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三章、忌子(3)



 橘颯音に会った、と。
 都に戻る道中、薫衣は雪瀬に報告した。つとめて平静を装って話したつもりだったけれど、どことなく声が震えてしまったかもしれない。おそるおそる対面をうかがうと、雪瀬は存外落ち着いた顔つきで「そう」とうなずいた。聞けば雪瀬も漱から颯音の生存を示唆されていたらしい。

『久しぶり、薫ちゃん』

 現れた男は、薫衣の記憶にある面影とは少し違っていた。何しろ颯音の「刑死」が伝えられたあの夜から、六年の月日が流れた。あのとき少女といってよい年頃だった薫衣はもう行き遅れがいいところの女で、あの頃から歳不相応の落ち着きを払っていた青年もまた面差しに六年分の歳月を重ねていた。最初に思ったのは、ああ少し痩せたな、ということだった。男はひとふりの刀のようだった。もとより研がれていたものがますます研ぎ澄まされて、今は触れれば身を斬らんばかりだ。
 声をかけられても、薫衣はしばらく呆けた顔で颯音を見上げていた。もしも――。そんな夢想は数えられないほどした。もしも、このひとが生きていたらわたしは。けれど、そのときの薫衣はとっさにそばに立てかけていた杖を引き寄せた。薫衣は足を負傷している。まずいな、不利だ、と考えてしまう自分は、まったく性分としか言いようがない。鋭く空を切って杖を男の首筋に突きつける。刀だったら、皮膚が薄く切れていたことだろう。薫衣は冷ややかに眸を眇めた。

『……本当に、あなたなのか』

 問いは端的だった。首にあてがわれた杖にちらりと視線を落とす颯音も、さしたる表情は浮かべてはいない。長いようで短い視線の交差があった。『さあ、どうだろう』と雪瀬に似た――否、雪瀬のほうがこいつに似ているのか――曖昧なはぐらし方をして、颯音は手の甲で杖を払った。それでたやすく下ろされてしまう程度には、そのときにはもう力を込めていなかった。

『あなたは――』
『アカツキ、と名乗っている。今は南海の食客をしている』

 暁とはまた皮肉な名をつけたものだな、と思う。薫衣の胸のうちを知ってか知らずか、颯音は淡い苦笑めいたものを浮かべて、薫衣の腰掛けた置石に背中あわせに座った。かたわらに生えた葉肉の厚い樹を潮風が揺らしていく。細かな網の目のようになった枝から燦然とこぼれる光に、薫衣は目を細めた。生きていたのか、と腹にすとんとそんな言葉が落ちる。そうか。あなたは、生きていたのか。

『それで、いったいどんな用があってあなたは私の前に現れたんだ?』
『きみの顔が見たかったんだよ』
『嘘だね』
『半分はね』
 
 それも嘘だ、と薫衣は胸中で呟いた。ずっと行方をくらましていた男が今さら好いた女の顔見たさにのこのこ現れるわけがない。それくらいは薫衣も男を知っているつもりだった。

『六年前、老帝と丞相を国政から取り除くために、俺は朱鷺と手を組んだ』
『陛下と?』

 これは薫衣にとっても初耳だった。

『葛ヶ原領主に玉津を討たせたのは俺だよ。陛下に進言して皇祇を預けさせたのも』
『じゃあ、あのとき玉津卿にとどめを刺したのは』

 逃げる玉津の首を斬り落とした面の男は、未だに身元がわかっていない。確かな予感を抱いて尋ねた薫衣に、颯音はそっけなく、さあ、と呟いた。薄く笑う気配。背中越しに橘颯音は今どんな顔をしているんだろう。

『だけど、今や今上帝は動きづらい身の上だ。そろそろ世間の目も緩くなってきたことだし、直接葛ヶ原領主とやり取りをできるようにしたい。そちらとこちらを繋ぐ連絡役を見繕ってほしいんだ』
『うちの領主にどんな用がおありで?』
『丞相がよからぬことを企んでいるらしいのは君も気付いているでしょう。俺は彼を取り除くつもり。『雪瀬様』は葛ヶ原領主としてどう考える?』

