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三章、忌子(1)




 南海事変のあと、南海領主網代あせびは蟄居に処せられた。
 もともと、あせびは南海連合の長として三海――黒海、白海、青海を取りまとめる立場にある。三海の反乱を鎮圧したことにより、処罰の軽減はされたが、あせびもまた、三海に連座する形となった。この処置をあせびは謹んで受け入れ、屋敷の門を固く閉じた。
 南海事変はこのように歯切れの悪い結末となったため、代わりに都の住人を賑わせたのは葛ヶ原領主橘雪瀬だった。この事変で、葛ヶ原の活躍はめざましかった。たった数百の兵での湊城の奪還、逃亡した白海領主の捕縛。もとより橘颯音が人気であったから、ひとびとの高揚はそのままこの弟に向いた。橘雪瀬ならともしたら、兄には「できなかったこと」を成し得るのはないか。ささめく声は、黒衣の丞相と桔梗院の名が上がると、あな恐ろし、とすぐさま口を手で覆ったため、まだ表だっては叫ばれることはなく――。
 戦の終結に沸き立つ大路を雪瀬は走る。
 都察院による漱の取り調べ。都へ向かう道中、桜からもたらされたのは、雪瀬にとっても寝耳に水といってよい話だった。そも、彼女が都まで出てきたこと自体、雪瀬にはあずかり知らないことで、本来なら桜はもちろん、彼女に簡単に従ってしまう無名にも小言のひとつはくれたことだろう。ただ、このときばかりはそうも言っていられなかった。

「漱が都察院に連れて行かれてしまったの」

 聞けば、クレツの商人との不正取引の疑いがかかっているのだという。クレツと言われてすぐに思い当たった。おそらく湊城から西大陸船を退却させたときだ。漱は裏で何らかの取引をクレツの商人とした。
 雪瀬は都に戻ると、その足で都察院へ向かった。戦帰りの兵がちょうど大路を歩いていたため、見物人で道は混み合っていた。押し合いへし合いするひとの間を巧みに抜けて、雪瀬は都察院の表門を叩いた。開門時間を過ぎたため、表門は閉ざされている。それでも構わず叩いていると、戸口につけられた小さな窓を開けて、門衛が煩わしげな顔を出した。

「なんだ、うるせえな。今日はもう閉門してるぞ」
「嵯峨(さが)卿に伝えろ。葛ヶ原領主橘雪瀬が来たと」

 雪瀬は橘紋の入った懐刀を取って、窓から中へねじこんだ。「ああ?」と鼻頭に皺を寄せた男も紋入りの懐刀を見るに至って、表情を引き締め、一度奥へと引っ込む。上級官吏にうかがいを立てにいったのだろう。

「御通しせよとのことです」

 戻ってきた門衛は口調を丁寧なものに変え、雪瀬を中へ招いた。敷居をまたごうとして雪瀬は桜を振り返る。雪瀬としては門の外に置いていくつもりだったのだが、見つめ返してきた眼差しには、容易に言うことを聞き入れなさそうな頑なさがあった。雪瀬は嘆息する。そうすると何事もなかったかのように、無名をともなった桜が続いた。
 都察院と敷地内にある因獄は、雪瀬にとっても知らぬ場所ではない。五年前、虜囚の身になったとき数か月間ぶちこまれた場所である。あのときも都察院の長は嵯峨卿がしていたが、人事に変化はなかったらしい。案内された客間に腰を落ち着けると、神経質を絵に描いたような細面の男が現れた。

「都察院長官の嵯峨だ」

 糸目をさらに細めて名乗った嵯峨に、隣に座した桜が小さく肩を震わせた。

「このあと別件の詮議が入っている。話は手短に済ませてもらいたい」
「もとよりすぐに済ますつもりです。先日囚われた百川漱について、話をするために参りました」
「ああ。クレツ商人の件か」

 少し眉をひそめただけで、嵯峨はすぐ思い当たったらしい。
 その件です、と雪瀬は言った。

「単刀直入に言いましょう。百川漱の身柄はわたしに返していただきたく」
「何故?」
「あの者がクレツ商人と不正取引をしたという事実はないからです」

 嵯峨は微かに頬を引き攣らせた。笑ったらしい、と気付いた頃には、もとの無表情に戻って、抱えていた書物をわざとらしく開いた。

「その証拠はどこに?」
「では、不正取引をしたという証拠は何です」
「別のクレツ商人から抗議が寄せられた。とあるクレツ商人から『クレツにて王が危篤』との情報が入り、急ぎ湊城から離れ本国へ戻ったが、まったくの嘘であったと。情報を入れたクレツ商人と百川の間で何らかの取引があったらしい」
「そのクレツ商人の身柄はおさえているのですか」
「これ以上、そなたに話す話はないな」

