所変わって、紫苑(しぞの)の宮中。昼の御殿である。
二藍の袿に長袴をしゅるしゅるとさばいて、外廊を足早に歩く少女がひとり。今上帝と母を同じくする姫皇女、蝶姫だ。
「朱鷺の兄上!」
うず高く積まれた書物に埋もれるようにして仕事をしていた朱鷺をひと睨みすると、本の山を半ば蹴り倒す勢いで蝶姫は進み出た。
「聞いたぞ! あれはいったいどういうことじゃ!」
先年の桔梗院崩御のあと、西方の社に籠っていた蝶姫は、ひと月ほど前にようやく都へ戻ってきた。すでに形式上の挨拶は済んでいたが――、久方ぶりの私的なおとないかと思えば、えらい立腹ようである。官衙から上げられた秋の除目案に目を通しながら、朱鷺は苦笑した。蝶が何に対して怒っているのかはだいたい察しがつく。
「橘のことか」
「そうじゃ!」
うなずく蝶は今にも身を乗り出さんばかりだ。姫様、と追いついた侍女の縞がたしなめるが、まるで耳に入っていない。こういった良くも悪くも破天荒な姫皇女のふるまいは、歳を重ねてもおさまるどころか、ますます奔放になるばかりだ。
とにかく腰くらい落ち着けよ、と朱鷺が対の座を勧めると、蝶はようやく身を引いた。この変わり者の妹姫が文句を言いに来たのは、どうやら橘の妹君と丞相月詠の婚姻のことであるらしい。
「兄上としたことが、何故かような婚姻をお認めになった?」
「長年父に仕えた恩賞じゃ。それで橘の妹が欲しいと言われれば、拒むこともできまい。俺もしてやられたとは思ったが」
重い息をついて、朱鷺は広げた巻物を片付ける。対する蝶は口をへの字に曲げて、いかにも不服げだった。
「だが、好いてもいない男に嫁がされるなど……」
「蝶。現実とはたいていそういうものじゃ。朱表紙の『ときめきらぶ浪漫』は、朱表紙で起こるからこその『ときめきらぶ浪漫』なんだ」
「兄上がつまらん」
蝶にもわかる言葉で説いてやったというに、相手は呆れ返った顔で腕を組んだ。
「橘は愛する娘を――桜を召し上げたではないか」
「それは数少ない例外であろう。胸に手をあてて考えてみよ、ほかに好き合う同士で夫婦になった者がおるか」
すげなく切って捨てると、「なんと世知辛い世の中か……」と蝶は年寄りじみた嘆息をこぼした。書物の山に埋もれかけていた碁盤を引き上げて、無為に石を置く。おなごだてらに蝶は碁を嗜むし、腕前もそこらの貴公子どもなら平然と打ち負かす。石をぽいぽいと置いて、蝶は考えこむように顎に手をあてた。
「なあ、兄上。丞相はいったい何を企んでいるのだろうか」
「さてなあ。月のことで、ある程度で察しはつくが」
「ふうむ……つまり?」
「つまり、俺の身に何かあれば、次期帝は月ということじゃ」
あっさり明かすと、「兄上」と蝶が剣幕を変えて身を乗り出す。そうすると置かれていた碁石がばらばらと音を立てて落ちた。飛びかかりかねない妹に苦笑して、「冗談だ」と言い直す。
「あせびは蟄居となってしまったが、都には俺の兵もいる。そうやすやす、やられはしないさ」
「だが、兄上……」
「それよりも、蝶。東宮職から上げられた人選でひとつ、迷っている。そなたに相談できればと思っていたのだが」
話をそらすつもりで巻物を掲げてみせると、「ふむ?」といった顔で蝶は眉を開いた。
「月の教育係か」
「玉津卿の鬱金姫が流罪となり、代役となった者もやめてしもうてな。丞相方が推薦している人間もいるのだが……、いかんせん、あちらの思うとおりにさせるのものう。ただ、皇太子の養育係になれるほどの女人ともなると、なかなかふさわしい家柄の者がいなくてな」
「ふうむ。もしや、兄上は阿呆か?」
返ってきた言葉に、朱鷺は眉根を寄せた。
「蝶。兄に向かって阿呆とはなんぞ」
