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三章、忌子(5)



『藍、というんだ』

 白雨の里が焼失したのち、放浪の途中で再会した兄はそう言うと、やわらかく微笑んだ。少し離れた井戸端では、縮緬の花飾りをつけた童女が少年と一緒に駆けずり回って遊んでいる。白雨の里を出たあと、一緒になった女との間で生まれた子どもなのだという。兄のほうが縫、妹のほうが藍。縫という少年が後ろから抱きとめると、童女はきゃあ、と高い声を上げてわらった。
 まだ少年から青年に差し掛かったばかりの年頃だった黎は、編み笠の下からふたりの姿を冷ややかに眺めた。それは、当時の黎には失われてしまったものたちだった。愛する妹も。家族の笑顔も。穏やかな日常も。帰る家も。何もかも。

『里が滅ぼされたと聞いたときには気が気でなかった』

 息を吐き出し、槊は黎の肩に触れた。

『おまえだけでも生きていてよかったよ、黎』
『……鵺はもう、死んだのにか?』
『黎』

 瞼裏に蘇るのは、炎に照らされ、赤く燃える北方の空だ。
 今上帝――老帝は年の離れた異母妹を溺愛していた。正妃杜姫を迎えてもその執着はいっそう深まるばかり。厳格だった父帝が亡くなり、いよいよ何とかして取り戻せないかと画策を始めた老帝に、近臣の玉津が持ちかける。いわく、白雨の地で大量の武器の取引があり、朝廷に対して「よからぬこと」を企んでいるらしいと。糸鈴をおさめる父は、山の民の襲撃に対抗するためのものだと正直に抗弁したが、聞き入れられず、白雨の里には朝廷軍が大挙して押し寄せた。
 玉津は当時、老帝の近臣の座をめぐり、白雨と対立していた。東と西に分かれた王朝が統一された時分から仕える白雨家は、東の辺境にとどまり続けた橘と異なり、昔から多くの姫君を帝のもとへ入内させてきた。宮中における権力を掌握したい玉津にとって、父はずっと政敵に等しい存在だった。

『私は屋敷を守る。だからあなたは糸鈴を守れ』

 具足をつけた兵が行き交う中、帯に白雨紋の懐刀を差した鵺は、意志の強い緋色の眸を黎に向けた。半年ほど前、ひそかに夫婦の契りを結んだ鵺は、春には臨月を迎える子どもを胎に宿していた。鵺いわく、女児であるという。鵺は昔からそういう神がかったところがあって、桜の花が芽吹く頃に生まれる女の子なのだとわらっては、いとおしげに胎に手をあてていた。

『平気か』
『うん。『桜さん』がいてくれるから』

 黎の頬に手をあてた鵺は眸を細めると、『早くこの子のところにかえってこい』と力強く微笑んだ。
 ――それが生きた鵺を見た最期になった。
 季節は冬の終わり。雪が解け始めた大地はぬかるみ、ひどい泥戦となった。斬り伏しても斬り伏しても、朝廷軍は尽きることがない。そのうちに疲弊した家臣のいくらかが朝廷側の懐柔策に乗って、兵を連れ寝返り始めた。里は焼かれ、民は殺された。老帝が求めた妹姫――母は最期まで屋敷の奥深くで耳を塞いで震えていたという。
 前線で戦っていた黎が本陣の潰走を聞いて駆け付けたとき、すでに父は胴体だけの姿となり、鵺は消えていた。館が燃え落ちる前に、数少ない侍女たちと脱出したらしい。しかしそれも半里と続かなかった。館からそう離れていない、まだ固い蕾をつけた桜の樹の下で、鵺は冷たくなっていた。腹は裂かれ、虚ろな眼窩が赤く染まった空を映す。変わり果てた少女を抱え起こし、ぬえ、と黎は呼んだ。そうすると、少女の腕の中からほろりと小さなものが転げ落ちた。痩せ細った赤子だった。不思議と外傷は見当たらなかったが、鵺が死んだのち、飢えるか、凍えるかして死んだらしい。父親に抱かれることもなく。満開になった美しい里の花を見ることもなく。
 黎は雑兵に捕えられた。
 血を浴び、泥まみれになった自分をすぐに領主の子であると見抜く者はいなかったが、それも時間の問題だった。そうでなくとも、捕えられた兵の扱いは粗雑で、ろくな食料も与えられないまま、毎日兵糧や民家から奪った家財などを運ばされる。仕事の遅い者、反抗的な者は樹にくくりつけ、火をつけて置き去りにされた。
 幸か不幸か、黎の容姿は優れていた。飢えた男たちの目を惹く程度には。好きほうだい蹂躙したあと、寝所でだらしなく惰眠を貪る男の頭をかち割り、黎は逃げ出した。ぬかるんだ道を襦袢を一枚引っ掛けただけの姿で走る。かえってこい。その言葉がかろうじて、今にも潰れてしまいそうな黎の心を繋いでいた。
 かえってこい。かえる。
 どこへ。……どこへ?
 走って、走って、頭がおかしくなるくらい走って、やっとあの桜の樹の下にたどりついたとき、鵺の身体はそこからなくなっていた。本当にどこにもなかった。戦のあとは、人形屋が「身体探し」のために戦場をそぞろ歩く。鵺の身体もそうした輩に盗まれたらしい、とあとになって聞いた。
 里の桜は遅い開花を迎え、咲き狂った。
 はらはらと仄白い花びらが舞う下で、黎は声もなく慟哭した。別れたときのままの姿で、置き去りにされていた赤子の身体を抱き上げると、炎にくべて、ちっぽけな骨を木の根元に埋める。そのそばで俯せたきり、黎もぱったり動かなくなった。ああ、しぬのか、と理解する。おれもここでしぬのか。考えていると、次第に指先の感覚がなくなり、擦り切れた意識に白い霞がかかってきた。
 泣き声。
 どこからか、泣き声が聞こえる。

