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四章、炎天(1)




 柚葉の輿入れは、皐月のつごもりに滞りなく終わった。高砂の間、花嫁の兄である雪瀬は終始不機嫌だった。かようにあからさまな顔をせずとも、と柚葉は苦笑してしまう。雪瀬がそのように思っていることを態度に出すのは珍しい。まったくしょうがないひとだと呆れつつも、雪瀬が怒るのはたぶん柚葉のためだからだと思うと無性に切なくなった。

「だから、そのような顔をせずとも……」

 宴から引き上げる段になって、柚葉はようやく雪瀬に声をかける。宴から外れた高欄で雪瀬はひとり酒を飲んでいた。相当量の徳利が近くに倒されていたが、そもそも酔うひとでないので、ただの八つ当たりに過ぎない。

「そのような顔って?」
「苦虫を百匹くらい噛み潰したようです」

 柚葉が指摘すると、雪瀬は顔をしかめて空になった盃を置いた。欄干に軽く背をもたせたまま、柚葉の頭を緩くかき回す。

「ここにいるから」

 雪瀬は言った。

「俺はここにいるから、柚」

 繰り返された言葉に、柚葉は瞬きをする。いつになく切実な兄の顔を見ると、急に咽喉が引き攣って震えそうになったので、代わりににっこりと微笑んでやった。

「もう、さみしがりですね、兄さまは」
「柚」
「それに、飲み過ぎはやめてくださいね。酔わなくたって、身体に障ります。明日ひどい二日酔いになっても知りませんよ」

 肩をすくめて、ひらりと花嫁衣装を翻す。通り過ぎるとき、固く目を瞑った。そうしないと、桜のもとに置いてきたはずの涙がこみ上げてきそうな気がしたからだ。
 案内された部屋で身づくろいをしながら、現実感のなさにひとり嗤う。結婚にはもとより興味がなかった。そのうち兄のためになる家の男に嫁いで、子はたくさん産んで、一番武芸に秀でた子どもを兄に差し出そうと思っていた。そこに感傷の入る余地はない。柚葉にとってはそれが当たり前で、自分が選んだ道でもあったから。
 ――その相手がまさか、丞相になろうとは思わなかったけれど。
 緩く結んだ髪を梳いて相手を待っていると、ほどなく襖が開いた。

「ずいぶん化けたものだな」

 褥に座した柚葉をひと目見るなり、月詠は口端を上げて嗤う。

「不躾な物言いですこと。もとは醜女だとでも?」
「そうは言ってない」
「都の姫君に比べたら、それは地味な女でしょうとも。髪は濃茶で、膚は日に焼けておりますし、まあ、でもあなたがそんな女をご所望になったのですから文句はありますまい」

 相手を不快にする、その点において橘の人間は実によく舌が回る。案の定、月詠は肩をすくめて、かたわらの香炉を引き寄せた。慣れた所作で、香を焚く。清廉な蓮の、今宵にはあまり似つかない香だった。似つかないといえば、月詠もそうだ。普段はいかなるときも纏っている黒衣は、今は白の襦袢に代わっている。しどけなく緩めた衿から、痩せて浮き出た骨のくぼみが見えて、一瞬視線を吸い寄せられた。

「あなたの目的を当ててみせましょうか」

 姿勢を凛と正し、柚葉は月詠を見上げた。

「目的?」
「あなたの狙いは私ではありませんね、月詠。あせびさまの蟄居で空いた検察使の職を兄さまにあてがうことにこそあったはず」
「ほう」
「南海事変を寡兵にておさめた葛ヶ原領主・橘雪瀬の人気は今、とても高い。ひとは兄に大兄さまの――橘颯音の影を重ねていることでしょう。あなたは兄のもとにあなたに敵対する勢力が集結することを恐れた。ゆえに、検察使の職を兄に与え、決して裏切ることのないように私を手元に置いた。ちがいますか?」
「よくもまあ、初夜にかしましく喋るものだ」