「だって、ここにおるではないか」
「は?」
「だから、ここに、あなたの妹がおるのではないか。月とも半分だが血が繋がっている。格というのなら、この蝶をおいて高い家柄の娘が他にいるか?」
さも名案だという風に蝶は胸を張る。朱鷺は唸った。人選の相談をこの妹にしたことを早くも後悔したからである。
「阿呆はそなただ、蝶。みすみす妹を敵方に送る兄がどこにおる」
「橘はまったくそのようにしたと蝶は思ったがな」
あっけらかんと引き合いに出す蝶を朱鷺はまじまじと見つめた。よもや、と思い至る。
「そなた、はなからその話をしにここに来たわけではあるまいな」
「何のことやら。蝶は朱鷺の兄上を一発殴りに来ただけじゃ」
「殴りにのう」
「兄上の御顔を見たら、まあ菓子を投げつけるくらいで許してやる気にはなったが。のう、兄上。先の件、真面目に考えてくれ。蝶はずっとあなたの力になりたかったのだから」
翠の眸が真摯な光を湛えて、朱鷺を見据える。そういえば蝶はかつて朱鷺が毒だの暗殺者だので殺されかかるたび、顔をくしゃくしゃにして駆けつけたものだった。あんなに小さくて能天気だった妹がのう、と蜷への使節を果たした弟に続いて、不思議な感慨に駆られる。
「……わかった。考えてはおこう」
しこうして肩で息をつくと、蝶は破顔して、「よし!」とこぶしを固めたのだった。
「あなたと桜サンってやっぱりとっても似ているなあと俺は思うんだけども」
橋廊を歩いていると、いつの間にか追いついた男が隣に並んでそのように言った。何の話じゃ、と蝶は夏椿の花を挿したかぶりを振って、自分より上背のある男を睨む。真砂は肩をすくめた。
「無鉄砲なところとかさ。勇敢さだけがいっちょまえのところとかさ。似てません?」
「うるさい。桜と蝶に失礼だ!」
婉曲的な言い回しは、この蒸し暑さだとさらに癇に障る。声を荒げた蝶に、だって本当のことだもの、と嘯く真砂はさして意に介した風でもない。
「それで、月皇子の教育係をするん?」
「兄上が認められればな」
「ふうん」
うなずきつつ、真砂は組んだ腕に頭を載せて、茜に染まり始めた空を仰いだ。外廊に並ぶ釣り灯籠に明かりはまだ入っていなかったが、代わりに落日が男の頬をほのかに照らしている。それを横目で見やり、おまえは、と蝶は胸のうちだけで呟いた。おまえも一緒に来るのか。
「おい、下僕」
「……返事はしませんが、何」
「たとえば蝶が、意に染まらぬ殿方のもとへ嫁ぐことになったらだな……」
話しながら、いったい何の話を始めているのだ蝶は、と自分で自分に首を捻る。確か今は月の教育係のことを考えていたはずなのに。ごにょごにょと歯切れ悪く押し黙った蝶を振り返ると、真砂は怪訝そうな顔をした。
「ナニ、いつもの妄想? 朱表紙?」
「も、妄想などと言うな! 乙女の夢と言え!」
「蝶のことが俺はよくわかんなーい」
「そなたのほうがよっぽどわけがわからんわ。なんだかんだ蝶にくっついてくるし! 理由もきちんと言わんし! つ、つまりそなたのほうがわからない、蝶の勝ちじゃ!」
何故か別のことのほうに夢中になり、ふん、と鼻を鳴らして蝶は胸をそる。不意にふわりとひそやかな影が目の前に落ちた。甍の向こうに架かっていた落陽が隠れる。さやかな風に包まれた気がして瞬きをすると、真砂が離れたので、おや、と思った。今。触れてはいなかったか。つまり唇が。
「わかった?」
はたはたと瞬きを繰り返し、呆けた顔を蝶はした。
そのまま、髪房を耳にかけてささめく男を見上げ。
「うぎゃああああああああああああああああああ!?!?!?」
勢いよく飛びすさると、宮中に響き渡る奇声を上げたのだった。