Back/Top/Next

三章、忌子(6)



 月殿下の皇太子宣下からわずか七日後。
 老帝もとい桔梗院は突如としてこの世を去った。長く君臨した院の崩御は、少なからずの衝撃をこの小さな島国に与えた。大喪の礼が催されたのは、ふた月後の三月。紅白の梅の花がほころぶ早春のことだった。

「となりますと、やはり病で……」
「いや、それがようわからぬと。早朝女官が起こしに参ったときには、お亡くなりになられていたとも、月詠様が夜にお世話にいらしたときにはすでに冷たくなっておられたともいうが」
「高齢でございましたからね」
「皇太子の御姿を見て安心されたのだろう」

 檜扇越しにささめきあう男たちの声を聞きながら、雪瀬は墨染めの袴を裁いて、葬場殿の砂を踏んだ。衣山のふもとに造営された葬場殿には今、皇族のほかに公家衆、官人、蟄居中の南海を除いた主だった領主が顔を並べている。
 儀礼の決まりで、骸は決まった日に燃され、衣川に流されることになっている。御撰が供えられたのち、祭官長が祭詞を上げる。諸侯、百官が見守る中、朗々とその声は響き、凍てた風が葬場殿を吹き抜けた。風はひとのたましい。と、誰かが言った。誰だったろう。母か、兄か、それとも夢の中の記憶に過ぎないのか。だから、だからね、雪瀬――。
 それなら、桔梗院や白海領主やたくさんのひとの魂は。
 いったいどこへかえるんだろう。凪。
 宵空にたなびく細い雲を見上げ、雪瀬はそっと目を伏せた。


***


「往来がすごい人出でしたよ」

 外から戻ってきた竹は上着の紐を解きながら、出迎えた桜にそのように言った。

「そんなに?」
「なにしろあの老帝ですからねえ。私なんて、生まれたときからあのひとがずっと帝でいらしたから、なんだか変なかんじがしますよ。まあ、集まったひとのほとんどが邪魔ぁみろってところなんだと思いますけど」

 屋敷の中なので、竹もはばかりなく好き勝手言っている。
 そう、と桜は苦くわらって、黒椀に生けた椿を玄関に置いた。ちょうど庭の掃除をしていたときに、枝からこぼれた椿を見つけたのだ。露に濡れてほころぶ椿は独特の艶美さがある。
 雪瀬のように葬場殿に足を運ぶことはないが、桜と竹も今は当主にならって墨染の衣を着ている。特に桜は普段明るい色合いの小袖を着ていることが多いので、墨染の衣に袖を通すと、なんだか急に落ち着かれてみえますね、と周囲が苦笑していた。年明けで二十二になった雪瀬に対し、人形である桜の外見は、いつまでたっても十五の少女であるためだ。
 桔梗院の死は、桜の胸中に複雑な波紋を落とした。
 うれしいとは思わなかったけれど、反対に悲しいと思うこともなくて、そうかしんでしまったんだ、と事実だけがすとんと胸に落ちた。それから藍は今どうしているんだろうと別のことを考える。悲痛な表情で藍に妊娠を告げられた日がもうずいぶん遠いことのように思える。

「あ、」

 花きり鋏を片付けていると、にわかに降り出した雨が庭に茂ったさつまいもの葉を濡らした。あっという間に雨脚が強まり、視界が灰色に煙る。

「降り出しちゃいましたねえ」
「雪瀬は傘をもっていってた?」
「どうでしょう。千鳥さんが随行してたはずですけど、持っていってないだろうなあ。そうしたら私、ちょっと迎えにいってきますよ。もうすぐの御帰りだったと思いますから」
「なら、私も行く」

 普段、傘くらいの用事なら竹に任せてしまうことが多い。葛ヶ原内ならともかく、都で桜が歩き回ることを雪瀬は厭うからだ。ただ、そのときは深い考えもなく言っていた。ついでに、頼んでいた荷を近くの店に受け取りに行こうと思いついたこともあるし、なんだか竹についていったほうがいいような予感がしたからだ。

「でもなあ。桜さんが濡れて風邪でも引かれたら、私が怒られてしまいます」
「こういうときに風邪を引くのはたいてい雪瀬のほうだけど」
「……まあ、それもそうですね」

 竹はあきらめた様子で笑って、行きましょうか、と傘二本を抱えて外に出る。雨の降りはいよいよ強まっていた。春一番にはまだ早いんですけど、と嘆息した竹に、桜は灰梅の被布を引き寄せて顎を引く。大路は見物客で埋まっていたため、小路を選んで歩く。しかし、葬場殿の外門にたどりついた竹は、首を振って桜のもとへ戻ってきた。

「少し前に出てしまったみたいです。入れ違いになっちゃいましたね」
「そう……」
「まあ、急げば追いつけるかもしれませんし。戻りましょう」

 傘を肩に担ぐと、竹は先導して歩き出した。大路は牛車が数台行き交っても難なく通れるほど広い道だが、今はその大半がひとで埋まり、すっかり身動きが取れなくなってしまっている。