 嵯峨がそばに置いてあった鈴を鳴らすと、小姓というにはとうの立った男が襖を開いた。先ほど雪瀬が預けた懐刀を盆に載せている。帰れ、ということらしい。雪瀬は懐刀に一瞥を送って、眸を眇めた。

「わたしの話はまだ終わってませんが」
「私からできる話は以上だ。百川漱は我々なりのやり方で今話を聞き出しているところだ。お帰りを、葛ヶ原領主」

 腰を上げ、雪瀬を見下ろす嵯峨の目はいっそ侮蔑とすら言える冷ややかさである。

「それとも、またそなたも蔵にこめられるか? 獄吏は代替わりしたが、竹箒も、蜜蝋も、以前と同じものを使っているらしい。また泣き喚いてみっともなく兄を呼ぶか。そなたのような卑しい者がのうのうと領主面をしていること自体、虫唾が走るのだ」

 小姓の男が持っていた盆を嵯峨が蹴り飛ばす。跳ね返った懐刀の鞘が雪瀬の肩に当たった。頬を歪めて雪瀬は顔を紅潮させた嵯峨を見やる。

「……さが、」

 それまで成り行きを見守っていた桜がふわりと立って呼び止めようとするが、伸ばしかけた手は届く前にぴしゃりと振り払われる。虚を突かれた様子で、桜は目を瞠らせた。それを見下ろす嵯峨の横顔にも一瞬だけ微かな懊悩めいたものが浮かんだが、すぐに無表情に覆われて消えてしまった。――そういえば、嵯峨は月詠の十人衆のひとりだった。

「帰れ」

 嵯峨は桜に向けて低い声で言った。

「おまえも、二度とその顔を私や月詠さまに見せるんじゃない」

 襖が閉じられる。遠ざかる足音を聞きながら、雪瀬は桜の背中に目を移した。小さな背中はしばらく振り返ることなく、親しい友人に絶縁された者のように所在なくそこに立っていた。やがて振り返った桜は目を伏せて、だめだった、と呟く。苦くわらう彼女の表情が透明な玻璃のようで、雪瀬は痛ましくなってしまって口を閉ざす。





 とはいえ、嵯峨卿の対応は雪瀬にとって想定内ではあった。あちらも都察院の命令を出して漱を連行した以上、雪瀬の抗議程度で返すようには思えなかったからだ。この場合はただ、葛ヶ原領主が自ら足を運んで抗議を申し出たという事実さえ残ればよい。
 翌朝、雪瀬は護衛の千鳥だけを連れて朝廷に向かった。もとより昼前に参内するよう今上帝から呼び立てられていたのだ。網代あせびが蟄居の身となったため、南海事変の報告は雪瀬が代わって、朱鷺にしなければならない。いつもの手順を踏んで参内すると、しかし現れたのは侍従の稲城だった。

「急務が入り、朱鷺陛下はこちらへは来れぬそうです。別の日に時間をもうけるゆえ、すまぬ、と言伝を受けました」
「遅くでも構わないので、お話はできませんか」
「今日は難しいかもしれません。実はうちうちの話ではありますが」

 人払いをした控えの間で、稲城はさらに声を落とした。

「院の病がまた悪化しておられる。先ほど、月詠様が院宣をお持ちになり、御前会議の招集をかけました。おそらく何か、院のご遺言のようなものが発せられるのではないかと私は見ています」
「月詠が……」

 せわしなく官人が往復する渡廊を雪瀬は見やった。御前会議は上級官吏を集めて秘密裡に開かれるため、一介の領主に過ぎない雪瀬は出席することができない。南海の報告にかこつけて漱の釈放を願い出るつもりだったのだが、難しそうだ。雪瀬がそのように現状について話すと、この誠実な老臣は痛ましげに眉根を寄せ、「帝には折を見て私から必ず話しましょう」と請け負ってくれた。