 葛ヶ原領主、とわざわざ添える颯音は酷薄だ、と薫衣は思う。おまえは知っているはずなのに。あいつが殺すのも争うのも奪うのも、本当は耐えがたいほど嫌いだってことを知っているはずなのに。……ただの「雪瀬」の答えを聞く気はないのだ。
 しばし思案したのち、薫衣は首を振った。

『私では返答しかねる。雪瀬様が必要だっていうんなら、連絡役を用意するよ。返事はどうしたらいい?』
『都に懇意にしている薬屋がいる。そこに言づけてくれればいい』

 颯音は胸から引き抜いた紙切れを背中越しに薫衣に寄越した。今日薫衣に接触をはかったのは、ひとえにこの紙切れを渡すためだろう。颯音をよく知り、雪瀬をよく知る薫衣は決して申し出を無下にはできない。人選は的確だった。

『『雪瀬様』の色よい返事を期待しているよ』

 どこまでも他人行儀に颯音は言い添えた。
 話し方も声も、自分が知る愛した男に違いない。けれど、本当に。本当にこの男は薫衣がかつて愛した男なのだろうか。確かめたくなって、握り締めていたこぶしを開く。触れれば、わかる。そんな気がしたのだけれど――。急に吹いた強風が立てかけた杖を倒しそうになり、薫衣はとっさに、そちらへ手を伸ばした。

『それとも、君が連絡役になる?』
『え』
『一緒に来る? 俺と』

 まるで天啓のように、その声は背中越しに降った。
 薫衣は杖をつかんだまま、瞬きをする。いっしょ。いっしょに。このおとこと、いっしょに? とたんに身体中をかけめぐった歓喜は、思わず薫衣をおののかせるほどだった。

『そ……、』

 珍しく言葉につかえて、薫衣は己の肩を握り締めた。
 嘘だ、と思う。嘘だ、このひとが薫衣を連れてゆくわけがない。そんな甘いひとじゃない。それに、薫衣がもし兵を置いて、颯音についていってしまったら。雪瀬は、どうなる。あの今にも泣きそうな顔で、けれどひとりで覚悟を決めて、領主の座についた少年はどうなるんだ。

『わたしは……』

 歯噛みして俯く。そのとき、背後で男が立ち上がる気配があった。

『では、黒海領主の首級はお届けしました。五條殿』

 身じろぎできない薫衣を置いて、男は離れていく。薫衣は固く目を瞑った。今振り返ったら、たぶんもうこの衝動をやり過ごせない。大事だと思ってきたもの、この六年己を支えてきたもの、何もかもを捨てて、颯音の背を追ってしまう。だって、十代の五條薫衣はただ橘颯音の背だけを追っていたのだもの。それだけがすべてだったのだもの。耐えて、耐えて、耐えて、それでもこらえきれなくて、やっぱり振り返ってしまう。けれどそのときにはもう、まっさらな埠頭にはひとつの人影も見当たらず、ただ穏やかな風が薫衣の頬にかかった髪を撫でた。
 だから、あの言葉はただのまぼろしだったのだろうと薫衣は思うことにした。
 

 颯音が渡した紙切れを見せると、雪瀬は思案げに腕を組んだ。どうなさるおつもりか、と問えば、なやんでる、と素直に打ち明けられる。

『その話だと、兄は南海と朱鷺陛下のもとで動いている』
『らしいな』
『だけど、俺は葛ヶ原の人間だから、利益が重なるときもあれば、重ならないときもあるかもしれない。それも込みでって言うんなら、確かに切り札のひとつに持っておいたほうがいいんだろうね』