「やっぱりこちらの道はだめですね」

 嘆息して、竹は雪瀬たちがよく使う迂回路に出た。大路から二本外れて奥に入った道は狭く、さすがにひと通りは少ない。

「ああ、雪瀬様! いらした」

 長屋の軒下で雨宿りをしていたらしい雪瀬と千鳥を見つけて、竹が手を振る。駆け出した竹を追おうとして、桜は脇からふらりと現れた女とぶつかった。

「っ」
「ああ、失礼」

 ぶつかったはずみによろめいた桜に、女が品よく謝る。

「あ、わたしこそ、」

 おずおずと頭を下げた桜に、うふふ、と女は何故かわらって、ほどけた頭巾の紐を結び直した。桜は瞬きをして、楚々と歩く女の背を見つめる。最初に思ったのは、ああ、あのひとも傘を忘れてしまったんだな、ということで、次に、あれ、と思ったのは、女にぶつかった自分の肩からうっすら血が滲んでいたためだった。そういえば、あのひと。どうしてだろう、手に、おおきな、短刀を持っていたような。猪とか鹿の肉を切り分けるときに使うような、おおきな。
 桜は女が向かう先を見つめた。
 傘を差し出した竹に雪瀬が何かを言っている。墨染の直衣が雨にしとど濡れて、青みを帯びた色をしている。腰にいつもの太刀は佩かれていない。心臓が小さく脈打った。恐ろしい予感がよぎったためだった。気付けば、桜は走っていた。雪瀬、と呼んだかもしれない。よくわからない。呼んだかもしれない。それよりもそれよりもそれよりも。それは恐ろしい予感だった。駕籠担ぎのふたり組にぶつかりそうになってたたらを踏み、怒声を浴びながらほとんど押しのけるようにして駆ける。女がちょうど脇から飛びした子どもたちにぶつかり、よろめいた。小袖の裾から伸びたその手が、さっきの猪とか鹿を斬るような分厚い短刀を握っているのを見て、桜は叫んだ。

「雪瀬!!!」

 伸ばした手が墨染の衣をつかむ。背後で女が奇声のような、何か甲高い声を上げたが、桜にはもうなんだか聞き取れなかった。ぎゅっと庇うように雪瀬の身体を抱きしめる。そのとき――、そのときの雪瀬は、天啓めいた勘が閃いたといってよかった。すい、と何かが風を切る鋭い音がしたあと、桜は思いきり突き飛ばされた。濡れた地面に尻もちをつく。その目の前で、雪瀬が傘の柄で弾き飛ばした短刀が女の手から離れ、ぬかるんだ地面に転がった。腕を撃たれてよろめいた女の首に、千鳥が抜いた刀を突き付ける。一瞬だった。ほんの一瞬で、決着はついた。

「桜さん」

 千鳥が低い声で呼んだので、桜は我に返って、震えながら地面に落ちた短刀を取った。うまくつかめなくて取り落とし、桜よりはよほど落ち着いて見える竹のほうが、取り出した布で短刀をくるんだ。

「史殿のかたき! 死ね! 死んでしまえ!!!」

 女は髪を振り乱して、桜にはよくわからない言葉を叫ぶ。確かさっきも言っていた気がする。死ね。死んでしまえ……。
 女に目を向けた雪瀬が一瞬驚いた顔をした。

「……玉津、鬱金」
「雪瀬様、どうしますか」

 千鳥は眸に冷えた殺意を宿して、羽交い絞めにした女へ一瞥をやる。

「殺しますか」
「――だめだ。都察院を呼んで。竹!」
「はい!」

 呼ばれた竹が勢いよく立ち上がる。千鳥はそれでもしばらく女の首に刀を突き付けていたが、今一度雪瀬に促されると、不承不承刀を下ろした。女の腕を後ろ手に縛る。玉津卿の奥方様のようです、と千鳥が雪瀬に耳打ちし、雪瀬はすでに察しがついていたのか、そう、と顎を引いた。女はさっきまでの高揚が嘘のように悄然と俯き、雨に打たれている。

「桜もへいき? どこも怪我は」

 かがんだ雪瀬が頬に触れる。桜は腰を抜かしたまま自分に触れて、引き立たせる雪瀬を見ていた。千鳥が「都察院へはわたしが」と声をかける。雪瀬はあとで自分も行くというようなことを言って、桜を抱え上げた。ろくに歩けていなかったからだとあとになって気付いた。
 屋敷に戻って、濡れた身体を拭かれていても、桜は呆けた顔をして座っていた。へいき?、と髪を拭かれながらもう一度問われる。濡れそぼった墨染の直衣から簡素な小袖に着替えた雪瀬の腕にうっすら血が滲んでいるのを見つけて、手で触れる。たぶん、鬱金からよけた最初のときに作った傷だろう。雪瀬はとっさに桜を庇ったのだ。丁寧に髪を拭いてくれた手のひらが桜の頬をくるんだ。あたたかい。そうすると、堰を切ったように涙が溢れてくる。桜は細い声を上げて泣き出した。だいじょうだから、と雪瀬は言う。もうだいじょうぶだし、何も起こらないからと。けれど、桜はいやいやと首を振って泣き続ける。
 もし鬱金に気付くのが遅れていたら。
 雪瀬は死んでいた。
 死んでいたかもしれない。
 桜の目の前で、嵐のようにうしなわれてしまったかもしれない。それは自分自身の身を砕かれるような衝撃を桜にもたらした。凍えて震え出した桜をぎゅっと温かな腕が抱きしめてくれる。痺れるようなぬくもりに桜は小さく喘いだ。こわい。おそろしい。このぬくもりがうしなわれたら、桜はいったいどうなってしまうんだろう。こんなにあいしたひとをうしなってしまったら。
 わたしはわたしでいられるのだろうか。




Back/Top/Next