「途中までお送りしましょう」

 稲城としても、南海事変の仔細を先に聞いておきたいのだろう。秋の陽が射す渡廊をいくつかの話をしながら歩く。軒から見上げた空は鱗雲が浮かんで、すっかり秋の様相だった。すれ違いざまに気付いた下級官吏がすばやく道を開ける。二年前、はじめて参内をしたときは、違った道を案内されたり、袴裾を踏みつけて転ばされたり、さまざまあったものだが、ずいぶん扱いが変わったものだなと苦笑気味に思う。南海の報告をひととおり終えると、雪瀬は疑問に思っていたことを改めて口にした。

「月詠はいったい何を考えているのでしょうか」
「さあ、私にもそれは。あせび殿の蟄居は正直を申しまして、帝にも思惑外のことでした。蟄居を主張したのは嵯峨卿を中心とした一派ですが……、嵯峨卿は月詠様の十人衆でおられた方ですから」
「月詠の差し金というわけですか」

 左様、と稲城はうなずいた。

「帝には宮中に強力な後ろ盾がございませぬ。帝をお支えしているのは桔梗院派に属さないわずかばかりの公家衆や、あなたさまや網代あせび殿といった遠方領主の方々。特に、廃嫡されていた時代から後ろ盾になってこられたあせび殿を失った痛手は大きい」
「あせび殿は検察使も兼ねておられましたからね」

 検察使というのは都を守るためにもうけられた役職で、三海をまとめあげる手腕を買われ、長い間あせびがついていた。しかしこたびの蟄居を受けて、いったんの空席となっている。検察使の権限で都に置いていたあせびの兵もすべて南海へ戻された。

「個人的な感想ではあるのですが」
「はい」
「月詠様には、どうもあちらつかず、こちらつかずのところがある。玉津卿を追い落とし、朱鷺陛下を即位させたかと思えば、自らは院の側につき、今度は朱鷺陛下の力をそぐ真似をする。あたかも朝廷自体の力を少しずつ削ぐように……。互いに争い合った結果、二十を数えた御子様がたも、今では朱鷺陛下のほかには皇祇殿下、月殿下しか残ってはいない。偶然かとは思いますが、時折私は恐ろしく感じるのです。これがもしもあの方が意図的に招いた結果ならと」

 稲城の嘆息を雪瀬は冷ややかな予感を抱きながら聞いた。風向きがおかしい、と風の里に生まれた者らしい感想を抱く。少し前まではこうではなかった。月詠は南海事変で何ひとつ手を下していない。むしろ朱鷺は迅速に南海の騒乱をおさめ、名を挙げたはずだった。それがいつの間にか、朱鷺に向けて逆風が吹いているように思える。

「稲城様! こちらにいらっしゃいましたか」
 
 蔵人らしい青年が対面から足早に歩み寄る。「失礼」と稲城は雪瀬に断ってその場から離れた。南海に関する報告はすでに済ませてある。それなら先に、と稲城に目礼だけを返して、雪瀬はひとり渡廊を歩き出した。欄干越しに見える前栽は秋草がほうぼうに生えて、きれいに敷かれたはずの白砂を隠してしまっている。橘の庭とて以前は同じようなものだったが、そういえば桜が戻ってから、庭師が来ることが増え、こまごまと手が入れられるようになった。今は薄紅の萩が盛りだろう。そのようなことを何とはなしに考えていると、手前にある植え込みがかさりと音を立てた。雪瀬は瞬きをする。飼い猫か何かが迷い込んだのだろうか。植え込みからうまく抜けられなくなってしまったらしく、かさり、かさり、と時折色付いた葉が揺れている。いったいどこを引っ掛けたんだろう、と思って雪瀬はすこしわらった。

「ほら、出ておいで」

 欄干から植え込みをのぞき、腕を伸ばす。外に出られなくなったらしい猫を引き上げてやろうと思ったのである。だが、ちがった。捕まえたものがいやに柔らかく、そのくせ思った以上に重くて、雪瀬は眉をひそめる。葉っぱの合間からひょこりと頭を出したのは、ひとの子だった。

