足元に伸びた影ぼうしを桜は見つめた。葛ヶ原へ帰る間も、頭の中では先ほど雀原の長老に言われた言葉が回っている。
――そくしつ。
考えたことがない言葉ではなかった。そもそも、子どもを作れない、愛玩に過ぎない、夜伽を妻にする男のほうがたいへんめずらしい。さらに雪瀬は、桜を、桜だけを、自分の妻にと望んでくれた。こんな幸福はきっと得難いものにちがいない。
――じゅうぜんに。
――じゅうぜんに、役目を果たしている自負が、おありで。
ぼんやりと考えているうちに目の前が落日の赤で染まって、うまく歩けなくなる。桜はついに道の途中で座り込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか! 桜さま」
前を歩いていた竹が気付いて駆け戻り、桜の背をさすった。
「真っ青ですよ。歩けますか? わたし、負ぶいましょうか?」
まるで力こぶのない細腕を掲げた竹に、だいじょうぶ、と苦くわらって首を振る。手を借りて立ち上がろうとすると、竹は桜の両肩をおもむろにつかんだ。
「蕪木さまに相談しましょう、桜さま」
めずらしく真摯な少年の目だった。何を、と桜は聞かない。ただ、聞いていたの、と呆れて呟いただけだ。
「聞いてますよ、当たり前です。大事な奥さまですから、いつだってずっと張り付いていますよ。今は雪瀬さまはお留守だから、まずは家令の蕪木さまに相談するべきです」
「……わかってる」
「言いにくいなら、私から」
「ううん。自分で言う。ついてきてくれる?」
もちろんです、と竹は力強くうなずいた。
屋敷に戻る頃にはどっぷり日も暮れていたが、蕪木はすぐに桜のために時間を作ってくれた。雀原から相談された話を包み隠さず打ち明ける。しばらく渋面で話を聞いていた家令はやがて、うむ、とひとつうなずいた。
「取り合う必要はございませんな」
ほうと竹が詰めていた息を吐く。愁眉を開いて、蕪木は桜の手を取った。
「よくお伝えくださいました。まったく雀原め、領主さまが留守であるのをいいことに勝手なことを言いおって……。あなたがたの婚姻は長老たちがすでに認めたものですから、今さら横槍を入れるのはおかしいのですよ」
「でも……」
雪瀬に跡継ぎがいない件も、桜が子どもを作れないことも、解決には至っていない。言い出しづらく目を伏せた桜に、「ご案じなさいますな」と蕪木は首を振った。
「そのための蕪木であり、五條です。先々代――雪瀬さまのお父上とて、もとは宗家夫妻に御子がなかったところを分家から養子を取ったのです。何ら特別なことではございませぬ」
「でも」
「奥方さま。どうか気に病まれぬよう。あなたさまはあなたさまのお役目を果たしてくださいませ」
「わたしの……?」
鈍い反応を繰り返す桜に、蕪木は苦笑したようだった。
「御子を作るために、雪瀬さまはあなたさまを所望したわけではありますまい」
「……あのひとはやさしいから」
「どうでしょう。私には左様に甘い方には見えませんでしたが」
俯いてしまった桜の肩を蕪木が励ますように叩いた。
「あまり気負われますな。あなたに塞がれてしまうと、私もつらい」
「雪瀬には」
膝に置いた手できゅっとこぶしを作り、桜はようようそれだけを口にした。
「私から言います」
「そりゃあ、傑作だな!」
話を聞いた紫陽花(あじさい)は手をほとほとと鳴らして爆笑した。いたわってくれるとは思っていなかったけれど、あまりに露骨な態度に桜は憮然としてしまう。
「それで、その八千代とやらはどうしたのだ? 張り手は? こぶしは? 妻の座をめぐる争いは勃発したのか?」
よりにもよって紫陽花に先日の一件を吐露してしまった自分に早くも後悔して、桜は手に持った茶碗に目を落とした。
百川諸家が催した茶会の席である。
すでに会はお開きになっていたが、紫陽花が私的に桜を呼び止め、自室に招いた。何故かはわからないけれど、許嫁騒動で不思議な縁を持ってからというもの、紫陽花はやたらと桜に構いたがる。なお前年瓦町に戻った漱(すすぎ)は朱鷺帝たっての願いで近侍に選ばれて、忙しくしていた。
「しかし、意外だな」
水羊羹をぺろりと三切れ食べたあと、紫陽花はようやく渋めに入れた番茶を啜った。何が、と尋ねた桜に、意味深に口端を上げる。
「昔のそなたなら、もっと怒るとか、泣くとかしただろうに。家令に報告して終わりか。存外あっさりしておるのだな」
「……そんなこと、もうしないよ」
