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四章、炎天(2)




 検察使を引き受けた雪瀬が最初に取りかかったのは、南海事変の後処理だった。事変以後、南海地方は未だ安定を欠いていた。各地で勃発する小競り合いや、実行に至る前の計画を見つけ出しては、ひとつずつ火種を消していく。各地と都の往復で、ひと月に数日しか葛ヶ原に戻らない日もあったし、その数少ない日は山と積まれた決裁や話し合いに費やしていたから、桜はこの頃の雪瀬とほとんど会話を交わした記憶がない。
 領主不在の間、内政は家令の蕪木が取り仕切っていたが、儀礼的な役割だけのものなら、桜が代理をすることもあった。長老たちの治める土地への定期的なおとない。毬町や瓦町が催す茶会。人脈の構築。これまではすべて柚葉が担っていた役目である。社交術に長けた柚葉と桜では、できることに雲泥の差があるにちがいなかったが。
 学ぶしかない。
 ひとつずつできることを増やしていくほかないのだ。
 この場所で生きていくために。

 朝ぼらけの月が低い空に架かる頃。
 額を撫ぜる風の気配を感じて桜が目を開くと、無為に投げ出した手を握るひとまわり大きな手があった。褥にうつ伏せたまま、外行きの上着をかけた肩がすぅすぅと規則正しく上下している。上着を脱ぐのも忘れて寝入ってしまったらしい。

「雪――、」

 揺り起こそうと手を伸ばしかけ、思い直して夜具を引き上げる。

「桜さま」

 いつもより寝起きの遅い「奥方さま」を案じて、外から声をかけられる。はい、とこたえてから、襖を開けようとした少女に、しぃ、と指を立てる。瞬きをした少女は遅れて状況を理解した様子で、また静かに襖を閉めた。にわかに色付き始めた樹影を障子戸越しに見つめ、桜は少しの間目を瞑った。
 はなしをしたいな、と思った。
 雪瀬とはなしを。
 もうどれくらいしていないのだろう。柚葉の輿入れが決まったときもつらかったけど、雪瀬はもっと傷ついているんだろうなと思ったら、結局何も話せずじまいだった。何もできないまま。疲弊しきって帰ってくるひとを所在なく迎えては見送っている。繰り返し。その、繰り返し。

 ――守ってあげてくださいね。姉さまが。柚のお願いです。

 柚。でも柚がいないとわたし。
 わからないよ。
 守り方がわからないよ。
 どうしたらいいのか、どんどんわからなくなっていくの。

「ふ……」

 こみ上げかけた重苦しい感情をのみくだすと、桜は口を引き結んだ。眠りの中にあるそのひとの髪に指を絡めて、あらわにした額に口付けを落とす。

「あんまり無理、しないでね」

 そっと、祈るようにささめきながら。
 ――この年から翌年にかけて、橘雪瀬は忠実に検察使の職務を全うした。事前に食い止められた争いは数十をくだらず、実際に発展した争いもすぐに鎮圧された。文字通りそれは東奔西走の日々となった。




 ひらりと舞い散る花びらを桜は見上げた。
 例年にない寒気が過ぎ、今年も葛ヶ原の桜は健気に咲いた。招かれた長老の庭には、二本の桜が連理の樹のごとく幹をもたせあいながらたたずみ、春の柔らかい陽射しに、黒々とした幹を温めている。花は盛りを過ぎて、今ははらはらと散りゆくばかりだ。
 桜は近頃、橘の先々代の奥方が着ていた衣を仕立て直して、袖を通すようになった。花鼠の小袖は、しっとりとした鼠色の内側から仄かに薄紅の花が薫るようでとても品のよいものだったけれど、お若いのだからもっと華やかな色を纏えばよいのに、と橘のひとたちは言う。だけど、桜がそういった色合いばかりを好んで着るので、ああ領主様の地味癖がうつったのだと、呆れ交じりに笑われるのだった。

「それで、おはなしは、」

 するりと花びらの一枚が花鼠色の上に落ちる。桜はとりとめもなく考え事をするのをやめて、対面の長老に視線を戻した。今日は長老からの名指しであったのだが、何の用件かまでは教えられていない。それで、茶を出されるままに、長老が口を開くのを待っていたのだが、相手は近頃の陽気や世間話をするばかりで、一向に本題に入らない。仕方なく、自分から聞いた。外では竹が待っている。

「ああ、申し訳ない。退屈でしたか?」
「……いいえ」

 こらえて、桜はふるりと首を振る。
 桜を招いたのは、蜷(ケン)に接する雀原(すずはら)をおさめる長老で、正直に言えば、桜はこの長老が苦手だった。雪瀬と結婚した当初、桜のことを遠巻きにうかがった他の長老とはちがって、友好的に話をしてくれるひとりであったが、その目がいつも計算と猜疑に満ちて自分を推しはかっていることに、桜は気付いていた。まるで桜が間違えるのを待ち構えているかのようだ。