『あわれよのう』

 次に目を開けたとき、黎の半身は緩やかな流れの水面に浸り、若草の芽吹いた岸辺には紅の打掛をかけた女が立っていた。その顔には見覚えがある。百妃だった。あるいは母はもっと前に老帝の手を逃れて自害したと聞いていたから、あれは頭をおかしくした黎の見たまぼろしだったのかもしれない。
 百妃の顔をした女はうっすら霞に溶けるようにわらった。

『時折いるのだ。ここへ来て、そしてかえされるものが』
『かえされる、もの』
『そなたは、こちらへ渡れない。火にくべられたそなたのたましいは、まだどこにもかえれぬ、いびつなものゆえな』

 謎めいた笑いを残して、百妃の姿がかゆらいだ。はらはらと花がさざめくように吹雪いて、視界を埋め尽くす。知らず、黎は手を伸ばしていた。ぬえ、と呼んだ気がする。ぬえ。ぬえ。
 たのむから、おれをおいてゆくな、と。

『屍の山を築くがよい』

 つかみ取った女の手は彫像のように固く冷たかった。百妃であったのか、鵺であったのか、それとも別の何ものかであったのか。黎にはわからない。だけど、そのものは深淵をのぞきこんだ黎を確かにつかみ返し、嘯いた。胸のうちの業火の正体を知るように。

『奪い尽くし。嬲り尽くし。己を焼き尽くす業火の道を進むがよい。黎。その先に――』

 彼女は緋色の眸を甘く細めてわらった。

『“わたし”はいる』


 ・
 ・


『兄上。俺はこの国の王朝を滅ぼすつもりだ。ただし兵力をもってではない。内側から己の膿で爛れ落ちるように、ゆっくりと時間をかけて。それをいちばん近い場所から見届けてやる』
『黎』
『兄上はどうされる?』
『――父さま、まだあ?』

 いつまでも戻ってこない槊に痺れを切らしたらしい。離れたところで遊んでいた童女が兄とともに駆け寄ってきた。

『藍。縫』

 中へ戻れ、という風に槊は縫を促した。幼い兄妹は不安そうに父親を見上げてから、連れ立って屋敷のほうへ戻っていく。子どもたちを見届ける槊の眸によぎったのは、柔らかな拒絶だった。

『わるいな。俺にはここの生活がある。守るべき家族が』
『兄上』
『黎、憎しみに囚われてはいけない。憎悪や復讐は何も生み出さない。そう遠くない未来、内側から滅びていくのは王朝じゃない、おまえ自身になってしまうよ』
『……そうか』

 その言葉で、黎は槊との対話を諦めた。最初から諦めていたつもりだったのに、何かを期待してしまったのは、惰性のように残った己の弱さのせいだろう。あるいは肉親への未練があったのか。だが、それも潰えた。否、最初からとっくの昔に潰えていた。

