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四章、炎天(5)




 乞巧奠が近付き、都の大路には笹売りが歩き始めた。
 丞相邸でも軒下には誰が持ってきたのか、大きな笹が置いてあって、さらさらと時折涼しげな葉音が立てている。朝の風に頬を撫でられ、柚葉は目を覚ました。まだ早朝にあたる時間だ。夜着を畳むと、流水紋様の描かれた薄物にきりりと藍色の帯を締めて、廂に出る。それで、軒下に立てかけられた笹が傾いているのを見つけて、あらあら、と目元を和らげた。

「まったく誰のいたずらやら」

 自ら笹の位置を直していると、庭の垣根からひとの視線を感じた。半分ほど垣根から顔を出して柚葉をうかがっている娘。確か、白藤(しらふじ)といったか。月詠の十人衆のひとりで、何故かときどきふらりと屋敷の厨にやってくることがあるので、覚えてしまった。

「おはようございます」

 目が合ったとたん、きびすを返そうとした少女の背に声をかける。びくりと肩を跳ね上がらせて左右を見回したあと、自分に声をかけられたと気付いたらしい。耳下のあたりで切り揃えた黒髪を揺らして、白藤はこちらを振り返った。

「おまえ――」

 何度かためらってから、おそるおそる口を開く。その様子がかつての桜を思い起こさせて、柚葉は目尻を下げた。

「なんです?」
「おまえはごはん、作るのか」
「ごはん……ですか?」

 意図をはかりそこねて、柚葉は首を傾げる。とたんに白藤の顔に悲哀とも憤怒ともつかない色合いが広がった。

「お、おまえも、ウソツキ! キライ!」

 叫ぶと、からりと駒下駄を返す。遠ざかっていく背中に瞬きをして、柚葉は笹から手を下ろす。どうやら嫌われてしまったらしい。せっかくおはなしできると思ったんですけどもね、と息を吐いて、日の上がり始めた空を仰いだ。扇、と呼べば、屋根に留まっていたらしい白鷺が腕に降りてくる。柚葉が輿入れした際に、雪瀬が置いていったものだ。連絡のとき以外は好きに使ってよいと言われているので、都の情報を集めさせている。

「出かけますよ。お話は道中聞かせてください」
「出かけるってどこへだ?」

 首を捻った白鷺に肩をすくめて、柚葉は下駄に足を入れる。

「お味噌を切らしたんです。扇にも甘味を奢りますよ」
「……葛きりでもいいのか。蜜がたっぷりかかったやつ」
「葛きりでも、餡蜜でも、なんでも」

 この白鷲の甘味好きには、いつもおかしくなる。やたらに都の甘味事情にも詳しく、いつもその季節のいっとうの品を柚葉にねだるのだ。衣川沿いに店が連なる東市へ向かう。乞巧奠が近いからか、どこの家も軒下にとりどりの糸や願い札をかけた笹を立てかけている。梅雨が明けた空はすがすがしい。

「月皇子の教育係が蝶姫に決まったらしいぞ」

 宮中の内情から市井に流布する噂のたぐいまで、ひととおり集めてきた情報を伝えると、扇はふと思い出した様子でそう言った。

「蝶姫様が? それはまた。帝のご意向ですか」
「本人が申し出たらしい。蝶姫の熱意に負けて帝が認めたのが実際のところだ。日取りはまだ決まっていないが……」
「ずいぶんお詳しいですね。誰からのお話です?」

 ちらりと視線を向けると、扇はあからさまに動揺した様子で、「いや」と言葉を濁した。

「ひとが話しているのをたまたま聞いたというかだな」
「橘から出ていった人間にも、甘味を馳走になっているというのはいかがなものかと思いますよ」
「えっ、いや、俺は真砂に水まんじゅうをもらったなんて一言も……」