「何年になられますか」

 長老がまた婉曲的な物言いをしたので、桜は曖昧に首を傾げた。長老は呆れたような、愉快がるような顔つきをして、この鈍い当主の妻に言葉を継いだ。

「あなたと雪瀬さまが夫婦になられて、何年が経ちますか」
「確か、二年だったとおもいます」
「それは結構」

 どのあたりが結構であるのか、桜にはよくわからなかった。それで黙り込んでしまうと、雀原の長老は肘掛を引き寄せて姿勢を崩す。こういう態度は、雪瀬や柚葉がいたらまず取らない。目の前の長老もそれは心得ていて、桜とふたりだけだからこそのふるまいだ。上座に座した桜は代わりにますます萎縮しきって、こごった息を吐き出したくなった。蕪木に言って、断ってもらえばよかった、と思う。そうでなければ、柚葉がいてくれたらよかったのに。

「柚葉さまが丞相に嫁がれて、雪瀬さまもさぞ悲しまれていることでしょう」

 まさしく今しがた考えていた名前を出されて、自然長老のほうへ視線が吸い寄せられる。もちろん奥方様も、と長老は付け加えるように言った。

「しかも、南海事変による派兵に、襲撃事件と心の落ち着かれる暇がない。慰めが必要かと存じます」
「なぐさめ」
「――八千代(やちよ)」

 長老が襖の外へ声をかけると、まだ年若い、十六か七ほどの少女が現れた。瞬きをした桜に、「娘の八千代と申します」と長老が説明した。

「八千代。奥方さまにご挨拶せい」
「あ、や、八千代と申します」

 緊張で頬を染め、八千代が頭を下げる。少女らしい初々しさは桜には好ましく映った。

「はじめまして。桜です」
「齢は今年十六になったばかりですが、健康な娘です。性質も明るい」

 突然娘の品評を始めた長老に、桜は首を傾げる。話の向かう先がわからず微かに眉をひそめると、長老はわざとらしく咳払いをした。

「奥方さまはそのう、体質上――」

 桜を一瞥し、長老は言った。

「御子が作れない」

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が桜に走った。言葉自体にではない。急に、この話の行き先が見えてしまったためだ。

「柚葉さまが輿入れされ、橘宗家のお血筋は雪瀬さまをおいてほかにあらず。しかし正妻であるあなたとの間には子どもは設けられない」

 確かに、夜伽は子どもを作れない。雀原が指摘することはまちがいではなかった。

「ゆえ、この八千代をお側に取り立てられるよう、奥方さまからお口添えいただけませんか」

 雀原は肘掛に寄りかかってぬけぬけとそう言った。すでに話は聞かされていたのだろう、八千代は緊張した面持ちで座している。

「もちろん異存はありますまい?」
「……あ、」

 どうしたらよいか急にわからなくなって、桜は目を伏せた。

「あの……、」
「それとも奥方さまは、十全にお役目を果たしている自負がおありで?」
「……いえ、」

 やめて。

「いいえ」

 やめて。
 わたしからあのひとをうばわないで。
 おねがい。
 とりあげないで。
 桜は目を瞑った。
 手を組み合わせて、ようやくひとつ呼吸を整える。

「……わ、わたしにはお答えできない、おはなし、なので」

 相談なら当主である雪瀬と家令にするようにと、それだけを言うのにひどい忍耐と体力を要した。
 桜は震える指先を握って、深く俯く。
 実際のところ、否定も肯定も桜にはできなかったし、長老と領主の力関係は微妙なところが多かったから、了承するだけの権限も持ち合わせてはいなかった。だから、答えとしてはこれが正しい。雀原はまずは家令に相談するべきなのだ。けれど。

「桜さま。そろそろ日が暮れてしまいますよー」

 襖の外から竹にのんびりとした声をかけられ、桜はやっとこわばりを解くことができた。雀原が舌打ちをして、無断で襖を引き開けた小姓の少年を睨む。

「話の途中で割って入るとは無礼な。外で待っておれ」
「そう言われましても」

 桜と長老とを見比べた竹は、ことさらにのん気な声を出した。

「奥さまのことはわたし、雪瀬さまからきつく言われているんです。日暮れの前にお連れします。行きましょう、桜さま」

 腕を引かれ、よろめきながらなんとか腰を上げる。

「今の話。よくよく考えてくださいませ、奥方さま」

 冷ややかに言い放ち、雀原は見送りのための使用人を呼んだ。




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