 雪瀬は手のうちでもてあそんでいた紙を畳むと、胸に入れた。蜜蝋の明かりに照らされた横顔を眺めつつ、薫衣は気にかかっていたことを口にした。

『なあ雪瀬。おまえは実際、丞相月詠と争う気はあるのか?』

 虚をつかれた様子で、雪瀬は薫衣を見た。

『……争わないで済むならそれがよいと思う』

 実に率直な答えだった。
 雪瀬は苦笑する。

『というのは甘い?』
『甘い』

 冷たく突き放してやって、薫衣は息を吐き出した。何故か滲むような安堵が胸に広がったためだった。

『でもあなたらしくていいんじゃないか』
『らしい?』
『颯音や陛下が考えることがいつも正しいとは限らない。たとえそれがいちばんてっとり早くて安全な道でも、ほかに別の道がないとも限らない。あなたがそうしたいって思うなら、あなたはあなたの道を行けばいいんだ。私も他の者たちも一緒に考えるし、歩くから』

 蜜蝋の赤い炎を眺めながら呟くと、短い沈黙のあと、うん、という声が返った。雪瀬はふいに子どものように背を丸めて、うん、ともう一度言った。何かをこらえる声だった。
 時間というものは不思議だ。あんなに愛したひとなのに、今も愛する気持ちはそのままなのに、昔と同じようには愛せない。いやおうなく流れる時間がそれぞれの在りようを変えてしまった。そう考えるとき、他方で薫衣の胸には切実な祈りめいたものが湧き上がる。
 何もかも変わってしまっても、戻れなくても、それでも。
 行く道の果てでもう一度出会えたら、と。

「薫衣様……!」

 駆けてくる足音に回想を止めて、薫衣は視線を上げた。

「なんだ、騒々しい」
 
 この騒々しさといえば、雪瀬の小姓の竹だ。案の定、「大変です!」と直後息を切らした少年が薫衣の部屋に飛び込んできた。読みさしの書物に栞を挟んで、薫衣は眉をひそめる。

「何がどう大変なんだ?」
「ひとまず、こちらにいらしてください。私、肩をお貸ししますから!」

 華奢な少年の肩を借りるのは心もとなかったので、いいよ、と言って薫衣は杖を引き寄せた。入り口の框にひとが集まっているのが見える。早馬で飛んできたらしい男が跪き、雪瀬が書面らしきものを開いていた。その横顔が思ったより厳しかったので、本当に何かあったらしい、と薫衣は察する。集まった一同を見渡して、雪瀬が口を開いた。

「桔梗院によって召集された御前会議が、昨晩評議を終えたらしい」

 少し前に丞相月詠が院宣をもって、会議の召集をかけていたことを薫衣は思い出す。御前会議は諸領主を入れず、上級官吏だけで秘密裡に行われるため、内容は閉会まで公にされないことが多い。

「今上帝にはまだ御子がいない。ゆえに、皇太子には月皇子を、ということらしい。院の強い意向があって、御前会議はこれを承認した」
「だが、まだ二つの皇子だぞ」

 薫衣は呆れた声を出した。

「もちろん陛下もすぐに譲位なさる気はないだろうけども」
「月皇子の後見は?」
「丞相月詠」

 闇夜がこちらに忍び寄る幻影を見た。
 今になって颯音が薫衣たちの前に現れたのは、よもやこのことを予期していたためだろうか。こぶしを握る薫衣のかたわらで、まあた厄介なことになってきましたねえ、と漱がのんびりと嘆息した。





 ばーば、と月は鬱金のことを呼んでいる。
 ばーば。ばーば。どこにいるの。
 月はろくに母親に顧みられない子どもだった。母親の藍はとてもきれいな女のひとだったけれど、月を見るたび、この世でいちばん汚いものを見つけたような顔をして目を伏せる。藍は月の緋色の眸をことさらに嫌った。ろくに目も開かぬうちは頭巾をかぶせられていたらしいけれど、前髪を伸ばしてからはそれで目を隠した。
 これならよいでしょ、かあさま。
 だから、つきのほうをみて。
 ひととろくに話さず、話し相手といったら菜子と鬱金くらいしかいない月は言葉の覚えが悪かった。お話したいことはたくさんあるのに、言葉にすると、うー、という呻きみたいなものしか出てこない。母さまを見つけたときはやはりうれしくて、あー、と言うのだけども、母さまは月の前髪を見るたび、ひどく傷ついた顔をして、「さわらないで」と衣裾を翻した。