『兄上。今日は会えてよかった』

 ふたりが話をしていたのは、毬街にかかる落雁大橋のたもとだった。夕暮れだったが、ひと通りはない。穏やかな水面が落日に輝いている。

『ならば、黎――』

 こちらに差し出された手を見つめ、黎は長い睫毛を伏せる。
 冷たくなり始めた風が少し伸びた髪をゆるやかに撫でていく。
 つき、と甘やかな声が黎を呼んだ。つかの間のまぼろしのように。
 ……さくらがいいな。さくら? そう、春になるとこの里を覆う桜の花。春を告げる花。わたしたちの子はね、つき。きっと、春のにおいのする可愛いおんなのこだ。あなたの子だからきっと、心のやさしい子になるよ。ねえ、だから、つき。
 黎の頬に両手をあてて、少女は微笑んだ。

 ――あいしているよ、月。たとえあなたがどんな姿になっても。

 あれがたぶん、おれの幸福の絶頂だった。

『会えてよかった。俺に戻る場所などないことがよく知れたから』

 きん、と鯉口を切る。それは一瞬の出来事だった。瞬きをする槊の前で黎は刀を薙ぎ、背後にひそんでいた「虱(シラミ)」を殺害した。
 白雨の残党狩り。朝廷が手を引いたあとも、情報屋の「虱」の間で盛んに行われていることは知っていた。血縁である槊のもとで、彼らはずっと白雨ゆかりの者が現れるのを待っていたのだろう。槊もまた、何も知らなかったわけではあるまい。
 あっけなく転がった「虱」を前に、槊は小さく呻いた。

『ちがう、黎。これは……』
『俺を差し出せば、家族は守るとでも言われたか』

 そうじゃない、と首を振る槊の目は恐怖で染まっている。

『逃げろと言うつもりだった。おまえにあのような邪心さえなければ。俺はおまえを守りたかった』
『どちらにせよ、俺が生きていることをこの先もあなたに知られているのは困るな』
『黎。おまえはやさしい弟だった。なのに』
『兄上。『白雨黎』は死んだんだ。一年前、鵺と娘と一緒に』

 告げるや黎は一息に踏み込み、槊の心臓を正確に突いた。言葉を残す暇すら、苦痛を感じる暇すら、なかったにちがいない。くずおれた槊の身体は川に投げ出され、一筋の赤を滲ませながら沈んでいった。

『旦那さま……!』

 橋のほうから悲鳴が上がる。槊の妻である女だった。戻りが遅い夫を案じて探しにきたのだろう。無為に川へ手を伸ばそうとする女に一瞥をやり、他言はするな、と黎は言った。それから思い直して、女の顎をつかむ。

『『藍』と『縫』まで失いたくはないだろう?』

 黎を見つめる女の眸に動揺が走る。
 おやめください、おやめください、何も言いませんからどうかゆるして。ゆるして!!!
 すがりつく女を蹴飛ばし、刀を鞘におさめる。だから――。
 だからそう、おまえの母親が発狂したのだってつまるところ俺が原因だ。病で縫を亡くした母親は思ったにちがいない。次は藍を奪われると。そして死に魅入られていった。
 数年後、汚れ仕事を請け負いながら放浪を続けていた黎に、情報屋を通じて一通の文が届く。差出人は藍の母親で、自分を殺してほしい、とそう一言書かれていた。依頼を引き受けたのは、ただの気まぐれに過ぎない。けれど藍にとっては運命だったのだろう。正気を失い、娘を殺しかけていた母親を黎は殺した。
 あのとき納屋に隠れて震えていた女童は今、あおじろい膚を上気させて、傷ついた小鳥のように啼いている。痛ましいくらいによがる娘をさらに深く犯して、悲鳴じみた嬌声を聞いていると、果たして月詠はこの娘を傷つけているのか、慰めているのか、自分でも判別がつかなくなってくる。納屋から引きずり出したとき、母親と一緒に藍は殺すつもりだった。身寄りをなくした藍を何故か連れ出してしまったあとも、いつ殺そうと酷薄に考えてばかりいた。けれど。

『月詠様』

 悪夢にうなされて目を覚ました少女が、月詠の袖端を探しておずおずと手を伸ばす。月のひかりを宿した眸には、いっぱいのさみしさが湛えられていた。

『月詠様は連れて行ってくださいね。藍を。さいごまで』

 小指を差し出した少女に、月詠はいびつにわらい、そっと小指を絡めてやった。
 さいごまで。
 それもよいと思った。この、あとに何も残らぬ道をひとり見届ける女がいても。果ての果てまで。そこが花ひとつ芽吹かぬ曠野で、おまえに差し出せるものが何もなくとも、そこにゆきたい、とおまえが望むなら。




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