五章、乞巧奠



 六、


「入れ、アカツキ」

 朱鷺(とき)という男は物を考えるとき、扇をいじるのが癖だ。幼少の頃、父である今上帝より賜った扇を肌身離さず持ち歩き、ことあるごとにぱたりと扇の骨を鳴らして思案に耽る。いつものとおり尖った頤に無為に扇をあてがっていた朱鷺は、ふいと顔を上げ、おとなった客人を中へと招いた。
 南海由来の棕櫚の影がそよめく蔀戸から、音もなくひとりの男が滑り入る。アカツキと名乗るこの男は、常に無音を身に纏い、こうして朱鷺のかたわらに腰を下ろすまで衣擦れひとつ立てることはない。
 南海を治める領主網代あせびの邸宅、その離れである。アカツキは玉津卿の前では欠かさぬ面こそつけていなかったが、代わりに渋色の頭巾を目深にかぶっていた。それをほの白い指先が解く。どこから紛れ込んだか、風が蜜蝋の炎を揺らした。

「――玉津卿が動かれたか」

 アカツキの報告を受けた朱鷺はふぅむと扇の切っ先を顎にあてる。

「して、筝弾き姫の奏する筝の十三本の弦は?」
「前もって回収することは可能ですよ」
「替えた弦は取っておけ。のちのち使えるやもしれぬ」

 あるいはこれを皮切りに玉津卿を追い込むこともできるかもしれない。だらしなくかいたあぐらをかき直したりなどしながら朱鷺の思考はたゆまずめぐらされている。
 玉津卿の懐に、アカツキ、さらにユキを送り込んだのは朱鷺である。すでに二年ほど前になる。
 都では以前から、皇子たち、宮中に縁ある者たちの不審死が続いていた。かつて皇太子であった朱鷺とて、毒を盛られたことは数知れない。三年前、虚弱を理由に廃嫡され、文樹林という宮中の僻所に飛ばされたあとは平穏な生活を手に入れたが、そのさなかにも四季皇子と政争にあった第二皇子がやはり突然死している。これらいくつかの不審死に、玉津卿及び血縁の関与が疑われた。度重なる皇子の死、厭世ゆえの隠居や降下の末、皇太子の座を手に入れたのは第四皇子四季であり、玉津卿はこの外祖父であったからだ。
 朱鷺はひそかに手を打った。
 トウノという玉津卿のもとで長く諜報をしていた男をつてにアカツキらは卿に雇い入れられ、いくつかの仕事をこなして信を得たのち、半年前皇祇謀殺の兆候をつかんだ。あとはすでに知れたとおりである。朱鷺は皇祇の死を偽装し、その身をしばし隠したのち、葛ヶ原領主橘雪瀬に預けた。雪瀬を選んだのは、この男が宮中の政争にまったく関わりがなかったこと、そしてアカツキ自らの口添えによる。

「かなめは乞巧奠か」

 ふてぶてしくも褒美をねだってきた若き領主の顔を同時に思い出し、朱鷺は苦笑した。

「葛ヶ原というのは家督を継承するとき、橘の枝を捧げるのが常なのか? あやつ、褒美をやろうと言ったら、橘初代と光明帝をなぞらえて、己が家督継承時に捧げた枝が欲しいとのたもうた」
「自分が捧げた枝を?」

 これにはアカツキも意表をつかれたらしい。しばし瞑目したのち、何を思ったかくすくすと声を上げて笑い出した。物静かなこの男には大変珍しい。上機嫌らしい、と朱鷺は考えた。殿下、と置いた面に指を這わせながらアカツキはのたまう。

「今代の葛ヶ原領主は橘の枝なんか捧げてはいませんよ。彼はね、それの代わりに別のものを選んで、差し出したんです」
「別のもの?」
「ええ。まんまと騙されましたねぇ」

 嘯き、男は心底愉快そうに喉を鳴らした。





 平栄四年、七月七日。かくして乞巧奠はやってきた。
 筝弾き姫のつとめのある桜は、前日に式の催される翡翠院に入り、すでに女官から式次第の手ほどきを受けている。そして、迎えた乞巧奠当日。東の暁天はこれまでが嘘のように澄み、蒼く晴れ渡った。ここ数日うまく眠れていないせいで腫れぼったくなった目をこすり、桜は慣れない褥から身を起こす。