 今言った。まさに言った。
 苦笑し、「水まんじゅうをくれた方は元気にやっていますか」と尋ねる。何年も前、兄が一度だけ都で会ったと教えてくれたことがあったが――、あの男であるから、しぶとくやってはいるのだろう。
 市で味噌を購入し、扇には約束の葛切を奢って別れる。味噌の包みを抱いて、ひとり柳の並ぶ川沿いを歩く。岸辺には群生する菖蒲が今は鋭い剣先のような葉だけを残している。市の近くであるので、船の通りが多い。日差しの強さに少し疲れてしまって、柚葉は船着き場のそばに腰を下ろした。うなじを手巾で拭い、抱いた膝を少し引き寄せる。
 幸か不幸か、肩書上は婿になった丞相は、ほとんど屋敷に帰ることがなかった。初夜の一件もある。顔を合わせるのはやはりこわい。でももしも柚葉が屋敷を空けたら、逃げたと思われるだろう。それはできない。決して、絶対に。だから、柚葉はつらいときは自分を抱きしめてくれた清らかで優しい腕を思い出すことにしている。まだ、大丈夫。まだ、いける。まだ、わたしは壊れない。まだ。

「どうされました? ご気分が悪いのですか」

 俯いたままでいると、通りかかったらしい渡し守に声をかけられた。いえ、と柚葉は気を取り直して、顔を上げる。

「少し立ちくらみがしただけです。お気遣いなく――」

 話しながら相手を見て、一瞬言葉を失う。相手もまた、笠の下からはっとしたように目を瞠るのがわかった。ゆずはさま、と声にならない声がこぼれた。
 ――暁。
 柚葉は忘れようもないその名を胸中で呼んだ。
 人形である暁は短い黒髪も、朝空を思わせる眸の色も、容姿も、すべて記憶のものからまったく変わっていなかった。ただ、櫓を握るたたずまいに、この男がもう長らく今の仕事についているらしいことがわかった。

「何を運んでおいでなのです?」

 背筋を伸ばして、柚葉は男が操る船をのぞきこむようにする。柚葉の意図が伝わったらしい。ややもして、暁は「塩です。南海の」と答えた。

「この仕事はもう長いのですか」
「ええ、ずいぶん」
「暮らしぶりはよく?」
「ええ、食べて、寝て、生きる程度には」
「そう。それはよかった」

 柚葉は船の前にたどりつくと、髪を夏風に揺らしながら、すこし微笑った。

「柚も、遠くまで連れて行ってくださいますか。渡し守さん」

 それは戯れだった。
 柚葉にもう、暁を責めるだけの気概はない。責めてなじるには、ずいぶん長い時間が経ち過ぎていた。この男が橘を裏切って、上の兄が磔刑にかかり、下の兄が領主の座について。さまざま、変わった。十三のときの幼い胸中など、もはや思い起こすこともできないくらいに。柚葉はだから、この刹那の邂逅に戯れることにした。
 暁はしばらく柚葉を見つめていたが、やがて眉をひらいて静かにわらった。悔恨と苦悩がつかの間浮かんだ気もしたが、それももう、この男にだって置き所を得た感情であるのだろう。

「あなたがお望みならば。美しい方」

 そうして絡めた指先も、過ぎ去る熱のように、明日には忘れてしまうのだろうけども。





 馬を駆って葛ヶ原に戻ると、屋敷がにわかに騒々しい。
 こういう感覚には覚えがあった。雪瀬だ。特段騒がしい性格のひとでもないけれど、当主である彼が戻ると不思議に屋敷は活気づく。あるべきものがおさまったかのように。桜が厩に馬を返していると、案の定それに気づいた竹が駆け寄ってきた。

「おかえりなさいませ、桜さま。聞いてください、びっくりしますよー、朗報です」
「雪瀬が帰ってくるの?」
「な、なんでわかったんですか?」

 いささか出鼻をくじかれた様子で瞬きをし、竹は馬の背から鞍を下ろすのを手伝う。

「南海地方の後処理が思ったよりも早く終わったそうで。ひと月早いお帰りですって。今回は次のご予定もないから、しばらく葛ヶ原におられますよ! よかったですね、桜さま。おはなしがたくさんできますよ」
「そうだね」
「なんだか桜さまの反応が薄いです……」

 むぅ、と不服そうに唇を尖らせ、竹は桜の顔をのぞきこんだ。それで何かに気付いた様子で眉根を寄せる。

「というか、お顔が青くないですか、桜さま。暑気あたりかな……。お熱は? ないですか? 寒気は?」

 額や首のあたりにぺたぺたと触れるうち、竹の顔が真剣味を帯びる。

「冷たい……。まずいな。朧さんを呼んでまいりますよ、私」
「待って、竹。だいじょうぶだから――」

 おおごとにしないで、と。きびすを返した竹を引き留めようと腕をつかんだところで、足元が揺らいだ。ふらふらと竹の背中に額をあてる。桜さま、と呼びかける声が聞こえた気もするけれど、それから先のことは覚えていない。


