結果として、鬱金の身柄は都察院預かりとなり、ほどなく詮議にかけられることになった。玉津卿亡きあと、鬱金は家を失い、使用人を失い、最後まで残った侍女の菜子とともに都を半ば乞食に近い姿でさまよい歩いたらしい。それを藍が拾い、月皇子の乳母として召し上げた。
鬱金が月皇子の乳母を務めていることは雪瀬も聞き知っていた。
けれど、一方で失念していた。玉津卿に関わりある人間たちが自分に向けるであろう感情を。その可能性を、雪瀬はまったく失念していたのだった。そして伴もろくに連れずに、都の大路を歩いていた自分は迂闊だったとしか言いようがない。
「桜さんのご加減はいかがですか」
他領主との会合から帰ってくると、夜もすっかり更けていた。迎えた竹に二刀を渡した雪瀬に、ちょうど水をもらいにきたらしい漱が声をかける。
「先日、ずいぶん取り乱されていたようだったから」
「今は特に。今日はふつうに竹と荷造りをしていたみたいだし」
「そうですか」
漱は顎を引いたが、「……ご無理されているんじゃないですか」と珍しく他人を案じるそぶりを見せた。雪瀬は曖昧にうなずいて、漱から空いた柄杓を受け取る。
鬱金の襲撃をほぼ無傷でかわせたのは、ほとんど運といってよかった。あのときは大喪の儀ということもあり、千鳥はともかく、雪瀬に至っては佩刀すらしていなかった。まさか、すれ違いざまに女が襲ってくるなんて考えもしなかったのだ。だから、桜が飛びついてきたときには肝が冷えた。
鬱金の存在に、雪瀬は襲撃の数瞬前に気付いていた。殺意である。それに反射的に反応したといってよい。であるので、雪瀬にとってはむしろ、桜が飛びついてきたことのほうが予想外だった。まるで無防備にさらされた背中を見たとき、凍りつく思いがした。一撃目をかわせたのは、だから、運だ。雨のせいで視界の見通しは悪かったが、代わりに女の足取りも雪瀬が思っていたより重かった。そのわずかな読みのズレで、桜を引き寄せた雪瀬の肩を女の包丁が擦った。あと少しずれていたら、擦る、では済まなかったろう。
雪瀬にとっては、たいした話じゃない。そんな死線なら何度もくぐり抜けてきた。痛かったといえば、玉津卿に端を発する怨恨がこのような場所で返ってきたというそのことのほうで、だけども桜は。
「……あんなに泣かれると思わなかった」
「そりゃあ、見ているほうが何だって怖いもんですよ。あなたは危なっかしいところがあるから余計」
漱は苦笑して、濡れ縁へ出た雪瀬の隣に座った。水を飲んで帰るのかと思ったが、気が変わったらしい。代わりに腕に抱えた酒瓶を振ってみせるので、雪瀬は小さく吹き出してしまった。
「なんで酒盛りになるんだ」
「まあ、そうおっしゃらずに。お清めの塩を忘れていたでしょう。お祓いの意味もこめてですよ」
肩をすくめて、漱は緑釉の猪口に酒を注いだ。湛えられた水面に、細い月が架かる。
「鬱金様の処罰はどうなると思う」
「死罪ということはないと思いますよ。家柄の格もおありの方ですし、どこかの社に送られるんじゃないですか。わたしはどちらかというと、月皇子の次の乳母の人選のほうが気になりますね」
「鬱金様はもう任を解かれたんだろう?」
「早々に。後任には月詠側の意向が反映されるか、帝が手を回すか。どうでしょうね」
「朱鷺陛下が先手を打って、息のかかった者を送り込むこともあるってこと?」
「ええ。だけど、月詠もそれは予想しているでしょうから、どんな手を打つ気でしょうねえ。まだわからないな」
相変わらずこの男の読みは先へ行く。こういう話を聞いているとき、雪瀬はとても敵わない、という気になる。
「鬱金様の件は、俺の落ち度だった」
「柚葉さまが再三あなたに言ったでしょう。護衛を増やせと」
「ああ」
「雪瀬さま。付け入る隙を与えてはいけませんよ。あなたがさしたる伴もつけずに歩くから、鬱金様も魔が差したのかもしれない。なら鬱金様がいっそ憐れです」
漱の言に、雪瀬は押し黙った。
まったくそのとおりとまでは思えないが、一部は正鵠をついている。雪瀬は甘かったのだ。だから、付け入られた。……皮肉だとも思った。昔の自分なら、こんなことが起きる前に鬱金の意図に気付けたはずだ。ひとつひとつ、踏みしだいたものたちの顔と名前を覚えていた頃の自分なら。