「そうかの。まあそなたも少しはものの道理がわかって、大人らしゅうなったのかもしれんの。今はきちんと門からやってくるしのう」
たぶん今のは昔、崩れかかった塀から橘邸に侵入した桜への揶揄だ。この女性は記憶力がやたらによくて、未だにいちいち桜の失敗談を取り上げては笑うからたちが悪い。もういい、と話すことを諦めて、自分のぶんの水羊羹を切り分ける。昼下がりであるが、室内にはうだるような熱気が立ち込めていた。紫陽花はほつれた髪を耳にかけて、緩く団扇を扇ぐ。
ふと桜は羊羹を分ける手を止めた。
尋ねたいことがあった。この女性に。
だけど、それは同時に尋ねたくないことでもあった。知りたいし、知りたくないことであったから。
「紫陽花」
しばらくの懊悩の末、桜は口を開いた。
「夜伽は、ほんとうに……子どもを作れないんだよね」
かつてしらら視であり、数多の人形をつくったこの女性なら、答えを持ち合わせているはずだ。少し首を傾げるようにして紫陽花は桜を見た。今は淡い紫の眸が眇められ、ふっとひとつ息を吐く。その仕草で桜は悟った。希望などはじめからなかったのだと。
「それは叶わぬ」
紫陽花は言った。
「そなたがひとと同じに歳を重ねることができないように、これはことわり。気持ちだとか想いだとかでどうこうできるものではない」
「……そう」
「今さら聞くことか? 知っておっただろうに」
「うん。知っていた」
桜は膝の上に手を重ね、俯いた。口を引き結んでそのまましばらく黙っていると、紫陽花がちらりとこちらをうかがって呆れた風に鼻を鳴らす。
「めそめそと泣くでない。わずらわしい」
「……うん、」
「そのうえ、暑苦しい。泣くなら出ていけ。羊羹がまずくなるわ」
「……ん、…」
目の前が白濁としてうまく背筋を張っていられなくなる。雀原からの帰り道と同じだった。桜はふらふらと畳に突っ伏した。途切れ途切れの嗚咽がこぼれて、自分が思うよりずっと何かに期待をしていて、今それが裏切られてしまったらしいことに気付く。紫陽花の前でよかったと思った。こんなみっともない泣き方、葛ヶ原でしたら皆に心配される。
「……ほれ」
嗚咽がおさまってくると、紫陽花はばつが悪そうな顔で懐紙を放った。
「鼻くらい噛めい。畳を汚しおってまったく」
ぶつくさと文句を言う紫陽花の声を聞きながら懐紙を当てる。茶を啜る紫陽花は複雑そうだった。
「そんなに」
紫陽花は呟いた。
「そんなに子どもが欲しかったのか、そなた」
畳にうずくまったまま桜は小さく首を振った。
「だったら――」
「あげられるものがない」
膿を吐くように。
吐露する声は少し震えていた。
「雪瀬にあげられるものがなにもない」
紫陽花は口をつぐんだらしかった。
――かつて。
まだむずかしいことは何もわからなかったあの頃、桜は。
ただ、雪瀬が欲しかった。
あの、桜にとっては何よりもうつくしくて、弱さを抱えて必死に生きているひとのそばにいたかった。雪瀬もまた、桜の想いを受け取って、生涯の伴侶に桜を望んでくれた。うれしい。本当にうれしかった。奇跡のようだと思えるくらい。このひとと生きていけるなら、何もいらなかった。なにも、なにも、ほかに欲しいものなんてない。
けれど、近頃別の想いがひやりと心臓をなぞる。
夜明けの白々とした薄闇のなか、疲れきったそのひとの寝顔を見ているとき。徐々に倦んでいく、冷たくて痩せた頬に手を触れさせるとき。……雪瀬が欲しいものはいったいなんだったんだろう。それは桜にとっては初めて考えることだった。こんな未来で、よかったのかな。こんな日常のために、このひとは一生懸命生きてきたのかな。とめどなく争いと向き合い続ける日々を。望んでいたのだろうか。
「くるしい」
こたえが見つからない薄闇の中、それでも日々は繰り返される。
「くるしい」
見送り続ける。
何度も、何度も。
「終わりがみえないの」
あてのない問いに、応えがかえる日は来るのか。
嗚咽になりきらない吐息がぐずぐずと咽喉を震わせた。ぜったいに、だれにも言えずにいたことをどうして紫陽花にだけ漏らしてしまったのか桜にはわからなかった。こんなことを、誰かに、雪瀬に、言えるわけがない。ぜったいに、言えるわけがなかった。だって今もあのひとは戦っている。
「前言撤回だな」
紫陽花は肩をすくめたらしかった。畳に突っ伏した桜のかたわらに、幾枚かの懐紙が無造作に置かれる。
「そなたはまったく変わっとらん。馬鹿であほうな、昔のままじゃ」