 あの日、雪瀬と別れたあと、桜はしばらく声もなく俯き、たたずんでいた。
 ――ゆかないと。
 別れ際の雪瀬の声が何度も脳裏をよぎって、過ぎ去った。本当は、待って、いかないで、と追いすがりたかった。だってまだ、何も伝えられていない。この三年間、胸の中でいたずらに積もらせていった言葉も、たくさんの「どうして?」も「何故?」も何ひとつ。けれど、桜は迷子にでもなってしまったかのようにそこにたたずんでいることしかできないのだった。身じろぎしようとすると、足がすくんだ。声を上げようとすれば、喉が塞がった。
 予感があった。
 ひとたび桜が求めれば、雪瀬は容赦なくそれを踏み躙るだろう。あの雪の降る葛ヶ原で追いすがる桜を突き放したように。あるいは諦めきれず都まで追いかけた桜の手を押し返したように。桜は、こわかった。雪瀬に拒まれることが、身体中が冷たくなってしまうくらい、とてもとてもこわかった。声を上げなければ、足を踏み出さねば、ただ失われるだけなのだとわかっていてもなお。もう、みじめな思いをするのはいやだ。いやだよ、と桜は唇を噛む。

 朝の翡翠院はさやかな静寂に満ちている。
 五穀米と塩だけの簡素な朝餉を終えると、昨日の女官に連れられて、控えの間に案内された。都の、特に宮中では風呂に入るという習慣がない。用意された水盥と手巾とで、桜は自分の身体を清めていく。髪も盥の水を使って洗うと、清潔な襦袢に着替えた。筝弾き姫の衣装もすでに一揃いぶん用意され、衣桁と櫃に置かれていた。
 二百年前の皇后筝姫にはじまる乞巧奠は、衣装もまたかつてをならっていると聞いていたが、確かに帯や紐が見慣れぬ箇所から垂れていたり、袴のようなものがあったりなどして、桜にはいったいどのように着付けたらよいのかわからない。夏らしい淡い蒼と濃藍をしたそれを掲げたきり固まってしまい、そろりと几帳から顔を出した。女官がいれば捕まえて尋ねようと思ったのだが、あいにく別所に行ってしまったらしい。さりとて他に心当たりのある知り合いがいようはずもない。衣を胸に抱いたまま途方に暮れていると、不意に外のほうから荒々しい足音が鳴った。

「こんなところにおったか! 探したぞ、桜」
「……蝶?」

 軽く息を弾ませて飛び込んできた少女の姿に、桜は目を瞬かせた。いつもの小袖ではなく、重たげな襲に裳をつけているせいで少し雰囲気が異なって見える。花蝶の紋の描かれた唐衣に触れて、きれい、と心からの賛辞を贈ると、蝶は気恥ずかしげに顎をしゃくって、「桜は着替えぬのか」と別のことを聞いた。

「着方がわからない」
「なんじゃと? おい、タマ」

 眉根を寄せた蝶が、追いついてきたらしい女官を呼びつける。「タマ」はともかく、「縞さん」には覚えがあった。以前、真砂と宮中にもぐりこんだ折、窮地を助けてくれた蝶付きの女官さんだ。桜がぎこちなく先日のお礼を口にすると、「姫様のお守りに比べれば、なんということはありませんよ」と縞は胸を張った。

「タマ。不手際らしい、式事の女官め、桜に衣の着方を教えずにどこぞへ行ってしまったらしい。どうにかならぬか」
「それはまぁ。ちと衣を拝借いただけますか」

 桜が抱き締めていた衣を取り上げ、縞は慣れた手つきで垂れ衣や紐をするすると検分していく。それから桜に単に袖を通すよう言い、自分は濃色の長袴を取った。手伝われながら袴を着付けてもらい、さらに淡青の単、表着と重ね、天河のごとき流水の描かれた二藍の唐衣をしまいに掛ける。髪をひとつに結び、面には薄く化粧をほどこして、唇に紅を刷いた。縞によって手際よく着付けられていく桜をうなずきながら見ていた蝶は、「さすがタマ。織姫が舞い降りたようじゃの」と満足げに唸った。

「桜、時間はまだあるか」
「……たぶん、だいじょうぶ」
「ではタマ、おぬしは少し外へ出ておれ」

 ひらりと尊大な態度で手を振る蝶であるが、縞はいつものことと心得た風だ。思えば、蝶は桜を探してくれていたようだったし、それは衣の着付けのためではないだろう。桜は重い衣にうずまるようにして座し、蝶を仰いだ。