「おまえなんか」

 母さまはいつも薄暗い目をして、月をいたぶる言葉を口にする。それでいちばん傷ついているのは母さまのほうなのに、どうしてもやめられない。

「おまえなんか、しねばいいのよ」

 しねばいい、という意味が月にはよくわからなかった。
 菜子に訊いても、あー、とか、うーとか言うだけなのだ。

「それは月様を愛しているという意味ですよ」

 衣を着付けながら、鬱金がうふふと笑って教えてくれた。うふふ、うふふ、と能面みたいな顔で笑う鬱金が月はあまり好きではなかったけれど、いちおうまともに会話をしてくれる者といったら鬱金しかいないので、うー、とうなずいた。鬱金は、月のうーとかあーとかいうつたない言葉でも何故か意図することを汲み取ってくれる。

「月様。わたくしのかわいい月様。早く帝におなりあそばせ」
「うー」
「そして史(ふみ)殿を宮中に呼び戻してくださいね。中務卿ですよ。わたくしのかわいい月様。わたくしがいなくなってもそれだけは覚えていてくださいね。いいですか、中務卿です」
「うー」
 
 だけど、鬱金もときどき言葉が通じなくなる。うわごとのようなものを呟き続けながら、ここではないどこか遠くを見ている。それが月は恐ろしくて、かなしかった。誰も本当は月のことを見ていないんだな、とわかるから。

「あーうー」
「月様。いらっしゃいましたか」

 几帳をめくって顔を出すと、鬱金が顔をほころばせた。ひと月後、年が明ければ、月は三歳になる。三年祝いと一緒に行われる大事な儀式のために、明日からひと月の間おこもりをするのですよ、と女官たちが前々から言っていた。ばーば、と呼んで、月は帯を示す。自分でやってみようとしたが、ほどけてうまく結べなかったのだ。

「月様」

 柔和な表情を一変させて、鬱金は月の手を引っ張り、几帳うちに隠した。月が人前で膚を見せることを鬱金は執拗なまでに嫌がる。どうして、と尋ねると、藍様と鬱金とお世話係以外に膚を見せてはなりません、と言う。

「これは、どうされたのです」

 腕に結ばれた切れ端を見つけて、鬱金が眉をひそめる。しばらく鬱金は私用で宮中を離れており、その間は別の女官に着替えをしてもらっていた。女官にも繰り返し問いただされたが、月は固く首を振って、何の変哲もないその切れ端を握り締めた。少し前に知らない男のひとに結んでもらったものだ。擦り剥いた月の腕に葉っぱを貼って、手巾を結んでくれたのだった。そのひとが指で前髪をのけてくれたのを月は覚えている。ずっと気にならなかったのに、かき上げられると、急に風通しがよくなって心地よかった。月の目を、藍や鬱金は気味悪そうに見るけれど、そのひとは瞬きをしたのち、ふわりと眦を緩めた。とても優しい眼差しでびっくりした。まるでこの世でいちばん大事なものに向けられるような。だから、月はこわくなってしまってその場から逃げ出したのだ。

「汚らしい」

 鬱金はくしゃりと顔を歪めて、力任せに布切れを振りほどいた。止める間もなかった。最初は微かな光沢を持っていたはずの切れ端は、今は月の血を吸って、すっかりくたびれてしまっている。あ、と月は呟き、床に落ちた布を見つめ、それからひび割れた能面のような顔をしている鬱金を見上げた。うふふ、うふふ。鬱金が何故かわらう。おそろしかった。

「月様。かわいい月様。もう少しでございますからね」
「うー?」
「月様を傷つける者はこの鬱金が許しませんから。ふみどのを傷つける者も。このうこんが、うこんがゆるしませんからね。あの東のやばんな……」

 虚ろな目をして独語し、鬱金はそばに置いたものをうっとりと眺める。少し前の鬱金は持っていなかったものだ。いつ手に入れたのだろう。厨で鳥や魚を捌くのに使うような無骨な刃を胸に抱きながら、「うこんがお守りしますからね」と鬱金はひとり繰り返すのだった。




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