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三章、忌子(4)



 朱頴三年、睦月である。
 月皇子は年明けとともに百官の前で皇太子に宣下された。まだ数えで三つの皇子はあわび結びの袖括りをした半裾姿で、乳母の鬱金に雛人形のように抱きかかえられている。
 当日は、雲ひとつない晴天だった。
 にもかかわらず、宣下が始まると、空がみるみる張りつめ、怒号のごとき雹が降った。信心深い公家衆は畏れおののき、これは凶兆ではなかろうかと一様に顔を蒼白にさせたが、桔梗院ばかりはぽろぽろと涙を流して、なんと最良の日だろう、と感極まった様子で目頭を押さえた。





 隙間風が蔀戸をきぃ、きぃ、と鳴らしている。
 吊り灯籠の並ぶ仄かな明かりの下、月詠はひとり朱塗り柱の渡廊を歩いていた。手に水を湛えた盥を抱えている。寒さが老体にこたえたのか、数日前から桔梗院は高熱が続いていた。院の世話は以前は相応の女官がしていたが、数年前から他の者に身体を触られることを厭うて、近頃はすべて月詠がしている。おそらく四季皇子が玉津卿に鴉片(アヘン)づけにされて死んだあとからだ。存外猜疑心が強いこの老人は、同じことを己にされてはたまらない、と思ったにちがいない。

「院」

 夜御殿は薄暗く、院の眠る御帳台のうちにはひとつ明かりが灯してあるだけだ。褥に横たわる院の顔は赤黒く染まっている。おやすみですか、と声をかけたものの、返事はかえらない。月詠は盥をかたわらに置くと、院の額に乗せられた手巾を取り替えた。冷たさに気付いたらしい院が薄く目を開ける。

「月詠……か」
「ええ、ここに」
「月はどうしておる」
「もう夜も遅いゆえ、おやすみでしょう」

 こたえると、院は赤黒い相好を崩して微笑んだようだった。月詠は目を伏せ、黒衣を裁いて座る。あばらの浮き出た身体から寝衣を取り、滲んだ汗を拭っていく。数日間、苦悶にゆがみ続けた顔は今日はどこか穏やかだった。

「……なつかしい、夢を見ていた」
「さて、どのような夢を?」
「百妃の夢じゃ。いとしい、わたしの、いもうと」
「姫はさぞや、美しい女人だったのでしょう」
「ああ、百妃はうつくしかった。膚が色付くと、さながら赤い花のようで……」

 汗を拭われるのに任せながら、「姫はどこにいるのだろう」と院はぽつりと呟いた。月詠は苦笑する。

「姫なら、ご自分の手で迎えにいかれたではありませんか」
「そうだ。そうだったの。姫の嫁いだ白雨の里へ……。そしてすぐに……枯れてしもうた」
「白雨の里も焼けて、二度ともとには戻りますまい」

 まくり上げた袖を下ろして、肩から脇にかけても清める。手巾をまた盥の水に浸した。

「かつて光明帝から贈られた千本桜も皆焼けてしまいました。そういえば、鵺が死んでいたのは桜のあったあたりでしたね。腹を裂かれて死んでいた。生まれたばかりの子もともに。桜、と名付けるはずだったのに」
「月詠?」

 院が不思議そうに月詠を見上げる。本当に不思議そうだった。己の首に何故月詠の手が回されているのか、まるで理解できないというように。

「院」

 院の細くすべらかな首を両手で握り締めながら、月詠は言った。

「妹姫を白雨の里に嫁がせたあとも、あなたは何度かかの地を訪れるたび、情をかけましたね」
「な、にを」
「父はついぞ、母を抱くことはありませんでしたから」
「なにを、言うて」
「皇后杜姫に産ませた三子。ほかの側室に産ませた十七子。お忘れなら、言いましょう。白雨の里で妹姫に孕ませ、産ませた子が三子。兄を槊(さく)、妹を鵺、それから黎。お忘れですか、『父上』」