「何かあった?」
「うむ。甘味のときはほれ、あまり話せなかったであろ。帰りは桜サンもずっと黙りこくっておったから。のう、蝶がいない間何かあったのか?」

 定刻になっても待ち合わせの水茶屋に現れなかった桜を探してくれたのは蝶だ。そのときも何かあったのかと訊かれたが、桜は唇を引き結んで頑なに沈黙を通した。自分でも判別のつかない感情で胸がいっぱいで、いったいどんな風に、何から蝶に話したらよいのかわからなかったのだ。そも、蝶を元気付けようと思って市にやってきたはずなのに、とますます胸が塞がってしまう。

「なにも。なにもなかったよ」
「桜」

 精一杯の強がりで首を振ると、蝶はとたんに険しい顔つきをする。どうして嘘をつくのだとその目は言いたげだった。翠の眸に真正面から見つめられると、心のやましさを刺されるようで、桜は下方へ目を落とす。

「……雪瀬にあった」
「うぬ?」
「あの日、蝶と別れたあと。たまたま会ったの。小間物屋さんで、紫陽花もいて、葛ヶ原へのおみやげを探していて。乞巧奠が終わったらここを発つのだって。次に会えるのは一年も先で、秋には、あじさいを、奥さんにするって、」

 これまで聞いてきた言葉をひとつひとつなぞるたびに、胸が締め付けられてたまらなくなる。すん、と鼻を鳴らすと、「ひどいことを言う奴じゃのう」と蝶は顔をしかめた。

「雪瀬は、ひどくなんかない」

 とっさにむっとなって反論する。呆れた様子で蝶は苦笑した。

「そうか。ひどくないか」
 
 ――ちがう。蝶の言うとおりだ。
 ひどい、と思っている。ひどいひとだと、思っている。だって、あのひとは。桜と一度だって目を合わせてくれなかった。その眼差しの先が知りたくて、果敢ない表情の裏側にひそんだものを見つけたくて、桜が懸命に爪先立ちしても、いつも捕まえられない雪片さながらにひいらりかわして逃げてしまう。ずるいひとだ。雪瀬はいつも、卑怯でずるいひと。

「桜」

 苦笑をおさめて、蝶は懐から結んだ組紐を取り出した。銀と青で織られたそれはもとはふたつであった紐が結い合わされてひとつになっているように見える。「今年の筝弾き姫へ」蝶は差し出すと一緒に言い添えた。

「乞巧奠のおまもりじゃ。筝弾き姫のつとめがうまくいくよう。桜の想いが届くよう。蝶が祈りをいっぱいこめておいた。この国一の姫皇女の祈りぞ? きっと効く」

 蝶、と桜は目を瞠って、差し出された組紐を見やる。拠り合わされた組紐はよくよくうかがえば、慣れないひとの手で作られたものだとわかる。きっと蝶がその手で結ってくれたのだろう。時間だってたくさんかかったにちがいない。思うと、うれしいというよりは、どうしたらよいかわからなくなってしまって、桜はかぶりを振った。もらえないよ、と呟く。桜は、蝶に何もあげられていない。いつももらうばかりで、与えられるばかりで、このちっぽけな手はひとつだって蝶に同じだけのものを返せてなどいない。

「ふふん。桜サンは馬鹿じゃなぁ」

 桜の手のひらに組紐をかけて、蝶は肩をそびやかした。

「蝶がもらってほしいからあげるのではないか。それだけのことであろ?」

 瞬きを、した。
 そんなことを言われるのははじめてで、そうであったからどんな顔をしたらいいのかわからない。戸惑いがちに目を落とし、手のひらにかけられた組紐をかたちを確かめるように握り締める。筝弾き姫のつとめがうまくゆきますように。想いが届きますように。いっぱいの祈りをこめて結われた組紐は不思議と温かなぬくもりを宿しているように思えた。

「蝶。わたし、」

 届くだろうか。
 こんな不毛で、空回ってばかりで、あがいてばっかりで、みじめったらしく、きれいでもない。嫉妬に振り回され、欲にまみれて、それでも投げることもできずにいる。
 恋だった。厭わしく、されどひとかけの宝物のような、それは恋だった。

「わたし、……わたしね、」

 口にしようとすれば、息がつかえてうまく出なくなった。一度呼吸を整えた桜に、「“わたしね”?」と蝶が継ぐ。緩やかに繋がった相槌に、泣きたいような、それでいてうれしくてたまらないような気持ちに駆られた。うん、とこぼれそうになった嗚咽をのみこみ、蝶の手のひらに額をくっつける。うん。蝶。わたし。わたしね。

「蝶が大好き。かならず筝弾き姫をやりとげるよ」

 そして、あなたと対峙する。もう一度。
 雪瀬。
 これが、さいごだ。