 口ほどには気分を害した様子もなく、月詠は咽喉を鳴らした。

「それで?」
「否定はなさらないのですね」
「おまえが考えるように俺が動いていたとして、それで、おまえとおまえの兄は次にどんな手を返す?」

 互いちがいの双眸は興味深げに柚葉を見ている。

「よもや、妹の初夜に自棄酒をして終わりか?」
「……諸刃の刃ですよ、月詠」

 あからさまな挑発は息を吐いて流し、柚葉は膝の上に置いた手に力をこめた。

「あなたは兄に首輪をかけたつもりでしょうけど、兄は検察使の肩書きと自ら動かせる兵力を得た。あなたは私を手元に置いて兄を牽制しているつもりでしょうが、そのあなたの首に手が届く場所に私がいる。諸刃の刃です、すべて。あなたと私たちは今、互いに刃をあてあった綱の上にいるのですよ」
「なるほど。おまえも刃を抱いてここに来たというわけか」
「――もう何も奪わせませんから」
 
 低い声で言い放つと、不意に男の眸がまろんだ。頬に痩せた手のひらが触れる。その冷たさに背筋にぞっ、と悪寒が走った。

「おまえは賢い」
「……何が言いたいんです」
「冷静で、何事も一と零とで割り切れる。おまえの頭の中はさぞ澄み切っているんだろう。だが、どうだろうな。俺はそうじゃない。おまえが考えもつかない悪手を打つやもしれん。たとえば、おまえを所望したのは、単におまえが欲しかったからかもしれない」
「嘘」
「確かめてみるか」

 言うや、腕を引かれて唇を塞がれた。力を抜くのを忘れてぶつかるようなそれが柚葉にとってははじめての口付けだった。荒々しく重ねられて褥に組み敷かれる。柚葉は自分に覆いかぶさる男を見上げた。夜陰を背負って、月詠は夜そのもののように見えた。

「恐ろしいか」
「……まさか」

 薄くわらって、覚えたばかりの口付けを返してやる。奪われるのなら、同じだけこの男を奪ってやればいいのだと柚葉は思っていた。それなら、決して傷ついたりはしない。貶められることもない。たぶんまだつたない柚葉の口付けに、月詠は従順にこたえた。

「おまえは何もわかっていない」

 足首をとらえる手は冷たく、まるで氷の蔓か何かのようだった。

「男は、おまえみたいな女はいたぶりたくなるんだ」

 あわせを割り開かれたとき、ひっと弱い悲鳴が口をついて出た。自らの手で口を塞ぐ。――にいさま。いやだいやだいやだにいさま、こわい、たすけて。たすけて、にいさま。口を開けば、そのような懇願が悲鳴と一緒に溢れて止まらなくなる気がした。雪瀬はここにいると言っていた。ここに。柚葉の声が届く場所に。呼んだら、絶対に助けてくれるはずだ。絶対に駆けつけてくれるはずだった。だから、呼べない。今呼ぶわけにはいかない。思いきり男の胸を押しのけて、柚葉は自分を押さえつける腕から抜け出した。

「ひっ……うう、……っ……」

 部屋の端まで逃げて、震えそうになる自分の身体を両腕で抱きしめる。醜態である。まさか自分がかように腰抜けな女だとは思わなかった。何度もえづいて震えていると、ふいに、褥に残された男の様子がおかしいことに気付いた。にわかに空咳を繰り返した月詠は、次第に身体を折って、激しく噎せ始めた。褥に赤黒い血がびしゃりと散る。柚葉は目を見開いた。先にも勝る動揺が身体を貫いたためだ。

「つ、つくよ……」
「安心しろ。うつる病じゃない」

 淡然と袖で口元を拭う月詠はこれが初めてといった様子ではなかった。ひとを、と腰を浮かせようとした柚葉の手首を月詠がつかむ。暫時、探るようなふたつの視線が交差した。

「興がそれたな。やはり風の守護が寄せつけぬか」

 苦笑を浮かべて、月詠が立ち上がる。

「……あなたは」
「他言するな」

 感情の伴わない声が釘を刺し、襖が閉められた。とたんに身体の力が抜けてしまって、柚葉は乱れた髪を梳き下ろす。他言など。柚葉が橘方の人間であるのは重々承知だろうに。それでも思いもよらない事態に、どうすればよいかわからなくなる。
 丞相月詠はおそらくもう。
 長くない。
 長くないのだ――。


