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三章、忌子(8)




「お受けしましょう」

 話を聞いた柚葉は、落ち着きを払った面持ちで顎を引いた。葛ヶ原の橘屋敷である。都から戻った雪瀬は、私室に柚葉ひとりを呼び寄せて事の次第を伝えた。すでに早馬であらましは柚葉にも伝わっていたが、この妹といえば、我が身のことであるのに、涼しい顔で雪瀬たちを出迎えた。夕闇に沈み始めた室内に、小姓の竹が明かりを入れる。それを下がらせ、雪瀬は息を吐き出した。

「受けなくていい」
「受けなくてよいと言われましても兄さま」

 駄々っ子でもみるような表情になって、柚葉は苦笑する。

「帝がうなずかれた以上、そうも参りません。それではまた戦になってしまいます」
「だけど」
「よいではありませんか」

 雪瀬の言を遮るように、柚葉はほとりと手を打った。

「あせび殿が蟄居の身となり、都では月詠の力が増すばかり。ちょうどよい折ですから、私が都の内部を探って参りますよ」
「柚葉」

 月詠は表向き、妻に迎えると言っているが、つまるところただの人質だ。近いうちにおそらく月詠は朱鷺帝に対抗する何らかの行動を起こす。柚葉はそのときに雪瀬を動かせないための駒だ。

「ご心配なさらず。兄さま」

 雪瀬の考えを察した様子で、柚葉は首を振った。

「私がおとなしく人質になっている女とお思いですか。月詠はすぐに後悔しますよ。ほかの誰でもない私を選んだことを」

 ですから心配なさらないでください、と柚葉は雪瀬の手に己の手を重ねた。もう二十を過ぎた妹の手のひらは雪瀬が思ったよりも大きく、けれど、しらうおの膚も淡色の爪も、やっぱり華奢な女のものだった。雪瀬は目を伏せる。後手に回るしかなかった自分のふがいなさに悔しさがせり上がった。
 それでも、今はどうにもならない。柚葉の言うとおり、一介の領主に過ぎない雪瀬が帝の決定に真っ向から異を唱えれば、叛意ありと取られてもおかしくない。行かなくてよい、と葛ヶ原領主である雪瀬は言ってやれないのだった。ごめん、と呻いた雪瀬に、大丈夫ですよ、と柚葉はもう一度うなずき、微笑んだ。

「あなたと桜さまの子どもを産んで差しあげたかった。それだけです。それだけが私の心残り」

 苦くわらう柚葉の横顔に、蜜蝋のうすべにが射す。揺らめく火影は複雑に移ろい、妹の横顔を口惜しそうにも、さみしそうにも見せた。





 出立の日取りは、ふた月後の皐月に決まった。
 柚葉にとっては目も回るような忙しい日々だった。輿入れのための準備もさることながら、葛ヶ原で柚葉が公私含めて担っていた仕事を周囲に割り振り、引き継ぐ必要があったためだ。
 特に柚葉が心を砕いたのが桜だ。本当はもう少し時間をかけて育てたかったのだが、それは叶わなくなってしまった。これまでおぼつかなげに後ろをついて回っていた桜に、長老たちや毬街の面々との縁を繋ぎ、必要なことを教えこむ。思ったよりも桜は平静で、柚葉の言うことをよく覚えた。柚葉はだから、自分がいなくなっても兄を支えられるように、この娘にあらゆることを教えていった。

「柚葉さま。こちらに火を置いておきますね」

 声をかけた竹に、ありがとう、とこたえる。
 季節は駆け足で過ぎ去り、気付けば、出立の日は明日へと迫っていた。急ごしらえの花嫁衣装や嫁入り道具のたぐいも皆、船に積みこまれて、あとは明日葛ヶ原を発つことを待つばかりだ。
 柚葉はひとり、最後まで手が回らなかった自室の整理をしていた。それももうおおかたは終わって、今は古い文を庭に出した七輪で焼いている。手を擦り合わせて、柚葉は暗く燃える炭火を見つめた。
 この歳で葛ヶ原の外の男に嫁ぐなど、考えてもみなかった。もちろん柚葉とて、いずれは葛ヶ原のどこかの家に嫁ぐつもりではいて、健康な子どもを産んだら、そのうちいちばん賢く、心根が明るいものを兄たちのもとに差し出す気でいた。その子が次の葛ヶ原領主になる。兄たちが一緒になってから見続けた夢は、思わぬかたちであっさりと破れた。それを残念に思わないわけではなかったけれど。
 かたん、と微かに立った物音に気付き、柚葉は目を上げた。襦袢に薄紅の丹前を羽織った娘が濡れ縁のほうから、柚葉をうかがっている。そういう警戒心の強い小動物めいたところはまったく変わらないのだと苦笑し、柚葉は「桜さま」と娘を呼んだ。

「どうされました?」
「……ここにいてもいい?」

 尋ねた桜に、「どうぞ」と七輪の反対側を示す。夜はまだ少し冷える。桜は丹前のあわせを引き寄せ、赤々と燃える火に手をかざした。

「いそがしかった?」
「いえ。もうおしまいです」

 最後の紙切れを火にくべ、燃やしてしまう。小さく爆ぜる炭の音をふたりでかがんで聞いた。しばらく思いつめた様子で炎を見つめていた桜は、やがて柚葉を仰いだ。

「柚はあした、行ってしまうの?」
「ええ。昼の船です」

 そう、と桜は顎を引く。赤く照らされた顔立ちはどうしてもまだあどけなく、柚葉はこの娘を葛ヶ原に残していくことに不安を覚えてしまう。ひとを疑うことも、たばかることもうまくできぬ娘だ。そのままでいてほしいと思っていたし、桜が健やかであることは兄や柚葉の願いでもある。
 惑うような間ののち、桜は柚葉の腕を引いた。