 ぴちょん、と額に触れる水の気配で、意識だけがゆるゆる浮上した。誰かの手のひらが目元に載っている。水のにおい。初夏の雨上がりの澄んだ気配。雪瀬だ。雪瀬がそばにいる。

「お心からくる御不調でしょう」

 少し離れたところから朧の声がした。雪瀬はそれに耳を傾けているらしい。

「心?」
「身体ではなく、すり減らしているのはお心のほうでは。ゆえ、すぐに治るとも治らないともいえる」

 交わされる声は、どうやら自分のことを話しているようだ。短い沈黙があり、「雀原のことか」と雪瀬は言った。その名前でふっと夢うつつをたゆとうていた意識が目覚め、おきないと、と思った。起きて大事はないと伝えないと。雪瀬が抱えているものをまた増やしてしまう――。

「あなたも柚葉さまもおられない葛ヶ原で、一心に奮闘されていたのです。少し休ませておあげなさい。失いたくないのなら」

 気遣いに満ちた朧の声は、けれど桜をさらに追い詰めた。なぜ。どうして。桜の身に起きたのは、雪瀬や柚葉に比すれば、些細なことだ。ほんとうに、取るに足らない、些細な。それなのに、どうして。
 どうして、どうして。
 あなたを支えたい、こんなときにどうして。
 重く苦いものが胸に広がっていく。薬を飲まされたのだろうか。短い夢を何度か見て、ふわふわと意識がのぼってはまた沈んで、考えることにも疲れた頃、ふいに目を開いた。淡い蜜蝋の明かりが少し離れた場所に射している。書きものをしている見慣れた背中が目に入った。そっと呼びかけた声は咽喉を震わせなかったのだけども、相手は何故か気付いて、「ああ、起きた」と褥のそばにかがんで桜の頬に触れた。

「……あ、」

 呟く声に瞬きをすると、「くっついた、墨」と雪瀬は己の手を見て言った。

「書きものしていたの?」
「手紙をひとつ。毬街の怖いばーさまに」
「墨のにおいがする」

 拭おうと触れた手に、頬を擦り寄せて目を細める。水にさらした手はいつもよりひんやりとしている。墨と水のにおい。雪瀬は桜のこめかみに張り付いた髪を指でのけて、頬を手のひらで包んだ。

「何かほしいものある?」

 たぶん深い意味はなかったのだろうと思う。水が欲しいとかおなかがすいていないかだとかそういうことを雪瀬は訊いたのだろう。けれど、その言葉は桜に別の記憶を呼び起こした。――どうしてほしい? 前に雪瀬が訊いたことがあった。どうしてほしい、桜。どこか荒んだ目をしたそのひとに、桜はあなたが欲しいと、それ以外は何もいらないと、たしか、こたえた。

「わらってほしいな」
「え、」
「わらっている雪瀬がみたい」

 雪瀬はめずらしく虚を突かれたような、当惑したような顔をした。頬に手を触れさせたまま、ばつが悪そうに視線だけをそらす。

「急に言われてもむずかしい……」
「……そっか」
「そもそも昔、先にそれを言ったのは俺だから。真似をするのは禁止」

 勝手な言いぶりに苦笑する。いとおしいという気持ちはこういうとき、ふっと風のように胸を吹きさらう。

「にたものふうふ、だからね」

 呟くと、雪瀬は瞬きをしたのち、淡く笑んだ。

「そうだね」

 夜着を引き上げて、触れるだけの口付けが降りた。おやすみ、と囁く声がして、また意識がゆるゆるとほどけていく。どうしようもなくかなしかった。自分の弱さが。いたらなさが。……ごめんね。ちゃんと留守、まもれなくて、ごめんなさい。胸中で何度もそんな繰り言がこぼれたけれど、雪瀬はそういう桜をゆるしてしまうと、わかるから。かなしくて、いとおしくて、涙があふれた。




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