口に含んだ酒の辛さに、知らず顔をしかめていると、隣で漱が息を吐く気配があった。
「だけど、たぶん仕方ないことなんだとも思います」
「しかたがない?」
「きみは強いから」
雪瀬は瞬きをして、漱を見上げた。いつも、きみは落ち着きがないだの、もっと領主らしくしろだのと揶揄まじりに言ってくる男であるので、またそういうたぐいだろうかと身構える。漱は苦笑した。
「世の中にはね、弟くん。不条理な目に遭ったり、大事なものをあまりにも理不尽に奪われてしまったとき、ただ誰かを憎んだり、恨んだり、そういう風にしてしか自分を保てない人間が結構たくさんいるんですよ」
「別にそんなのは、誰だって」
「いいえ、きみはそうしない」
漱はきっぱりと断じた。
「きみは強い子だから、そうしない。迷っても、ときどき間違えても、きみならその先の明るい場所にたどりつけますよ。だから、雪瀬様。あなたはそのお強さで、暗いところにいるひとたちの手を光のほうへ引いてあげてくださいね。自分にはできない、なんて思わないで」
橘紋のついた懐刀を差し出して漱は言う。都察院に預けていたものが今さら返されたらしい。雪瀬は受け取った懐刀に目を落とした。
「……できるかな、俺に」
「おやりなさい、死にものぐるいで」
「おまえは厳しい」
「そのぶん奥方さまに甘やかしてもらっているからいいじゃないですか。ちゃんと見てますよ、瓦町から」
何気なく続いた言葉の真意に気付いて、雪瀬は目を上げた。前に南海の件が終わったら、と言っていたのに、ずいぶん長く付き合わせてしまったと思い至ったからだ。
「瓦町に戻ったら、刀斎さまと蓮さまによろしく」
「ええ」
わらって猪口を差し出した雪瀬に、漱も目を細めて酒瓶を取る。
その夜は早春の月が時折雲隠れしながら、穏やかに過ぎて行った。つかの間の休息のように。
雪瀬のもとに丞相月詠から文使いの少年が遣わされたのは、都を出発するちょうど前々日のことだった。桔梗院の大喪の儀が済んで半月。本来なら、もっと早くに発つつもりだったのだが、鬱金の襲撃事件があったため、雪瀬もしばらく都にとどまることになった。その間に一時は騒然となった都も落ち着きを取り戻し、朱鷺帝は粛々と政務を続けていると聞く。
「月詠から?」
いぶかしんで文を開くと、今晩内々に話があるから屋敷へ来いという旨が端的に記されていた。話を聞いた竹がとたんに蒼褪める。
「ま、まさか雪瀬様を屋敷で闇討ちにするつもりじゃあ……」
「ありえない」
答えつつ、ちらりと桜を見やる。竹につられて変な心配をしていたら、と考えたからなのだが、桜は文使いの少年にお茶を出していて、特段気にするそぶりを見せなかった。鬱金の襲撃のとき、ひどく取り乱して泣いたからなんとなく気にかかっていたのだけども、たぶん自分の考えすぎだろうと思うことにする。少なくともあれから桜が突然泣き出したりすることはなかった。
「けど、千鳥だけというのも心もとないな。私も行くよ」
書面をのぞいた薫衣がそう申し出る。先年から都の警備の任にあたっていた葛ヶ原兵三百は、ここで葛ヶ原への帰還が許された。明後日の東行きの船に一緒に乗るため、薫衣たちも数日前から橘屋敷へ戻ってきている。
薫衣が行くならと周囲も安心したので、ひとまずこの件はそれで決まりとなった。夕刻まではまだ時間がある。挨拶や荷作りを済ませて、残った時間は桜のもとで過ごす。桜は庭のじゃがいもの葉っぱに水をやっていた。雪瀬は日の当たる畳に横になって、桜の後姿を見上げた。こうして目の届く場所で彼女を見ているとき、雪瀬の胸中には深い安寧が広がる。この娘がすこやかに笑ってくれさえすれば、何もいらないような、そういう気分になる。実際の雪瀬は、もっと多くの人間を守らなければならず、そのための方策を頭の片隅では考えているのだけれど。
「鬱金様は、浅海島の御社へ送られることになったって」
その話はもうずいぶん前に雪瀬の耳に届いていたのだが、桜には伝えていなかった。だけどいずれは伝わることなので、何気なさを装って話してしまう。そう、と桜は濡れた葉っぱに触れながら、うなずく。どうしてこっちを振り返らないのだろう、と雪瀬は思う。振り返ったら、引き寄せるのに。頬に触れて、ぬくもりを確かめて、腕の中に閉じ込めてしまうのに。