「な――」

 さすがにひとの子を引き当てるとは思わなかった。危うく落としそうになったのをすんでで抱え直す。けれど、子どもの動きは俊敏だった。雪瀬の手首をがぶりと噛んで、腕の中から飛び出すと、瞬く間に床板の下にもぐりこんでしまう。噛みつかれた手首には赤い歯形がついていた。ひとの子というより、小さな獣だ。
 なんだあれは、と雪瀬は手首をさすって、あたりをうかがう。ちょうどひとがいないらしいことを確認すると、欄干からひらりと庭に下りた。そう深い思惑があってのことではない。猫であるとか、子どもとか、落ちているものや怪我をしているもの、そういったものたちにどうにも惹かれて、構ってしまうのが雪瀬なのである。そればかりは、年を重ねても、肩書ぶんの老獪さを身に着けても変わらなかった。床下をのぞきこむと、子どもは暗がりの中、ぎゅっと柱を握りしめてこちらを警戒しているようだった。

「なんで隠れてんの?」

 声をかけると、顔を強張らせて奥へいってしまおうとする。なんだか見覚えがある、と妙な懐かしさに駆られた。触れるだけで毛を逆立てるような少女を拾ったのは、もう何年前になるだろう。小さく笑みを引っ掛けて、雪瀬は植え込みのそばにかがんだ。存外鋭い棘を持つ枝を避けて葉をいじっていると、おそるおそるといった様子で子どもが顔を出す。それでもきっちり雪瀬からは数歩あけている警戒ぶりだ。
 横目でそれとなくうかがった子どもの身なりは少々異様だった。まず不自然に長い前髪が目元を隠している。艶やかな黒髪はもとは結ってあったのが半ばほどけてしまっているせいもあって、ちょっと見たところでは女か男かもわからない。年の頃は三つくらいだろうか。泥や葉っぱで汚れていたが、上質な水干を着ている。水干、ということはやっぱりおのこなのだろう。植え込みの鋭い棘で作ったのか、腕のあたりに擦り傷があった。雪瀬は手巾を裂いて、おのこを手招きした。しばらくかかったが、少しずつ近づいてくる。雪瀬が何者かを前髪越しに判じようとしているらしい。

「おいで。なにもしないから」

 手を差し出すと、何かを確かめるように端のほうを噛んだ。何度か食んでから、おそるおそるといった風に見上げ、そろりと口を開く。唾液で湿った手はそのままにしておき、雪瀬は子どもの腕を取った。ちょうど血止めの葉が生えていたのでそれを拝借して、手巾で結んでやった。ほとりと首を傾げたまま、子どもは不思議そうにそれを見ていた。

「おしまい。それで、おまえはどこから来たの?」

 迷い子なら送り届ける必要があるかと思って訊いたのだが、子どもは結ばれた手巾を握り締め、一心に雪瀬を見上げてくる。よく見ると、きれいな顔立ちをしたおのこである。泥で汚れているが、膚は処女雪のように白く、頬にかかった黒髪は夜天にも似た青みを帯びて美しい。戯れに手を伸ばす。何を考えたわけでもなく、ただ、目元を重く覆っているそれを取り払ってやろうとしたのだった。長い前髪をさらりと雪瀬は指でのける。

「――……」

 目が合った瞬間、子どもの呼吸が止まったのがわかった。獣じみた叫び声が上がって、手を振り払われる。驚いた雪瀬が指をのく前に、子どもは腕の中からすり抜け、殿の奥へ駆けて行ってしまった。

「……あれは」
「月皇子です」

 思いがけなく返された言葉に雪瀬はぎくりとして顔を上げる。きざはしのそばに話を終えたらしい稲城が立っていた。稲城の視線の先では、駆けていた子どもが侍女に見つかって抱え上げられている。

「桔梗院と藍様の御子です。年明けで三つになられますか」
「そう、ですか」

 顎を引き、雪瀬はきざはしをのぼる。
 無思慮な行動をした雪瀬を咎めるかと思ったが、稲城は苦笑気味に「鬱金様以外で、あの皇子と『会話』ができた方はめずらしいですよ」と呟いた。

「鬱金様、ですか」
「玉津卿の奥方の。今は藍様に乞われて、月皇子の乳母をしておるのです」
「そうでしたか」

 そういえばどこかで一度耳に挟んだ話の気もするが、今はそれよりも。

「皇子のあの前髪ですけど」
「ああ、藍様が隠されたのですよ。生まれながらに痣があるとか……。不憫なものです。藍様とよく似た美しい御子でしょうに」

 嘆息した稲城に、雪瀬は曖昧にうなずく。
 藍とよく似た?
 ちがう、と雪瀬は思った。あの子はそのようなものじゃない。
 艶やかな黒髪、処女雪を思わせる白磁の膚。
 そして深い緋色の眸を、あの子はしていた。




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