはぐらかされた気がして、「月詠」と桜は憮然とした声を出す。ふわりと朧にぼかすわらい方をし、月詠は首を傾げた。

「いとしい男の子を決して孕めぬお前と、厭うた男の子を腹に孕むのと、いったいどちらがより憐れであるのだろうな。男の俺にはよくわからぬ」
「つくよみ?」
「いつか、教えてくれ」

 おもむろに手を解くと、月詠は梨の最後の一切れを桜の口に押し込んだ。不意打ちのところに梨を咥えさせられて、桜は危うく胸を詰まらせそうになる。

「ほら、もうすぐお前の出番ではないか」

 すでにそ知らぬ顔で冷やし酒に口をつけている男は、舞台のほうへ顎をしゃくって言った。どうにも釈然としない思いに駆られつつ、桜は衣裾をからげて、席を立つ。

「その花挿は言い得て妙だな」

 翻った添え帯を引いて、月詠は嘯いた。

「いいえて?」
「橘の加護がお前を生かすか、それとも玉津卿がお前を殺すか。見物だ」
「私は、負けない」
「そうだな、お前の意思の力か、玉津卿の権勢欲かといったほうが正しいか」

 愉快そうに白い咽喉を鳴らすと、月詠は添え帯を離し、高らかに鳴った竜笛のほうへ目を戻した。