「……わたし」
「桜さま?」
「柚がいなくなるのは嫌」

 きっぱりと桜は言った。
 何か大きくて遥かなものを睨み据えるような、一途な横顔だった。

「雪瀬が言えないなら私が言うよ。雪瀬ができないことは私がする。月詠のところになんか、行かないで」

 思わぬ言葉に、柚葉は瞬きをした。けれど、駄々をこねているようでも、感情を先走らせた思いつきを言っているようでもない。柚葉の手を握って、「明日の早朝、葛ヶ原に蜷の商船が来る」と桜は口早に説明した。

「無名とふたりぶん乗せてもらえるように頼んだの。輿入れには代わりに千鳥が。船が湊を離れて、航路が進んだところで身投げをした、ふりをする。誰も困らないし、柚は自由になれる」

 何度も何度も考えたことだったのだろう。桜の説明はなめらかで、澱みなかった。両手をそっとくるまれたまま、柚葉は瞬きを何度か繰り返す。それから、思いつめた顔で自分を見つめる娘が、世迷い事を言ったのではなく、本当にそういう算段をつけてここに現れたのだと気付いて、少なからず瞠目した。
 思わず吹きだしてしまう。いつの間に、と思ったのだ。いつの間にこの娘は、ただ清らかなだけのその手で、ひとを守ろうとするようになっていたのだろう。

「桜さま」

 笑い出してしまった柚葉に、桜は憮然となる。そういう表情は兄にそっくりだと思うとまた笑えてしまったが、「姉さま」と柚葉は甘くねだるような声で、もう一度桜を呼んだ。

「柚を抱きしめてください」

 その一言が、柔らかな拒絶を示したことを後れて察したらしい。どうして、と呟いた桜に、柚葉は微笑みを返すにとどめた。無論、桜が言うように、輿入れ前に逃げてしまうことはいくらでもできる。けれど、それでは何もつかめない。
 この輿入れは賭けだ。
 下手を打てば、月詠側の切り札にもなりうるが、裏を返せば、月詠もまた、懐中に自ら敵を招くことになる。葛ヶ原領主たる雪瀬は柚葉に賭けたのだ。だから、ごめんと一言言ってくれた。
 自分を見上げる少女の胸中でどんな葛藤があったかは知れない。
 桜はきつく眉根を寄せると目を伏せ、あとはためらいなく柚葉の背中に腕を回した。ふわりと柔らかなぬくもりに包まれる。清廉な淡い蓮のかおり。包まれた瞬間、柚葉にもわかった。兄が求めて、求めてやまない。しろくて、あたたかくて、やわらかなもの。気付けば、嗚咽がこぼれ落ちていた。桜の胸に額を押し付けて、柚葉は泣き喘ぐ。不思議だった。絶対、ずっと、柚葉は泣かなかったのに。もうずっと昔、泣かないと決めた日から、柚葉は上の兄が死んだと聞かされた以外でどんなことがあっても決して泣かなかったのに。悲しいわけじゃない。心細いわけじゃない。わが身を不幸とも思わない。けれど、涙は溢れて溢れて止まらなかった。しゃくりあげる柚葉の背を小さな手のひらが何度もさする。それがまるで、母の手のようにあたたかく、柚葉はひとしきり童女に戻ったように泣いた。


 そして柚葉は鏡の前に立つ。
 花橘を描いた白無垢を纏った女がひとり敵を射抜くような目をして鏡越しに見つめ返してきた。葛ヶ原から持ってきた貝紅を取って唇に挿す。

「柚葉様」

 外からかかった呼声に、柚葉は衣擦れのさやかな音を立てて立ち上がった。都の橘屋敷から出ると、花嫁行列は若葉桜の下、すでに迎えに来ていた。りーん、りーん、と先触れが鈴の音を鳴らす。介添えの童女の手を取って、傘持ちが掲げる傘の下に、柚葉は踏み出した。頬にあたった残照に気付いて、傘越しに空を見上げる。落日の空は燃ゆるようだった。炎天、と柚葉は思う。天が燃えている。さながら凶兆だ。

「ならば結構」

 呟いた柚葉の声はその場にいた誰にも届かなかっただろう。
 紅を刷いた唇に冷笑を湛え、目を伏せる。
 ――わたしは、おまえに災いをもたらす花嫁なのだから。
 月詠。





 月は鏡の前に立っていた。几帳で仕切られた御簾内に、今は誰もいない。だから、月はためらいもなく外で汚れた衣を脱いで、新しい衣を重ねていく。

『決して、決して、わたくしたち以外に膚を見せてはなりませんよ』

 鬱金の言いつけを鬱金がいなくなった今も月は頑なに守っている。だから、ひとがいるときは膚を見せないし、いつだって用意された水干を着て、髪はおのこ結びにしている。月はぼんやりと鏡に触れ、それから誰にも見つからないようにこっそりと懐に忍ばせていた布切れを取り出した。そぅっと、今はもう傷痕すら残っていない腕に結んでみる。少しだけ胸が温かくなった気がして、月はほのりと笑んだ。――その痩せた身体は薄っぺらく、貧相で、そしてあるべきものがない。女児だった。
 藍と老帝の子どもは。
 皇子ではなく、姫皇女だった。

【三章・了】




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