「桜」
娘の背に呼びかける。そうすると桜は如雨露を傾ける手を止めて、振り返った。少し首を傾げてから、こちらの意図を察して、濡れ縁に戻ってくる。雪瀬は桜の頬に触れた。つめたい、と呟いて、大事にくるんだそれを少しだけ温めるようにする。自分より小さな手のひらがこわごわ重ねられ、そっと指を握り締めた。桜はきつく目を瞑る。それが今にも震え出しそうなのをこらえているようにも見えて、さくら、と呼んでみるのだけれど、彼女はずっとずっとかたくなに目を閉じ入っていた。
月詠邸に足を運ぶのは数年ぶりだった。
玄関で提灯を渡すと、現れた少女が雪瀬たちを中へ招く。丞相の地位に反して、相変わらず質素な古屋敷だった。日に焼けた甍は雨漏りをしているらしく、廊下にはぽつぽつと盥が置いてある。
「来たか」
少女が案内した部屋で、月詠は座してこちらを待っていた。かたわらに据えた白磁の香炉からほの甘い香がくゆる。案内役の少女がひとつきりだった灯台にさらにふたつ明かりを入れた。雪瀬は下座につき、月詠にひととおりの謝辞を述べる。
「それでわたしにどのような用で?」
「相変わらず葛ヶ原領主はつれないものだな」
「明後日にはこちらを発ちますので。何かとあわただしく」
「そうか」
少女が酒を注いだが、口にするつもりはなかった。こんな時期に呼びつけるなど、ろくな頼みごとではないに決まっている。周囲の目もないので、雪瀬の態度は自然冷ややかなものになった。
「そういえば、おまえは夜伽の娘と祝言をあげたのだったな。もう先年になるか」
「……おかげさまで」
「俺も妻を娶れと近頃周りがうるさい」
「はあ」
突然世間話のようなものを始めた月詠を雪瀬はいぶかしげに見やる。しかし盃に口をつける月詠の眼差しは冷めていて、酔っている気配はない。
「雪瀬」
ひとにあらざる、とたとえられる美貌を目に映しながら、けれど雪瀬は微かな違和感めいたものを抱く。確かにこの男はうつくしい。それは雪瀬のような不粋者にもわかる。ひとを外れた美貌。けれど、この男はこんなにも、うちに腐臭を醸していただろうか。
「だから、おまえの妹を俺に」
雪瀬は瞬きをした。
まったく思いも寄らない言葉で、とっさに反応が遅れる。
「――は?」
「柚葉を俺に寄越せ。葛ヶ原領主」
隣で薫衣が肩を強張らせたのが伝わる。
「断る」
雪瀬の返答ははやかった。まるでにべがない。
月詠がおかしそうに咽喉を鳴らした。
「即答だな」
「俺がおまえに柚を渡すとでも? 月詠」
「代わりに、あせびの蟄居で空いた検察使の職をおまえにやろう」
「話にならない」
「検察使では足りぬと?」
「月詠!」
雪瀬はきつく男を睨み据えた。何故、と呻いた雪瀬に、何故?と月詠は冷笑する。
「南海事変を寡兵にておさめ、鮮やかに湊を奪還した葛ヶ原領主は今、都で大変な人気がある。雪瀬。院が存命で、玉津卿の残派がいるうちはそれでよかったさ。おまえが好き勝手動いていれば、彼らへの牽制にもなる。だから、玉津卿の首も取らせてやった」
だが、とおもむろに伸びた手が雪瀬の胸倉をつかみ寄せた。
「朱鷺帝と月が二派に分かれた今、おまえの駒を朱鷺が持っているというのは少々よろしくない。それではあっさり勝負がついてしまうゆえな」
ふざけるな、と言いたくなるのを雪瀬はかろうじて飲み込んだ。代わりに胸倉をつかむ手を荒く振り払う。さして強く握られていなかったためか、月詠の手はすぐに離れた。
「柚葉はおまえには渡さない」
「そうか」
うなずきながらも、月詠は愉快げである。
雪瀬は辞去の挨拶もせずに立ち上がった。羽織を引っ掛けて外に出た雪瀬を薫衣が追いかける。
「……雪瀬」
低い声で呼ばう薫衣に、わかっていると返す。早急に手を打たねばならなかった。
だが、しかし。
桔梗院の喪が明けて、最初の参内日である。
院の遺言にのっとり、寵愛篤かった月詠は帝のもとへ呼ばれた。これまでありとあらゆる称号を断ってきた男に、帝が尋ねる。長年院に仕えた礼である、何か欲しいものはあるかと。
「では、橘の妹君を私に」
月詠は。かつて雪瀬が月詠から桜を奪い返したときと同じ方法で、今度は雪瀬から柚葉を奪った。