 *


 朱頴三年、夏。
 橘雪瀬は南海領主・網代あせびから引き継ぐ形で検察使の職を得た。これは国全体の治安を司る要職であり、かねてよりその時の権力者がもっとも信頼を置く者が就くことが多かった。時は朱鷺帝の御世ではあるが、橘雪瀬を検察使に推薦したのは丞相月詠である。数月前に、妹が輿入れしたこともあって、これにはさまざまな憶測が飛んだ。
 いわば、膠着状態。桔梗院の死により加速するかのように見えた丞相排斥の動きは、明確な着火点を見つけられぬまま、くすぶるにとどまることになる。
 
「中には葛ヶ原領主は要職得たさに丞相に妹を売った、と噂する者もいるそうよ」

 検察使の職を賜りに、雪瀬は都へ来ていた。
 同時に白海の残党狩りを命じられ、その帰り道に亡き桔梗院の后、氷鏡藍に呼ばれて足を運ぶ。いまだ喪の鈍色を重ねた藍は、冷たい美貌に微笑を載せて雪瀬を迎えた。半蔀の外では蝉時雨が響いている。ゆるしを得て、雪瀬は顔を上げた。

「今日はいかなる用でございましょう」
「不粋ね。時候の挨拶もないの?」
「盛夏、ますます緑がうるわしゅう――」
「いいわ、もう」

 さっと扇を開く音で雪瀬の口上を遮り、藍はけだるそうに脇息にもたれる。産後ずいぶん経つのに、相変わらず藍の顔色は悪かった。それを未だどこかで案じる自分がいることに、雪瀬は自嘲してしまう。
 思えば、雪瀬はいつもそうだった。藍を捨てられない。桜ですら、雪瀬は二度も断ち切ろうとしたのに、藍だけはどうしても、いつも、切り捨てることができない。呼ばれれば、気が進まずとも足を運んでしまう。この女に本当は何の用事もなくて、ただ雪瀬が不幸そうにしているときには必ず呼びつけて、顔を見ていたぶって満足する。ぜんぶ、わかっていてもだ。
 それが愛情なのかなんなのか、雪瀬にももうわからない。

「白海行きを命じられたそうね」
「ええ」
「また、屍の山を作るの?」
「最小限にとどめたいですが」

 無意識のうちに言葉にこもった重苦しさを感じ取ったのか、藍はふふっと淡く微笑んだ。藍の精神は、雪瀬のほうの精神の荒廃とちょうど逆さまになるらしい。穏やかに微笑む藍をたぶん雪瀬はすさんだ目で見つめている。それに気づかないふりをして、藍はおもむろに腰を上げた。しゅるしゅると衣擦れの音がして、女が雪瀬の前に立つ。扇で無理やり顎を持ち上げた。横柄な仕草だった。

「今の気分は?」

 愉しむ様子で藍が尋ねる。
 雪瀬は口をつぐんだ。

「今の気分は、葛ヶ原領主?」

 藍は問いをやめない。

「屍の山をうまく作ったおかげで、別の屍の山を作れるようになった今の気分はどんな?」

 蝉時雨がひときわ大きくなる。
 緊張の糸が急に切れた気がして、雪瀬は薄くわらった。

「さいあくだ」

 女の持つ扇を手の甲で払って、ゆるしも得ずに腰を上げる。女官に引き止められた気もするが、もうどうでもよくなっていた。桔梗院から外に出ると、灼熱の太陽が容赦なく射す。視界が白濁し、雪瀬はよろめいて柱に手をついた。頭が痛い。どこを歩いているのかよくわからない。進むべき道も。こめかみを揉んでいると、それでも徐々にあたりは精彩を取り戻した。
 ――かえりたい、と。
 風吹き渡る土地で、今も自分を待っている娘のもとへかえりたい、と。とみにくるおしい郷愁の念に駆られたが、ぼんやりしている時間はなかった。しとど滴り落ちた汗を乱雑に手で拭って、雪瀬はきびすを返す。




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