 染みの浮かんだ白い膚を月詠の指先が撫でる。
 ひっ、と院は息をのんだ。

「そな、そなた、月詠。そなたは、そなたは」
「百妃の母親もまた白雨の姫だった。ゆえ幸か不幸か白雨の地で産み落とされた子どもたちに、皇族の特徴は出なかった。さりとて、あなたの血を引くそれだけが帝位の条件なら、俺でも何ら問題はないのでしょうね」
「そなた。それが目的で、」
「まさか」

 咽喉を鳴らして、うすら笑む。
 院はおびえた様子で視線をさまよわせた。歯の根があっていない。

「帝位が欲しいなら、とうにあなたを殺して奪っていたでしょう。機会ならいくらでもあった」
「ならば、何故……」
「俺が欲するのは、ふたつ。忌まわしきすめらの血。そしてすめらの血が治めるこの王朝の――」

 だれか、とか細く呻いた院に、月詠は微笑んだ。

「――終焉だ」
「たまつ、玉津……!」

 もう死んだ男の名を院は呼んだ。手足をばたつかせて逃れようともがく老人を見下ろし、月詠は互い違いの眸を眇める。もがいたところで、老人は磔にされた蛾のように力なく褥に臥すばかりだ。

「院。あなたの役割はしまいだ。あとは俺だけでやる」
「何をするというのだ。よもや月に……」
「ひとつ約束をしてやる」

 ぐっと痩せ衰えた咽喉を押して、月詠は囁いた。銀の髪が音を立てて褥に落ちる。さながら口付けでもするかのように、ひゅうひゅうと苦しみ呻く老人の耳元に月詠は唇を近づけた。

「あなたの月を、俺は帝位につけて差し上げよう」

 院の眸が大きく瞠られ、月詠を映した。

「ただし、それが最期の帝だ。俺とあなたと、忌まわしきすめらの血にまつわる最期の」

 うう。ああ。引き搾った悲鳴が咽喉を震わせるのを手のひら越しに感じた。びくびくと投げ出された手足が痙攣している。月詠は目を細め、弱く、長く、長く、長く、老人の首に回した手に力をこめた。どれだけの叫びと嘆きが、その咽喉を震わせただろう。かっと目を見開いたまま、いつの間にか桔梗院は事切れていた。それでもしばらく月詠は院の首に手を回したままでいたが、やがてするりとそれを取り去った。

「かくれんぼか?」

 声に反応して、かたん、と背後の几帳が揺れる。とうに気付いていたことだったが、月詠は薄くわらうと、「藍」と几帳に隠れるようにしてしがみつく女を呼んだ。思い出す。この女を拾ったときのことだ。発狂した母親に殺されかけていた。母の手を逃れて、納屋に隠れた少女を見つけたのは月詠だった。

「いん、は、」
「死んだ」

 白小袖に瑠璃紺の打掛を羽織っただけの藍は、あおじろい顔で震えている。一部始終を息を殺して見ていたはずなのに、また訊くのか、とおかしくなる。藍はそれでも信じきれない様子で、褥に横たわる老人を見ていたが、「藍」と月詠がもう一度呼びかけると、おぼつかない仕草で顔を上げた。

「月詠様」
「なんだ」
「死んだ私の父は、名を槊といいました。氷鏡は母方の姓で……」
「そうか」
「母はいつも何かに怯えていました。たぶん父がよそから流れ着いた素性の知れないひとだったから。母は父がいずれまたどこかへ行ってしまうのではないかと恐れていた。月詠様。私は父のことをあまり覚えてはいませんが、父はとても美しい銀色の、髪の、」
「藍」

 震え出した女の手首をつかみ、「だから、なんだ」と月詠は幼子を諭すように問う。

「わた、わたしのとうさまは、あなたのあにうえで、ろうていは、ろうていは、わたしの、おじいさま……、おじいさまがわたし、わたし、」
「藍。だから、なんだ?」

 玻璃のような目をして震える女を月詠は打掛ごと抱き寄せた。頬に触れる。あおじろい。冷たくて、あおじろい色をしている。月詠は女の頬に口付けて、額を擦った。腕の中で藍は女童にかえってしまったように震え続けている。不思議と庇護欲に近いものが沸いた。何度も口付けてひらいていくと、ぎこちなく月詠の手に身を委ねてくる。藍、とこめかみに触れて囁く。囁きながら、月詠はもう遠い昔に思える日々を瞼裏に描いていた。




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